「ただの人」であるということ

「私の読書生活」週刊朝日1998年3月6日号

某月某日

「娘天音妻ヒロミ」(山口平明著、ジャパンマシニスト)を開く。著者と生活環境がすこし似ているので、そして心理的にはもっと親近感を持つので、なかなか開くことができなかった。

私には二十一歳になる、目の見えない口をきかない自分では物を食べることができない、生き難い星子という娘がいる。著者には、十七歳を迎えようとする、もっと生き難い寝たきり同然の娘がいる。著者と私には、父であることの無力さやとまどいや不必要さや居直りの日々がある。

開けばやはり「偶然の必然性」というような奇妙な感覚に包まれる。やはりというのは、「流れに浮かぶうたかた」ヘの思いが変わってきているからである。「天の配剤たるわが愛しの天「災」少女・天音がちょこなんといる」。絶えずチアノーゼが襲ってくる身長90センチ体重8キロの少女が「そこ」にいる。「そこ」は「たまたま」が「そうに決まっている」場だ。母親は教師を辞め、父親は脳梗塞で倒れる。暗く重くないわけがない。しかしこの一家は「ヌケヌケ」と生きてしまう。偶然という「軽ろみ」をとことん抗しがたいものとして引き受けた明るさがここにある。尋常のことではない。

ただ、意外と若い人たちにこの明るさは通じるかも知れないと思う。電車の中で女子高生が話していた。

「とりあえず自殺しちゃうとかぁ」

某月某日

「桃仙人−小説深沢七郎」(嵐山光三郎著、ちくま文庫)を読む。深沢七郎をオヤカタという。オヤカタの服の好みが注目に値する。「品のないものを嫌うが品のあるものはもっと嫌う。(略)俗悪でなく、派手でなく、和風でもなく、通人でもなく、シックでも、通俗でもないもの、そういった基準のいっさいの範疇に属さないもの」。

深沢七郎の「庶民烈伝」(「深沢七郎集、第四巻、筑摩書房)の冒頭を思う。庶民はおよそ「・・・・・である」という規定からはみ出る。「贅沢ですねえー、庶民は」という規定が出てくる。もちろん反語規定である。真なるものの基準を持たない無座標的文化は猛烈に欲張りで、何かを表現するとき、それは表現しきれないという形を取る。「・・・・・でない」という羅列のなかに余ったものがぼーっと浮かぶ。

欲張りと言えば科学という営みがそうだ。科学の無座標性が鮮明になってきたとき、バシュラールは「科学はいつも未完成であるから、科学者の哲学は、多かれ少なかれいつでも折衷的であり、いつでも開かれており、いつでも仮のものである」と言った。折衷的とは雑種であり、雑多であり、欲張りということである。科学は雑居的雑炊文化にこそふさわしい。

某月某日

「大きい家・小さい足」(岩瀬成子著、理論杜)を読む。ここ六年、「子どもの本にひそむもの」という研究会をやっている。児童文学の一つのジャンルと目される回想文学になぜ傑作が多いのかという議論も登場する。

「幼ものがたり」(石井桃子著、福音館書店)はその傑作の一つである。今また岩瀬成子の傑作を得た。児童文学の傑作は回想文学であるという定義も可能なほどだ。寄る辺なき身、余し者としての無規定性が「子どもの私」の発掘に向かわせる。切実な動機である。

そしてとどのつまりはピッタリした「似せる甲羅」がないことを明らかにしてゆく。それは石井桃子の大正期であっても、岩瀬成子の戦後期であっても、同じである。掬おうとしてもこぼれてしまう不定量の水のような私、どのような器にも収まることのできない私、結局は、はみだし余ってしまうことの豊饒さに自分が重なってゆく。

自己否定は「私は何々である」ことからの解放だった。「ただの人」という無規定性がだんだん身にしみてくる。関連して昨年は「日本語に英語の「I」にあたるものがないとはどれほど大変なことか」という「日本語の外へ」(片岡義男著、筑摩書房)、「自己決定、私的所有とは割り切れたものではない」という「私的所有論」(立岩真也著、勁草書房)の二つが大きな収獲だった。とくに後者は、著者本人がたいへん純朴な本だと言っていることに共感を覚える。自己とか他者の積極規定はおおむね作意に満ちている。

水、といえば、「女の由来ーもう一つの人類進化論」(エレイン・モーガン著、望月弘子訳、どうぶつ社)が私なるものへの思いを拡げる。ヒトは水棲ザルではなかったかという仮税は、女をたどると筋道が通ってくるというのである。さらに水の底ヘ。

「水はみどろの宮」(石牟札道子著、平凡社)が送られてくる。「水は」は水神、「みどろ」は深泥。ゆるゆるとあらゆるものが溶け出してゆく。

某月某日

「早春」(藤沢周平著、文藝春秋)を読む。冒頭の一篇は時代もの。「深い霧」が晴れる話だ。それに対して著者唯一の現代小説という「早春」の、妻を亡くし娘も去ろうとしている初老の勤め人の主人公の霧は次第に立ちこめてくるようである。しかし、毎晩二時に定期的に鳴る無言電話がだんだんと変容して、霧の中のあかりのようになってゆく。石牟礼道子歌集「海と空のあいだに」(葦書房)の「愛されし記憶覚つかなきときにまたともる霧の中のあかりが」を思い出す。

無言電話でさえ縋るヨスガになるように、この「あかり」も直截なあたたかいものではない。「ふるさとへ迴る六部は」(藤沢周平著、新潮社)が取り上げる久保田万太郎の「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」ともちがう。「明るさはほたるぶくろの中にこそ」(辻桃子)ともちがう。もう少し生々しい。そのあかりに照らされて無座標の霧中の一歩を歩む。霧が光る。わが子星子がそのようなあかりか。

まだ、そんなこと言ってるの、お父さん。


もどる