ちがうこと・おなじこと〜人間の尊厳ってなぁに?〜

北星学園新札幌高等学校・第23回憲法を学ぶ会講演

お手元に簡単に書いたものがあると思いますが、大変難しそうなテーマですね。あまり時間がないのてすが、このことをめぐって少し話してみます。

<おなじこと、ちがうこと>と書いてありますが、これは、ワンセットになっているものです。<おなじ>ということを考えるには、<ちがう>ということが前提されていなければ考えられません。<ちがう>ということは、<おなじ>ということを前提にしないと考えられません。ただ私たちは同時に考えることができないものですから、非常に不便ですけれども<おなじこと>と<ちがうこと>を一応分けて考える。これは、非常に根本的というか、分けられないのだけれども、分けて一応考える。<ちがうこと>ということを考えている時も<おなじ>ということを考えようとすると、その裏に<ちがう>ということが貼りついている。こういうのを難しく言うと、相補性といいます。

たとえば、紙は裏表がある。表だけの紙、裏だけの紙というのはない。表と裏はくっついている。しかし、反対ということを表そうとする。表と裏で、まったく対極的な違うことを表そうとする。表裏一体という考えも出てきます。レベルを一つあげた考えです。普通は表か裏かということをやります。一年生も含めて、少しずつロジック、ロジックというのは言葉ということですが、論理を学ぶ、あるいは、言葉を学んでいくということを諸君はやっているのですが、その中で、普通に考えていくのは<あれかこれか>ということ。どっちかを考える。イエスかノーかということです。ところが、表裏一体という考えは、<あれかこれか>という考えでは、どうしても解けなくて、あれもこれもというふうにしたいときの考えです。直感的に欲張りのように思われますが、そういう考えがどうしても出てくる。諸君が学ぶ自然科学、その中の生活に関係のある理科では、<あれかこれか>という、非常にスッキリした考えを学ぶ。ただし、スッキリしていても難しいのだけれど、逆にスッキリしていることに、本当にそうかという疑間が沸いてくることもある。そういうスッキリしたものは近代科学というのですが、<あれもこれも>という欲張った考えは、実は、現代科学という分野で登場してくるのです。

<おなじこと、ちがうこと>ということで、何を考えるか、まず切り離せて、しかも、切り離せないという、面倒なことが出てきましたが、だいたいこういうことを考え出す、その切実な気持ち、つまり、どうしても考えなけれぱならないという衝動は、いつ始まると思いますか。一番目、私はあなたと違う。同時に二番目、私はあなたと同じ。これは、第二次思春期という、ちょうど諸君の年齢にあたりますが、中学から高校へ入る年齢というあたりが、内心どうしても考えなければならないというつき上げる気持ちが起こってくる。考えなければならないという言葉にもならないのですが、食べたいとか遊びたいとかという欲求とはちがう気持ちが初めて切実さを帯びてくるのです。

人間の一番大事な営みというのは、やはり子どもをつくることです。生物一般では、子どもをつくると、それで役割を終えて死んでいくという種が多い。子どもを作って死ぬという期間が非常に短くて、一日とか二週間だったり、しかも、その準備過程が七年もかかったりする。いちばんすごいのは百年かかるのがあります。たとえば、竹の一種ですが、日本では、六十年ごとに花が咲く。ところが、中国には、百年・・・・という種類があるそうです。生物は、ほとんど、子どもを作るために準備をして、子どもをつくって死んでいく。その後のことを配慮する生物もいます。昆虫というのはすさまじいですが、卵を産んで、自分に麻酔薬を打って死んでいく。というか眠る。防腐剤も兼ねてというか、自分の体が腐らないようにする。そして卵が孵ると幼虫は母親のからだを食べて育つ。そのために、母親は新鮮さを保つような形で死んでいくのです。

実に不可思議な話になってきますが、子孫を残すことがいかに大事かということです。私たちは複雑になってきたけれども、根本はやはり、いかに子孫を残すかなんです。子孫を残すためには、今私たちは有性生殖ということをやる種に入っていますから、動物では、雄と雌、人間では男と女が出会わなければならない。人間では、非常に複雑ですが、生物では非常に簡単明解です。それは、完全に雌主導ということです。雌のほうの条件が合わなければどうしようもない。

