インタビュー

ボランティアをどんなふうに考える?

聞き手:杉浦光子

(日本ボランティア学会1999年度学会誌)

杉浦 私は、ボランティアとはお釈迦様が全ての人間に平等に与えた生老病死(いのち)を考える作業だと考えています。高齢者や障害者の介護など、具体的に活動することをボランティアととらえる人が多いけれど、私はそれだけをボランティアと言いたくない。子育て中だからボランティア出来ない、と言う人もいるが、ボランティアは暇がある人だけがやることではない。自分の生活に照らし合わせて、生活に根付いたことをしていくこと、自分の生き方を考えることもボランティアだと考える。活動信仰はやめにしたいのです。
最首

今の話にも出てきたけれど、普通の意味のボランティアっていうと、どこかに余裕があって、やはり優位性に立っているといえる。相手が何かで難渋しているわけです。困っている人、不自由している人に力を貸してあげるんだからね。それが結局は自分の自立ということにつながっていって、自立していることがボランティアの条件のように言われるわけです。自立とは「倚りかからず」なんだな。茨木のり子じやないけれども。倚りかからないで自分の足で立っているからこそ、困っている人の方にも目が行くわけです。どちらかというとその人たちは、自分の足で立てていないわけ。それに対して一番いい意味で自立を助ける一一自ら立つように助けることをボランティアという、それが近代的なボランティア像だと思うんです。自分が何かの条件を少しクリアできているということです。その条件とは、一般的には暇がある、子育てが終わった、お金の余裕があるとか、時間が買える、といったものです。そして一番の条件が自立しているというクリアなんです。これが、僕は非常に危険だと思う。自分の足で立っているというのは願望なんです。悲鳴みたいに口走ったっていいし、高らかに宣言したいということもあるけれども、自立はそんな簡単なことじやないと思うんです。

ボランティアの定義ですが、助っ人としてのボランティアは、どうしても優位性が絡まるからまずいと思う。次に善意だけれど、これもやはり優越意識につながると思う。ボランティアについて回るのは、いつも優越している人のイメージですから、これを壊さないといけない。そのためには自分をかえりみる必要があって、その内容はどのような意味でも自立はそんな簡単に出来ないということ。誰かに、何かに、すがって生きているのが人間と思う。すがって生きるというのは、さしあたり他の人にすがる、それも強い人にすがること。人間を越えて超越的な世界、超越的な存在にすがる。イデオロギーにすがるも入る。国家にすがるというような抽象的なものもある。要するに権威や権力、そして超越的存在、そして一番すごいのは物にすがる、お金にすがるですね。

何らかの形ですがって生きていることについて、それを少しずつ減らそうと思うことはわかるけれど、すがるという根本的なところを、やめることは出来ない。僕はそれを倚愛(いあい)と表現しようと思う。これについては岩波講座の現代社会学12巻「こどもと教育の社会学」(1996)の中に書いているんですが、自分より弱いものにすがることです。すがることを続けるために弱い人を大事にするわけです。私の子どもの星子への関係もそういうものなんです。もちろんどうしようもなく自分が優位であるということは抜けない。抜けないけれども、優位者が劣位者(弱者・自分より生き難い者)にすがることを持続させるために、弱い人を大事にするわけです。優位者というと角が立つだろうけれど、不意に何かが襲ってきたとき、反射的に闘争か逃走することに相対的に素早く反応する者を指して言うと思って下さい。大事にするということの中には、外面的には助けるとか手伝うとかいうことが含まれますが、それは自分がすがっていることを必要とするために助けたり、手伝ったりしているにすぎない。

倚愛という中には、ハンナ・アーレントのように、自分に頼るというのがあると思うけれども、その時、自分が弱いか強いかわからないわけです。大丈夫、私は孤独じやない、私と一緒なんだからと彼女は言うんですが。

朝日新聞に春日キスヨが書いている「介護にんげん模様」というシリーズがありましたが、そのなかで84歳の痴呆症の妻を介護している80歳の全盲の夫の話がありました(「朝日新聞」1999.12.4)。食事もセットを配達してもらって作る。触ればどんな物かわかり、料理法もわかって、おいしいと妻が言ってくれるとある。「お世話されている上で支えになっている人はどなたですか?」という質問には、「私の支えになっている人はおりません。自分です。それと家内のために一生懸命になっていることです」と答えている。自分ですと言うところの自分とは何かということについては、多分議論していくとわからなくなると思うけれど、家内に一生懸命というところは、すごくわかる。つまり、介護しているということでは、盲目である自分以上に奥さんの方が弱者なのね。その弱者を大切にして、しかもすがっているんだと思う。奥さんがいなくなったらこの人は生きられなくなると思うのね。

