書評「福祉の国のアリス」(山内豊徳著・八重岳書房)

「週間読書人」1993年3月22日

著者は1990年12月、環境庁企画調整局長として水俣病問題に取り組むさなか縊死した。北川環境庁長官が水俣を訪問した日の朝であった。この本は遺稿集であるが、編者はあとがきで、友人の森山真弓参院議員(当時)がお棺に向って「官僚に徹しきれなかったのね」と呟いたことを紹介している。

この評の意味は著者の生涯にとって重大である。この言葉をもし「官僚に徹すれば生きてゆけた」と翻訳できるとしたら、そのあたりに冷気が漂ってくるようであるが、著者ははたしてうなずいただろうか。

この本の中心部分は、第一部の「福祉の国のアリス」を含む福祉行政に関する論文であって、さらにその中心はいわば役人論と言ってよい。著者は「“ただの役人”という用語にひそんでいる恥ずべき公務員像を憎む」と激しく言う。そして人格的主体の「ク二」の僕として優越的に国民の指導と保護を行う役人に対置して、人々への変ることのない好意や関心を維持し、技術的サービスを理性的にみがく公的スタッフ像を描く。ソーシャルサービスは、客を見たら万引と思うような店員であってはできないだろうし、数的測定を主としてはならないと言う。

そのような官僚として結局は徹し切れなかったという批判なら著者は引き受けるのだろうが、ただの役人をやってればよかったのにという慰謝は、たぶん著者には慰謝にはならないように思われる。

お上意識を払拭した人々が社会的なサービスを社会的人間的適性をもった技術マンに依託する、そのような望ましい実務専門家の一人を私たちは失った。この本を読むかぎりその思いは消えない。

では、水俣病処理について国に責任はなく、当然和解に応じられないと繰り返した著者の態度についてはどうか。水俣病に関する中央政府の責任については、発生、拡大、処理の三責任が問われ続けてきた。なかでも重大なのは拡大責任である。水俣病の爆発的発生から3年目の1959(昭和34)年12月、有機水銀が原因であることがつきとめられた。有機水銀はどこから来るのか研究陣が次のステップに踏み込もうとした時、厚生省の特別部会は解散させられ、通産大臣池田隼人は有機水銀の出処は軽々に言ってはならぬと閣議で発言した。以後9年間政府は水俣病を全く放置し、被害者を飛躍的に増加させ新潟第二水俣病を発生させた。高度成長の真只中、水俣病は文字どおり圧殺されたのだ。

著者が言う公務員は国を無条件に立てるものではない。どんな国にするかの実務を杜会的人間的に寄託されているのであり、政冶と一線を画する基盤に立っているのである。この本には水俣病のこのような問題についての直接の言及はない。ほんとうに国の責任はないのか、著者は自らの公務員像に基づいて所信を残すべきだった。もし残されていて発表されないのであれば、それも著者の意にそわないのだろうと思う。

著者の長年のレパートリーである福祉行政の面からすれば、著者の水俣病に関する主務は処理責任をめぐってであった。それは「水俣病の不安をもつ人々に対する健診制度と医療費負担」という起案になってあらわれたが、とうてい水俣病に苦しむ人々の納得するものではなかった。なぜか。

水俣病は現在進行形の病いである。重金属中毒の常識を越えて病状は多彩を究める。そのような病いに対してあるラインをひいてここから先が水俣病と断定するのは医学ではない。それを高度の専門医学と言いくるめ、医学者に断定を迫ったところに行政の責任があるのだ。

行政の任務は、その地域に特有に出る症状を軽度重度にかかわりなく水俣病に関係ありと認め、被害者の実態把握と健康保証、生活の維持に努めることである。行政自体の担う補償については、五万人規模ではとうてい社会負担に耐えぬから、仕事のできる状態に応じて我慢してくださいとひたすら頼むことである。

著者の福祉行政論を読んでいると、水俣病についてどうしてもこのようなあるべき対応が浮んでくる。やはり著者には生きて実践してほしかった。


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