人間の場合は、こみいって複雑怪奇になってきて、どっちが主導ともいえないような形になってきましたが、それでも、目分を目立たさなければならない。動物の場合は雄がそれをするのですが、人間の場合は男も女もそれをやる。目立たせるというのは、相手の目にとまってもらいたい。ここでちがいということが大事になってくるのです。みんな同じ背丈だとしたら自分だけでも、ちょっとは顔を出さなければならない。他の人と違うということを、異性にディスプレイしなければならない。これは、無意識ですが、非常に切実な願いてす。諸君もそれをしているのです。どんなにささやかでも、私が他の人とはちがうということを示したい。非常に複雑になっているから、それが男の生徒だったら、すぐに女生徒に向かってという意識はなくなっているかもしれないけど、つまり、もっと一般化しているかもしれないが、根本は異性に対してディスプレイしているのです。女性は男性に対してディスプレイし、それが目に見えることから始まって、だんだん目に見えないことにも及んでいく。化粧をしたり、装身具をつけたり、髪を染めたりするのも根本的には子孫をつくるということにつながっているのです。

こういう説の代表は、フロイトという人ですが、目に見えないところへそういうエネルギーを振り向けていくことが、学問とか、芸術とかに進んでいって、人とちがうということを示したくなる。人生の中で生殖につながる生理的な変化が始まるころでなければ、頭はそうはなりません。目立ちたい、人とちがうことを証明したい、というのは<いのち>の流れにつながっているのです。ところが、ちがうということは、反面非常にこわいことです。目立つと攻撃されやすい。

三番目に人は集まる、それも重要な性質です。人間の中でも、集まりやすいのと、離れて暮らすのがありますが、生物ではヒキガエルのような離散型の典型があります。一年の三百六十日くらいは雄も雌も一人で暮らす。三月雄と雌が一斉に池に集まってくる。生殖が済むとまた一匹ずつに分かれる。一人で暮らす。人間の場合でもそういう傾向がないでもない。ただ、集まるということは、生物の根本てす。その中で自分が目立つと大変怖いのてす。なるべく目立たないように隠れたい。人の中で首だけ頭が出ていたら、首を引っ込めようとする。ちがうというのは非常に怖いのてす。なるべく同じような振る舞いをしたい。これも、目に見えるところから、目に見えないところまで広がっていく。同じでありたい。片一方でどうしても目立ちたい。

<おなじこと・ちがうこと>を<目立ちたい隠れたい>で言い換えてみましたが、一般的には、<ちがう>ということは、直感的にわかる。自分が人と違うということは目に見えるところでわかる。直感的にわかるのですが、どうして<ちがう>ということがわかるかという理屈になると、実はむずかしい。そこでふだんは、同じだということを設定して、それに照らして、端的に私はあなたとは違うと思っているのです。

ただ思春期には、それだけではすまなくなり、もう少し積極的になるのてす。てもちがうと困ることが起こります。

たとえば、十人十色と言います。価値観が違う、考え方が違う。何が大切かということに対して、みんな違う考え方を持っている。それでは生活できない。どこかで同じ事がなければ共同では暮らせない。この往復運動みたいなことが、私たちのなかで渦を巻きはじめる。ちょうど諸君が感情的にも不安定になったり、自分で自分がどうしようもなくなった時には、根本的には人とちがいたい、そして人と同じでいたいという気持ちが、解決つかない形で自分を動かしていると思っていいと思います。自分でふりかえって、今日の朝からのことでも、そういうことが出てきていませんか。<同じである>ということは、安心できる。ところが、同じであると我慢ができない。それで違うことをやる。目立ちたい。目立つと怖い。普通はどうするかというと、同じようなグループ(同類)かなと思ったのがいっしょになって、人と違うことをする。同じでありながら、人とは違うということを集団でやりはじめる。そのほうが、少し怖さが減る。一人でピアスをするのは、非常に勇気が要りますが、集団でピアスをして、ピアスをしていない人との差をつけるほうが少し怖くなくなる。本質的に人は集まるという性質を持っていますが、集まるということの中で、<おなじこと・ちがうこと>という振り子のゆれが繰り返される。社会が少しずつ複雑になってくると<おなじこと・ちがうこと>も常に複雑になってくる。その中で役割分担というのが決まってくるのです。

いまも、ここでは私が<話し手>という役割で、諸君は<聞き手>という役割です。それが、聞きたくもないのに聞かされている、強制されているということになると、心が動き始める。人が集まって暮らす時の、男女の差、それは根本的には子孫を残すことの役割分担です。その差が土台になって、自然のあり方と相まって人々の役割分担が決まってくる。リーダーが出てきたりして、それに服従する。その中で、どうしても我慢できないという、強制されているのがいやだという気持ちが湧いてきます。