そういう姿を僕は倚愛と言おうと思う。自分が世話しながら、その人なしには生きられない。そういう弱さ。世話すれば世話するほど、自分で段々、だから世話をしているんだ、という必然性が自覚できていく。その過程を含めてボランティアと言うんじゃないかと思うんです。

なぜそうなってしまうのかというと、やはり大きく言って、自分がなぜ生きるかという根拠について、答えがないからだと思う。西欧由来のボランティアは根拠がある。だから僕らはボランティアって言うときに、すごく落ち着かない気分になるのだと思う。ボランティアっていうのは、やはり確信する世界がなくちゃいけない。その中で大きなもの、超越的な光を浴びながら、自分は義務を感じたり、こうしなくちゃいけないと思っている。確信する世界を持つことそのものがやはり強さなんです。神にすがっていようと何にしろ、強い態度だと思う。自立というのは、どこかでそれと関わりがある。自立というのは、人間に頼らないこと、物に頼らないこと、だけれどもある世界を信じること、超越的世界を信じることだと思う。だから宗教的世界を持っている人は、その意味では自立するんです。大きく言って、真理とか秩序とかを信じられる人は、自立できるんです。そこがね、どうもそうはいかないんだと思う歯切れの悪さ、それを僕は無拠派と言おうと思う。無党派に通じるところがあるけれど、無拠派は確実な世界がつかめない。抽象的に楕神的に確実なものがつかめない、だけども世界は大きいものだとは思っている。広がってしまって、つかみどころがないということにおいて、自分の器量の問題もあってつかみきれない。そういうことを指して無拠派と言おうと思う。

ノンセクトラディカルは中途半端な器量をはげしく否定する、自己否定も出てくる。そうなると生きるためには、とりあえず何かにすがらないといけない。とりあえずというのが大事です。そして物にはすがらないとしたら、とりあえず人にすがるしかない。ただそれが強者にすがるとなると、自分の妨げになるというか、自負が許さない。寄らば大樹の元じゃ、無拠派が許さない。そんなに容易いもんじゃない。もし強者とかそういうものに頼れるのなら、それは無拠派じやなくて根拠派でしょう。無拠派というのは、自分よりもっと優れたものとか、超越したもの、そういったものにすがれないから無拠派なのでね。無拠派としてとりあえずすがろうと思うときに出てくるのは、まず物なんです。サバサバしている物、だからお金が全て人生だと思うこともあり得るわけです。その対極に何か人のしないことをやっちゃおうという冒険がある。例えぱ太平洋横断の堀江さんのような人。江藤淳はアメリカの大学院生活の時に堀江青年に会ったそうです。そして虚無だ、虚無だからこそ太平洋一人横断が出来たと直観する。自分で自分をどうすることもできなくてね。そして何かすることの方に賭ける。そういう意味では三島由紀夫もそうかもしれない。虚無というひろがりを枠づけしたい。三島にとって天皇は枠、だから全共闘が枠づけしたがっていると見てとって、枠として天皇と叫べるだろうと言った。僕だって枠を求めていた。それがね、ストンと人にすがるというところに落ち着いた。

杉浦 障害児に限らず、孫に夢中になっている夫婦もいますね。それまで関係がぎくしゃくしていたのに、孫が生まれてから夫婦の絆が強まった感じがして。
最首 そうだねえ。生まれてくる者に対する熱中は倚愛なんでしょう。とりあえず人にすがるとき、すがる相手が無力じやないといけないから。赤んぼうは無力です。
杉浦 では、ボランティア活動することによって弱い者にすがってほっとするということなんでしょうか?
最首

そう、自分が生きていくよすがにする、張りあい、生きがいにするわけ。だから自分のためにやっているんだな。どうみても無償ではない。有償という意味は元々お金ではないからね。精神的に鍛えるという意味でもない。無償の愛などというものでもない。もう少し自分のことを考えている。とにかく相手がいなくてはいけない。そういう世界は、少なくとも分断された個人ということを基にした世界ではないので、相手がいなくちゃ生きられないという意味において、最低2人を単位とする世界ということになる。この世界は、今隠れてしまってなかなか見てとれないけれども、やすらぎとかくつろぎ、落ち着けるというようなことが表している世界のことです。

