熊本県南部の漁村・湯堂にみる環境破壊

講座差別と人権・第6巻『底辺社会』((1985・雄山閣)

(一)水俣病とは何か

奇異な疑問のようだが、昭和31(1956)年から昭和35(1960)年にかけて、熊本県水俣市およびその周辺地域で発生した<水俣病>について、いったいなんと呼んだらよいかと考える。というのは、<打捨(うし)て水俣病>とか<かくれ水俣病>という名称があるからだ。5年間で止んだとされる水俣病は、長くなることをいとわなければ、<漁民が隠しきれずに発見され、医学の権威のもとに行政と企業が短期に終結させた水俣病>というのかもしれない。その代表的な定義は、昭和43年9月発表の政府・厚生省の「水俣病に関する見解と今後の措置」にみられる。この見解は、発症から12年目(原因がわかってから9年後)に、水俣病の原因を特定した悪名高い文書であるが、(一)、水俣病の本態とその原因、(二)、これまでの経緯と今後の措置、にわかれ、二)では水俣病被書の民事上の和解が成立していることが強調されている。(一)を全文引用しよう。

水俣病は、水俣湾産の魚介類を長期かつ大量に摂取したことによって起った中毒性中枢神経系疾患である。その原因物質は、メチル水銀化合物であり、新日本窒素水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物が工場廃水に含まれて排出され、水俣湾内の魚介類を汚染し、その体内で濃縮されたメチル水銀化合物を保有する魚介類を地域住民が摂食することによって生したものと認められる。水俣病患者の発生は昭和35年を最後として、終息しているが、これは、昭和32年に水俣湾産の魚介類の摂食が禁止されたことや、工場の廃水処理施設が昭和35年1月以降整備されたことによるものと考えられる。
なお、アセトアルデヒド酢酸設備の工程は本年より操業を停止した。(下線引用者)

下線の第ニカ所の「禁止」は明白な虚偽である。「禁止」には食品衛生法の第何条かの発動が必要であるが、原因物質が不明であるかぎり食品衛生法を適用することはできないと政府は拒み通した。その他の、漁獲禁止や廃水流出停止をもとめることができる諸法律もついに適用されることがなかったのである。

明白なウソをつく政治的効用は何てあったか、傍点第四カ所の言及の政治的計算とともに、にわかに測りがたい点がある。

メチル水銀をつくり出していたアセトアルデヒド製造設備は、全国で7社8工場あったが、43(1968)年5月18日にチッソ水俣工場の稼動停止に続き、水銀使用重でチッソの10倍(水銀問題特殊調査、経済企画庁、昭和42年)あった電気化学青海工場が5月30日に稼動停止となり、これを最後に全設備がスクラップ化された。つまり使いつくしてお役ご免になった。その4カ月後に政府は水俣病の原因を発表した。実は政府見解にある新日窒(昭和40年からチッソに名称変更)水俣工場の昭和35年1月から運転しはじめた廃水処理施設(サイクレーター)はメチル水銀除去に何の効果もなかった。竣工式にチッソ本社社長は浄化水を飲んでみせ(後に水道水と判明)、その効果をアッピールしたが、昭和電工鹿瀬工場からの問い合せに対して、「浄化槽は社会的解決の手段として作られたもので、これは有機水銀の除去には何等役立たない」と回答した(新潟水俣病訴訟、被告<昭和電工>側証人、安藤信夫証言)。政府がこの事実を知らなかったはずはない。経済企画庁、厚生省、通産省、水産庁の四省庁の担当課長と研究者で構成する水俣病総合調査研究連絡協議会の第3回(昭和35年9月29日)の会議で、イニシャルEと書かれたメンバーは、「水銀を含む廃水はサイクレーターに入らず無関係だから、サイクレーター設置後、貝中の水鏡量が減ったとはいえない」と発言している。