忘れてはいけないのは、本当に自分は強制されているだけなのかということです。人間の歴史をみていると、そういう人間はどうもいそうもない。百パーセント強制されているという人間はいないのではないかという思いにかられます。諸君の気持ちの中で、それがどのくらいのパーセントなんて言えないかもしれませんが、百パーセントじやない気持ちというのはあるだろうと思います。もの珍しさにしてもなににしても、今、壇上の男が何をしゃべるか、ちょっとでもそう思ったときには、自分は百パーセント強制されているということにはなりません。強制されて一時間も座っているというのはできるでしょうか。非常に素直に、自分は立って外へ行きたいと思う。それを抑える。その抑える条件全部をはいで、最後に残るのはなんなのか。自分が自分を抑えているわけてす。いろいろ、経験的に刑罰や不利を避けるために、人はそのように行動するけれど、最後には自分という自発性がどうしても残るのです。例えば『何を食べたい』と間かれて、『別に好みはない』と答える。お任せしますということです。お医者さんに行っても『お任せします』という。これは何なのでしょう。<お任せします>と言っている自分がいるわけです。しかも、自分がどんなことをやられても、いいというわけではない。

子どもの場合は、『何を食べたいぃ』と親に言われて、『別にぃ』と言う。親がじゃあ『チャーハンにしようね』というと、子どもは怒り出す。『じゃあ、何が食べたいの』と言うと、『別にぃ』と言う。自分で自分のしたいことが解らないから、『別にぃ』と言っているのだけど、それはそれで、自分が入っている。人間というのは、強制されて自分というものがまったくないという状態でやっている場合でも、どこかでそれを認めている自分がいるのです。それは、集まるとか、子孫を残すとかいう、本能的といえる、理屈ではないところの源に関係がありそうです。どこかで自分が残ってしまう。自分は『どうでもいい』といいながら、何かが動いてしまう。そういうあり方を自発性という言葉で表します。どのような状態にあっても、それが残っている。

言葉にもそういう機微を表しているのがあります。典型的なのが、<subject>。主語とか主体という意味ですが、同時に家来でもあります。<subject>といえば、条件づけられたり、服従したりする。主人と、家来の両方を表そうとする。ひとつの言葉で反対の意味を持たしている。命令に服従しなければならないとき、服従する自分が相手のことも考えている。命令者が命令して、自分がそれに従っている。

陛下とか殿下というのは、日本語ですが、陛下というのは、階段の下の人なんてすね。殿下というのは、建物の下に座っている人です。もともとは、偉い人に声をかけられないから、取次ぎの人のことを陛下とか、殿下と言っていたのだそうてす。そのうち、その偉い人そのものを陛下とか殿下とかと、言うようになったのです。自分は下にいて、相手は上にいて、相手からみると自分は下にいる。そういう相手を陛下と呼ぼう。そこには、絶対服従のような形でいながら、その立場を両方自分の中に置いて、その上でそれに従おうとする自発性がずいぶんでています。

ガレー船というのは、奴隷が権(カイ)を漕ぐ。その壁に自由という言葉が書いてあるというのです。ガレー船の漕ぎ手は鎖でつながれている。そういう極限的な状態でも自分の意志が入って漕いでいる。そのへんの人間の動かしがたい「何か」を「自由」と表現しているのです。「自由」は自分の意志の表れであります。人間の場合にはこのようなことを、思春期あたりから切実さを込めて考えていくということになります。

自分というものは非常にやっかいだけど、人から百パーセント言われて暮らすのではないという気持ちというのが、少しずつ高まって、歴史という時間の中で、結晶していく。その歴史の中で同時に絶対的な命令ということも出てくる。

王様と家来はそのような絶対命令と関係があります。そして言葉がおかしくなります。ユアマジェスティーと三人称単数で言いながら二人称ですし、王様は自分を複数扱いする。王様と家来は、生まれながらにして質が絶対的にちがうと言いながら、「意のままにならない自分」がちらついているのです。諸君が習うのに、有名な<王権神授論>というのがあります。神様が王という権限をある家系に与えて、その家系は世襲的に王様になる。生まれながらにして王、生まれながらにして家来、という二種の人間がいる。