相手、無力な人がいなくてはいけないという意味で、自分のやっていることは、内発的な発動というより強制なんだ。義務なんだね。そうしないと生きられないという意味の義務だ。何かそういう人が欲しいと思っている。そういう人がいないと、人間は義務の観念を育てられない。つまり自立という不連続の個人という自分から始まった人間には、人に対する義務の観念を育てられないと思う。その場合は、義務の観念は、超越した世界、神様がしっかりしていなければ育てられないのではないか。それなくして義務はないと思う。

ボランティアを義勇人と言うでしょう。義務人と言ったらどうだろう。義務というのは、その人なしには自分は生きられないから、私はその人を生かさねばならない、という意味。相手もそう思うところに、いわゆる近代市民社会じゃない社会が生まれると思う。それは法の支配する大きな社会になるかどうかは別にして、家族に収まりきれず、といって地域も広いような、いわば親密エリアというような世界をベースとして作られると思う。いま求められているのは家族と地域の間のエリアです。地域は広すぎる、もう顔が見えないひろがりや関係を意味するから。家族でもなく、地域でもなく、しかも顔が見えて、そういう生かさねばならない人がいる。少なくともこの人だけ世話していれば私は生きられる、という人がいる。そういうような地域を作らなくては、とみんな思っている。どんな障害者もどんな人も、すがっている人を持つ方がいいと思う。相互義務です。そうしないと私は十全に生きられない、ほんとうの生きがいが他にないんです、というのがボランティアだと思う。ただ、ボランティアという言葉がふさわしくないので、別の言葉にしたいんだけれど、妙案が浮かぱないという現状。

杉浦 「日本ボランティア学会」で使っている「経験知」という言葉をどのように考えますか。
最首

経験知は、体験の積み重ねから抽出された知、それが熟すと智恵になる。経験から智恵へというルートが時間に追われて絶たれたときに、経験知が大事だという危機感が出てくる。僕はあまりそういうルートが絶たれていると思わないので、あまり使いたくはないけれど、やはり経験知として、もしそれをとり立てて言う必要があるとすれば、それは割り切れなさとか、わからなさということを大事にしなければいけないということだと思う。赤瀬川源平の著書「優柔不断術」(1999)の帯に「YESとNOのあいだに真実が息づいている」と書いてあるけれど、人間関係とか世界とかいうものは、そういうもの。YESあるいはNOの中に人間はない。それは、やむを得ない一瞬の切り取り方でね、常態は揺れ動いている。ただ思考の切り上げをしないと暮らせない。その思考の切り上げの極端な形としてYESとNOがあるにすぎない、でも普通はそれもなかなか言いたくない。実際は朝起きてから夜寝るまで思考の切り上げをやっている。ご飯をどのくらい食おうかとか、これでよしにしておこうなどとね。

僕らにとって大事な経験知とは、どこで切り上げるかの智恵だ。普通は周りの状況一一人がいて、その人との関係があって、物質も絡んで環境も絡んだ一一その場で自分が決断しなくても切り上げは決まる。しかしそれは割り切れずに何とか過ごしていますよ、ということの表れなのだ。割り切れないけれどもその場で解は決まってくる。それがファジーということ。わからないということは、実は元々は無拠派だから、世界はわからない、無拠派の一番大事なところは、私にはわかりませんということです。わからないということを常に意識しながら、とりあえずわかったり切ったり、分けたりするんです。言葉自体が、とりあえず分けているものだから、それはそれで使わなくてはいけないんだけれど、どんな言葉でもとりあえず分けているとして使っているわけです。ほんとうのことを言えぱ、なるべく言葉は使いたくないと思っている。障害者といい、健常者といい、とりあえず使っているだけの話で、健常者なんてよく考えたらいないわけです。とりあえず分けて、自分が何を選択してもとりあえずそういうことをしているんだということです。それは勝手も含んでいるし、我がままも含んでいるし、しかしその場の情況としては、必然でもあるのだ、という思いが大事だと思う。

世界の割り切れなさ、わからなさを学ぷ、それが経験知を学ぶということであれば意味を持ってくる。ボランティアがそういうことも目指す、それは自分の姿を明らかにすることに意味を持っているだろうということになります。杉浦さんの言っている「考えている姿もボランティア」に通じるでしょう。

