権利は天然自然のものか(「愛育」1994年2月号)

権利という考えはむずかしいですね。「子どもの権利」となると、もっとむずかしそうです。若い人たちに、権利についてどう話そうかと苦労している、その内容みたいなところから、始めてみたいと思います。

生まれてきたときに、人はその一生をどれくらい決定されているのでしょう。全て決定されていて、どんなささいなことも必然なのだ、という考えはあります。でもやっぱり運とか偶然をどこかで認めるという人のほうが圧倒的に多いでしょう。

もっとも宝くじが当たったのは、必然だったか偶然だったかと言っても、それは知りようがないわけで、そうすると、宝くじを買おうか買うまいかと決めるときのほうがだいじになってきます。とにもかくにも宝くじは買わなければ当たらないのですからね。

生まれたとき、どんな遺伝的体質や素質をもって生まれたか、どんな社会制度の下に、どんな親から生まれたか、大枠は決まっています。女に生まれたら絶対に大学には入れないという社会は、つい五十年前までありました。でも、その枠がいくら厳しくても、人間は全て決定はされてはいないでしょう。

それは選択という行為から照らしだされます。選択肢が複数ある場合、どれかを選ぶ決定行為は、それは必然なのだと言われても本人にはわからないわけで、わけがわからないけど選んだという意識や、好きだから、よさそうだから選んだという意識が残ります。

ニホンザルがなまのイモより焼イモを文句なく選ぶのは、味をしめているからです。経験は選択の幅をせばめますが、じゃあ経験のはじめの体験をどうやって得たか、それにはやはり決断が要ります。

私たちは生まれたときからニホンザルと同じような決断もふくめて、無数の決断を日々刻々しながら、そして積み重ねながら、だんだん自分をつくり、世界を広げてゆきます。そのことがすなわち生まれたときの非決定性や自分をつくってゆく原可能性を指し示すのだと言ってもよいと思います。

「人間は生まれながらにして自由である」とご託宣的に言われても困ってしまうのですが、全ては決定されていないのだと言い換えると、受け身の中から能動的な意志が顔をのぞかせているような感じがしませんか。ただ、その感じを補強するには、場の雰囲気がだいじです。「他ならぬあなた」とか「他ならぬ私」に少しばかり敏感な雰囲気が必要です。

あるコト、あるモノを選ぼうとしたら、一つしか選択できないようなとき、あるいは自分ではない人たちの力が強くて「おまかせします」としか言えないとき、そういうときでも、この雰囲気がモノを言うのです。一つしかなくても「他ならぬ私」が選んだ、「おまかせします」と言ったのは他ならぬ「この自分」なのだということが意識できるかどうかが大きな分岐点です。

「こんな女に誰がした」とは唄の文句ですが、いや女以上に男がその類いのことを言うのですが、この言い方は「この私」の影を極力薄くする場の中で登場してきます。そういう場では、自己選択、自己決定が淡くされているために、生まれたときの、自由に結びついてゆくだろう、非決定性や原可能性もやはり薄くなってしまうのです。

「おまかせします」も自己選択、自己決定である、このことがしっかりしてはじめて、責任なる考えがはっきりしてきます。責任は自分の選択、決定に対して向けられます。責任とは、その選択、決定が誇れない、あるいはベストではなかったと気づいたとき、次の同じような機会には、違うように振る舞おうとすることです。また自分の選択、決定が他者に害を及ぼし、その償いが完全にはできないとき(それはほとんどの場合そうなのですが)、その償いを一生担ってゆくという形で引き受けることを指します。

責任は、自分の考え、行為について、「ねばならぬ」という内発的な覚悟、要請をまきおこすでしょう。それを内発的義務と呼ぶことができます。結局、選んでいることの自覚が原初的自由を浮かび上がらせ、責任、内発的義務を招き、それらが合わさって、さらに選ぶ自由の拡大を目指すことになります。

私たちは人生のどこかで、このあたりのことをしっかり確認しなければいけないのですが、ジョン・ロックは、それは成人のときにやるのだと言います。『市民政府論』(「政治二論」1690年)の中に出てくるのですが、彼はおよそこんなことを言います。

親権の保護から巣立つとき、それを成人というのだが、一つの選択をしなければならない。それは目の前にある社会を認めるかどうかについて、イエスかノーで答えることである。イエスならば、きみは今の社会を維持発展させる責任と義務を負う。ノーならば、今の社会を変革する責任と義務を負う。いずれにしてもきみは成人として社会に対する責任と義務をこれから果たしてゆくのである。

前置きはこれでほぼ終わりです。自分の「選択-決定」にこだわるかぎり、自分の「責任-義務」しか出てこないのです。

さて次へ進みます。この内発的義務が他の人に向けての広義のケアという形で現れたとして、そしてこの他の人に対して、いろんな人たちが同じような行為をするとなると、この他の人には、集団的に何かしてもらっている、すなわち「社会的にしてもらう」という経験や意識が発生して、それが当たり前のようになってくると、「してもらえるはずだ」という期待の念も発生してくるわけですね。

例えば赤ん坊のことを考えると、母親から始まって大人は文句なく世話しようという態度があると思います。赤ん坊は自分で世話されて当たり前とは思わないでしょうが、社会的には、「赤ん坊は世話されて当然」という通念が固まってきます。このような通念を権利と呼んだらどうでしょうか。

権利とは、「この人、あの人はこう手当されてあたりまえ」という社会的通念です。それを「この人、あの人」が自分に引き取って、「私はこういう手当てをされて当然」とすぐに言うことはできません。内発的な義務の発露を他者に投げかける、自分の選択を見つめる人がいっぱい居て、その人たちが社会という場をつくるときに、この場に権利という考えが発生するのです。

重力場、磁場というと難しそうですが、私たちはそういう場にいて、万人が重力や電磁力の影響を受けて暮らしています。それと同じような言い方で権利場というと、権利場にいる人たちはすべて権利のおかげをこうむるのです。ただ権利場は一人一人個人の、自分の選択にこだわる人たちがつくったという点で、自然の場とは違います。

最初に権利はむずかしい、子どもの権利はもっとむずかしいと言いましたが、赤ん坊や子どもは自分に権利があるなどとは言わないということに着目すると、むしろ権利の特質がずばり表れていると言えそうです。権利は社会的に成立しているのです。

ですから権利と義務を同レベルで考えてはおかしくなります。ギブアンドテイクの関係になぞらえられません。義務は徹底して個人レベル、権利は社会レベルです。投票する権利は社会的であり、投票行為は個人の義務です。権利にあぐらをかく、などという言い方は土台成立しないのですが、でも天賦人権という考えはひょっとするとそういう誤解を生じがちかもしれません。くどいようですが、オレに権利があるとかオマエに権利はないという言い方はないのです。

私は歳をとるにつれて、日本的世間なるものに少し向かい合えるようになってきたのではないかと思っています。その分、権利という考えが世間にもみくちゃにされてしまう、そして一方、世間に無頓着に権利が天然自然であるかのように主張される、ということに、ひやひやしています。

この文はまったくの序の序で、しかもシモーヌ・ヴェイユの考え方私なりに言い換えたにすぎないところで終わりですが、でもこのことを抜きに前に進んではいけないのだと思っています。


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