ロックという人が聖書を使いながらこの<王権神授論>を打ち破りました。聖書を使って、王権は、長子相続のはずだ。長子は、一番上の男の子、あるいは女の子でもいいのですが、一人しかいないはずだ、それなのに、十七世紀のヨーロッパにどうしてこんなに王様がいるのか。おかしいではないか、この理屈が通る。社会的に、もともと王様と家来が区別されているのはおかしいという考えは、成熟していたのでしょうが、それで、人間は一種類だということになる。ただし、ロックの目には白人という一種類しか映っていません。あるいは、ジェントリーしか視野に入ってない。農奴という奴隷状態の人も、色の黒い人、黄色い人も映っていないと思われます。それにしても、王権神授論というのが打ち破られたのは大変なことなのです。では、人間というのは同じなのか。

いよいよ平等ということが問題になってきます。人は皆同じだということ、それはいったい証明されるのか。王様と家来という絶対的な区別はないとは言ったものの、人間は平等かというと、ヨーロッパにおいても問題だし、もっと広げて色の違う人、目の色の違う人まで広げて、同じなのかという問題は歴史上次第に切実になってきました。それは、社会がそうとう煮詰まってきて、人が強制される状態がもっとひどくなった生活の実態があったからです。ここらへんが、諸君がこれから少しずつ勉強をしていくのですが、平等と言うのはそう簡単なことではありません。

ひとつでも条件が入ってくると平等ではなくなってしまいます。<subject>というのは、条件によってという意味もあります。何かの条件をつけると人間は同じではない。条件をつけて同じと言うのは対等、均等、画一ということです。これは全部<土俵>を設定するのです。土俵を設定すると、その上では<小錦>と<舞の海>は対等に戦うのです。<小錦>というすごい体重の人と、<舞の海>という一番軽量な力士とが、土俵を設定すると対等に戦う。親と子どもが対等だとか、先生と生徒が対等だとか、医者と患者が対等だとか、みんな土俵を設定すればそのとおりです。画一的な扱いも、集団の規模が大きくなってくればやらざるを得ない。その条件とは<違い>をつぶしていくことなのです。たとえば名前などいらないのです。諸君は生徒A、生徒1、生徒2でいい。軍隊というところはそうです。名前がなくなって、全部画一に階級ごとに扱う。条件さえつければ、直感的に違う私たちは同じになれるのですが、それを平等とは言いません。平等というのは究極的に同じことです。条件をゼロにするということです。それぞれの人間の特有な営みや個性を全部、ないということにしようと言うのです。そうすると私と君が平等であるというわけです。君と私は、外見から考え方まで違う。年齢もちがうし、生まれたところも違う。その「ちがい」を全部なくそうというのです。

同じということはだいたいわかる。君の言う赤と私の思い浮かべる赤はだいたい色が同じということです。でもまったく同じということが言えるでしょうか。そのためには個々人の条件を全部剥いでいかなければならない。すべての条件から免れる。でも全部はずしてしまうとお化けみたいになる。全部はずした人間を、たとえば<ただの人>と言いましょうか、でもそんな人はいなのです。だけど、それを考えたい。考えないことには平等と言うことは出てこない。平等は非常にアクロバットな考えです。平等というのは、人が百パーセントの強制には耐えられない。反抗する。反抗しながら受け入れていることもある。そういうことから始まって、ついに、頭の中で考え出していったことなのです。無条件、無資格人間がそれにあたります。そういう人間は一瞬いるかもしれない。自発性が一瞬ないときがあるかも知れない。諸君が生まれた瞬間そういう人間かもしれません。一瞬無責任、自分が生まれたことについて一切責任がない。だけど、一声、声を出したらだめです。オギャーと言ったらだめです。自分でどんな声をあげるか、自分では制御できなくても、自分がか細く泣いたり、元気に泣いたり、すぐにオッパイを求めたり、それは諸君が生まれた瞬間の、次の瞬間の諸君の選択です。

一日二四時間の間、無数の選択をしながら、私たちは育っていく。その選択のありかたというのは、同じであるはずがない。今日も諸君は朝から色々な選択をしてきたのです。選択の幅は狭いときもありますし、あれもこれも欲しい。チャーハンもラーメンも食べたい。チャーハン・ラーメン・半ライスとかささやかな欲張りは実現されるのですが、無数の選択は、実はそこに自分の自発性を浮かび上がらせるわけです。選択をしたら、それは自分がやったのです。『お任せします』と言った自分の責任があるのです。

それを全部剥いで、抽象的なお化けみたいな人間を考える。それは、自己意識としての責任も結局は限定されたまとわりつく諸条件から発生している。その最たるものが、生まれつき、王様に生まれついた、家来に生まれついたという差ですが、それは我慢できないと思う。その行き着く最終のところが平等ということです。まったくの抽象です。そんなことを考えなくて済めば幸いともいえるでしょう。平等というお化けみたいな、何者でもない人間。