杉浦 精神的なことではよくわかるんですが、やはり人間、そこまで自分を問いつめて考えていない、と思うんです。無意識にやっている、すがっていることは多いと思います。
最首 僕らの不幸は、オレの気持ち分かってたまるかという思いが、どうしてもついて回っててね。でもそれを言ったらおしまいなのにね。差別の問題でも障害者の問題でも、よくあるでしょう。
杉浦 そう、「障害者の親じやないと分からない」と、私も散々言われてきましたね(笑)。
最首 「私の気持ちわかるはずがない」と言われたら、コミュニケーションが絶たれる。そうするとそういうことが言えるというのは、それでもコミュニケーションは絶たれないということに甘えているか、絶たれてもかまわないという確固とした地盤を持っているかです。
杉浦 言葉ってすごいですね。関係をめちゃくちゃにしてしまう一言ってありますね。
最首 ある。普通はそういう言葉を言えるはずがないけれど。意外と脳性まひの団体はそういうことを言ってきたし、解放同盟も公害患者も言ってしまう。奥底は自分の気持ちだってわからないということの表現だということが大事なんです。
杉浦 私の書いたものを読んだ活動仲間から“人権意織が薄い”と言われ、立ち上がれなかったことがあります。
最首 人権とか権利という言葉をそう簡単に使えないと思っています。「星子が居る」(1997)で少し反応があったのはそういうことだった。川本隆史のような社会学者(管理人注:正しくは社会倫理学者)が人権の組み直しの努力をしている。あまりにも、切断された個人という神話に基づいた、人権とか権利だからです。絶対不可侵の権利などあるはずがない。そういう根拠はどこから出てきたか、そういうことを考えないで、旗のように人権や権利を振り回すのが一番いけないと思うんだ。人権や権利は、使うときにはよほど注意しなくてはいけない。「そんなこと言う権利あるのかよ」なんて、人を責めたりはしたくない。「私の気持ちが分かってたまるか」とか「あなたは人権を尊重していない」と言うのは、どこか高みに上っている、傲っている。
杉浦 昨日まで予測だにしなかったことですが、関係がワーッと崩れることってあるんですね。自分自身、反省したのは、結局その人と関係が作れていなかったんだということです。
最首

強固な関係はそう簡単に作れません。森有正(哲学)は、日本的な人間関係の基本単位は、「あなたのあなたとしての私」と言う。あなたという二人称がいて、二人称から見たあなたが私だ。どうしても個人にはならない。中根千枝(文化人類)は、アレイみたいな、モチをひき延ばしたような関係図式のなかに私やあなたが入ってゆく。僕にとっては、「あなたのあなたとしての私」の、そのあなたとはなんぞや、ということが大事。中根千枝の場合は、あなたはふつう偉い。偉いあなたをたてる。ただ考えてみると、人間関係はシーソーみたいになっている。夫婦も友だちも対等じゃ成り立たない。どちらかが偉くて、そして偉さがシーソーのように移り変わる。それが固定されるとタテ社会になる。シーソーが固定して相手が常に上にいる、それをずうっとつなげていくと天皇にまで至る。

それを逆にするとどうなるか。弱い方をシーソーの上において、下の重い方が上の軽い人を頼る。そういうのを倚愛と言いたい。天皇制の深層にもそれがあるかも知れない。人々は弱い天皇にすがり、愛しているのかも知れない。シーソーの上の方の弱者を立てて、その照り返りとして私を定義する。その時注意したいのは、あなたは、すぐには固有名詞にはならないということです。おばあちゃんだったり、赤ん坊だったり、子ども一般だったりしてもいい。

私は自分というものを、どこかでぼんやり持っているけれど、それはあなたを通してしか定義できず、しかもあなたは固有名詞をはみ出す。おばあちやんとか、お父さんとか言って済まされる二人称。お父さん、お母さんとみんながそう言うことが成り立っている場というものがあると思う。それを蔑視だ、みんな名前を持っている、というけれど、150年前は名字などないし、名前だって愛称に近かったことを考えないと。

杉浦 しかし、人間て弱いですね。
最首

いろいろなことが、そんなにはクリアカットにならない、という弱さ、あるいはそういうことがわかっていない弱さというべきでしょう。さしあたり言うことは、思いあぐねて言うような表現の連続でしょう。文章もそうだ。そもそもは、人間関係のあり方の基本を、1を単位にするか2を単位にするかということにある。2の単位は強くならない。片岡義男が「日本語の外ヘ」(1997)で「日本語に英語の『I』にあたるものがないとはどれほど大変なことか」と言っている。大変というのは、だから原理的に強くなれないというふうに読まないといけない。だから強くなりたい、“I”をたてようというのはわかりますが、そう簡単にたてられるものじやないんでね。むしろ“I”がない言葉になってしまった、そのことをもっと僕らは考えてみなくてはいけない。存在を先立てて考えられたのは、超越的な唯一者の下でのことだった。そのような唯一者の念が希薄だと、関係を先立てることになる。関係は二項を必要とし、人間でいえば、二人場ということから出発することになる。まず「関係ありき」です。

“I”がないというのは、柳田邦男の「二人称の死」とも呼応している。「二人称の死」がなおざりにざれてきた。それは“I”がないということをなおざりにしてきたことだと思う。日本的な意味でボランティアが根付くとしたら、“I”がないということ、そこにしか根付かないと思うんだ。ボランティアのうさんくささは、強いということ、つまり“I”がある、あるいは“I”があると思っているところにあるんじやないか。そういう人にやってこられると、よけいなおせっかいやかないでよと言いたくなる。

一心同体とは言わないが、自分がいろんな人とどこかでズルズルとつながっている。悪く言えぱだらしなさ、よく言えば親密さというものが、結局は日本の社会の根底にある。その弊害はいっぱいある。ムラの弊害はいっぱいある。でもそこにしかやすらぎを持てない、それを根拠にして生きがいを持って生きている人間がいっぱいいるんです。そこらへんは、ボランティア学の大きなテーマだと思う。マイナスに考えられていることを逆転して、プラスに見たり、マイナスとプラスが相互的に同時に存在している姿を見ないとね。一方的に善で悪を切ると、ボランティアは鼻持ちならなくなってしまう。

杉浦 いま最首さんのやっているFHS(みんながそれぞれに生き生きと暮らす街を)は、ボランティアという感じの人は入っていないんですか?
最首 ボランティアという言葉は使っている。ボラさんとかね。ボラさんはボランティアの概念をどこかでくずしている。
杉浦 カオススペースとありますね。最首さんが目指す作業所では、障害者ひとり一人がその人にあったことをやるようにする、と言っていましたが、それは出来てきていますか?
最首 なかなか難しい。現実には、障害の種類を問わずというのは非常に難しい時があるね。知的障害の人と精神障害の人が一緒に居るのは、歴史をかかえているから、つまり先入観などいっぱいあるから、やってみるといろいろ難しい。今やっている「カプカプ」は、在援協(在宅障害者援助協会)の管轄の作業所で、横浜市には今100いくつかある。肢体不自由、知的障害、重度障害というように分けているが、重度障害の作業所はほとんどない。精神障害はもともと保健所の管轄になる。そういう区別をなるべくなくそうというのが「カプカプ」なのだけれど。
杉浦 星子さんは「カプカプ」にいるんですか?
最首 そう、作業所と言っても、星子は作業するわけではありませんが。
杉浦 「FHS」の活動概要を教えて下さい。
最首 いまのところ、「カプカプ」の喫茶店とか、英字新聞で買い物袋を作ったり、百屋(自然食品を売るお店)や珈排工場(コーヒーを煎って売るお店)に働きに出るとか、田んぼに出るとか、星子のように寝っころがつているとか、です。「カプカプ」は団地の商店街の30坪の角店なので、喫茶店としてやっていけている。
杉浦 こういう所をやるというのは、構想を立てるのは分かりますが、その中に最首さんがいるのはピンとこない部分がありますが。
最首 僕は実際に体を動かすわけじやないからね(笑)。星子が居る場所をつくろうという小さいんだか、大きいんだかわからない望みが基本だからね。星子が居る場所というのは、ほんとうにない。みんなが星子を可愛がってくれるから、寝そべっているだけにしても、居場所にすこし近くなっている。埼玉県にいた時、町の新設の豪華な作業所に短期間通ったのだけれど、1カ月も経たないうちにそこは作業、作業になってしまって、処理しきれないと職員が頑張ってやるようになり、星子は完全にじゃまになってしまった。だれも世話してくれない。作業所というのはそういう所です。星子も入り口に寝そべってしまって入らないんだ。「カプカプ」をそういう場にはしたくないなあ。そのためにはいろいろな知恵をしぼって余裕を持たないと。作業所は労働しないと人間じやないというイデオロギーがしみこんでいる。
杉浦 最後にボランティアについてもう一言いただけますか。
最首 一言付け加えるなら、「ボランティアを目指す」「ボランティア募集」もまだいいけれど、「ボランティアをやろう」と呼びかけること、「ボランティア育成」というのはおかしいと思っている。


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