人間規定としては、人間は人間から生まれて、人間に育てられるという定義がありますが、それでも狼に育てられたら人間ではないのかというと、また問題が生じてくる。人間はほとんど定義ができない。定義しようとすると人間の枠を外れてしまうかもしれない。全部条件をはずしてしまうと、動物と人間とどう違うかということにもなりかねません。宇宙の中での森羅万象というのと同じになってしまうかもしれない。さらに進むと<無>とか<空>になってしまうかもしれません。でもまったく同じ状態を作ると、今度は何も起こらなくなる。最初エネルギー状態がちょっと違わないと私たちのようなものはでてこないのです。まったく同じ事の中から差が出てくる、違いがでてくるにはどうしたらいいか。まったくの無条件・無資格ということを考えると、こういう問題が出てくるのです。

元はと言えば切実だったのであり、切実さの根拠というのは子孫を残すことです。しかし、そういう平等を社会の約束ごとにしようというのは、すごいことです。平等は現実にはまったくありえないことです。でもそれを徹底しないと、逆に多様性や差異が保証されない。安心してあなたと私が違うということが言えなくなる。あなたの考えていることと私の考えていることは違うのだからということの背景には、無条件にあなたとわたしが同じだということがあるのです。俺の気持ちなんてわからない、わかってもらってたまるかと言います。あなたは恵まれた生活をしているが、わたしのこの生活、この気持ちがわかってたまるかということを相手に言う。どうして言うのだろう。絶対にわからないことを相手に言ってもしょうがない。それなのにどうして言うのか。それは、結局はわかってくれると思っているからです。どんなに悪態をついても、結局はそれが相手の心に通じると思っているからてす。通じる根拠というのは最後には相手と私が無条件に同じでなければならないのてす。それが平等てす。

平等というのは全部の条件を外した、まったくの自由というところに成り立っている。現実には私たちはまったくの自由ということはない。生まれたとたんはあったかもしれないが、次の瞬間から私たちは自由ではない。それは選択したからです。選択によって自分で自分を狭めていったり、自分をつくったりするわけです。相補性というと、すこし難しそうてすが、<おなじこと・ちがうこと>は、対極的でありながら、結局は一体化しているということてす。それと同じように、自分の自発性というのが結局は自分をしばりながら究極的な自由というのを導き出している。平等ということは、そもそも自分は誰ともちがうことをつき詰めるところから浮かび上がってきたのです。

人間の尊厳というのは、どのようにしてもつぶされない人間の自発性とそこから導かれる何者でもない完全な自由平等とが、逆説的で相補的であり、そういうふうな人間の不思議さを込めて言っているのです。平等を考える限り、人と自然の差もどこかで消えていくことがありますから、人間だけが尊厳を持っているわけではない。その意味では宇宙的尊厳といっていいのだけれども、さしあたりは私がこういうことを考えたり、諸君が聞いたり、それをどうするかは諸君の頭の中の処理です。頭の中でどんなことが渦巻いているかということは解からない。わからないけれども、人類的に考えると、人間の尊厳ということが広がってきた。最初チンプンカンプンだったお化けみたいな平等ということが広がってくるところに、人間の頭の中のおかしさということがある。

私たちの頭の中はいろいろとわかりませんが、同時並行的にいろんなことを考えるのはたしかです。今日の昼ご飯をなににしようかと、どんなに集中して勉強をしていても思う。ただ、言語というのは非常に不便で、それをひとつひとつ順序にしたがって並べないと意味が生じないので、諸君が一瞬頭の中で考えていることを言葉にしようと思ったら、すさまじい本の量になってしまうかもしない。その意味では言葉によるコミユニケーションというのは非常に限定されているのです。頭の中がどうなっているかは誰もメカニズムはわからない。わかったと思っても、土台のところでほとんどのことがわからない。<いのち>もそうです。子孫を残すということもそうです。そういう中で人間の歴史を見ると大方の人間がつめていく考えというものがやはりあります。人間の尊厳や平等の考えがそうです。

憲法というのはそういう考えの凝縮体だと思ってください。そして人間のものすごい歴史がつまっているのです。個人史として、人間の尊厳や平等を考える出発点はちょうど諸君のとしごろからです。そして、成長して考えていく中で同じ結論が出てくる。そういう凝縮体が一つの形となったのが、憲法だというふうにしてみつめ、そして憲法も成長するのだということを考えてもらいたいと思います。


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