チッソ水俣工場で、水銀を含む廃水が、完全循環処理によって海に流されなくなったのは昭和41年である。それまでメチル水銀は海に放出され続けた。

では、政府見解が発表されるまでの公式水俣病はどのように叙述されるか。試みに書けば、おそらく次のようになるだろう。

<昭和31年、熊本県水俣市の南端の漁村に発生した奇病は、市内及び周辺農漁村に伝播し、伝染性疾患と疑われたが、昭和34年、最終的に魚介類に蓄積されたメチル水銀の経口摂取による中毒症(水俣病と名づける)であることが判明し、適切な措置を講じたため、昭和35年に終息をみることができた。なお、水俣病は昭和28年から発症していることがわかり、昭和35年までの患者数は87人(死者34人)であった。その後同期間にさらに2人の発症が確認され、かつ22人の胎児性患者(胎盤を通してのメチル水銀摂取)の存在が知られ、最終的に患者数は111人(死者42人)となった。適切な措置の内容は、一、水俣湾産の魚介類を摂取しないように指導、二、水俣湾の漁撈の自主的禁止の指導、三、メチル水銀排出源らしい企業に対する廃水浄化装置の設置の指導であり、いずれもよく遵守された。窮迫した患者家庭には、社会的責任の観点にたって同企業から見舞金が出され、患者側も万一、同企業が原因者であることが判明しても補償を求めないことを了承、和解が成立した。同企業は、水俣漁協ならびに周辺漁協に同様の趣旨で、漁業振興資金を支払った。残された課題は水俣病の医療研究であろう。>

このような公式水俣病、すなわち<終った水俣病>のもとで患者家庭や漁家は全く沈黙していた。

水俣病幕引の引き金になったのは、熊本大神経内科徳臣晴比古らの昭和35年終憶説(昭和38年3月発表)である。事実といえば事実の発表にすぎなかった。昭和36年以降医院を訪れた人びとのなかに水俣病患者がいなかった、あるいは医師からの水俣病患者発生の報告がなかったという事実である。表1を見てもらいたい。昭和45(1970)年7月現在の水俣病多発部落(月ノ浦、湯堂、茂道)の水俣病患者の発症年別の患者数を示している。「昭和45年までに認定された患者」の項目の患者の実際の認定年は昭和39〜45年にわたっている。すなわち昭和36年から38年の3年間、新たに見出された患者はなかった。昭和36、7年当時、まだ胎児性水俣病の概念がなく、脳性小児マヒといわれていたころ、昭和35年に4人の発症をみたものの、昭和ご32、3年の両年は0人、昭和34年は1人、そして36年から0人というデータから、そのかぎりにおいて、水俣病は終ったと結論することは不自然といえない。しかしその結論は、アッという間に無限定に拡大され、政治的に利用されることになった。昭和34年11月の金品衛生調査会の解散(水俣病原因は湾周辺の魚介類中のある種の有機水銀化合物によると答申して即日解散)から昭和43年の政府見解にいたる水俣病封殺作戦がいつ、どこでだれによって立案されたかは、いずれ明らかにされなければならないことである。

とにかく、水俣病は昭和35(1960)年に終った、あるいは終らなければならなかった。

(二)戦後直後の湯堂

昭和31(1956)年から爆発的に発症して、数年間で止んでいったかのような<水俣病>は、地元の人びとにとって、苛烈な事態のはじまりだったのか、それともおわりだったのだろうか。それは両方ともにいえることである。なぜそうであるのか、熊本県と鹿児島県の県境にある湯堂という小さな漁村を例にとって述べてみたい。

国鉄(発表時・現在はJR鹿児島本線)水俣駅を降りると、国道3号線を隔ててチッソ水俣工場が真正面にある。その3号線を南へ1.5キロほど下ると、右手にフェリー岩場が見え、水俣湾が開けてくる。道はそこのあたりから上り坂となり、ずっと1.7キロほど登りつめて行く。登るにつれて水俣湾を区切る恋路島のうしろから、天草の島々が浮びあがってくる。眺望絶佳というような景観である。登りきったところから海へ降りて行く右手の斜面と海ぎわに、150戸ほどの湯堂都落がある。

昭和20(1945)年の終戦時、湯堂は100戸ほどの集落だった。この湯堂で生まれた大村トミエさん(昭和8年生まれ)は、この年、鹿児島県の出水高女に入った。ケンカも勉強も人に負けるのがきらいという気性のトミエさんは、水俣高女も合格した。高女に行けたのは、やはり家に余裕があったからである。なにしろ、戦時中に部落にただ一軒、トミエさんの家にラジオがあった。戦時中にという時期が大事で、たとえば国鉄水俣駅の近くの山側に位置する侍部落の分限者の家には、柱時計はあったがラジオが入ったのは戦後のことである。熊本県宇土郡の網田(おうだ)部落でも、ラジオは一軒にしかなかった(山中恒『子どもが<小国民>といわれたころ』)というから、ラジオは相当のステータス・シンボルだった。逆にいえばそれほど貧しかった(昭和16年、受信契約者数600万、月額受信料は昭和20年まで月額50銭)。

さて、トミエさんは昭和22(1947)年春に、地元の袋新制中学校3年生となり、昭和23年に卒業、その年、親同士がいとこの同じ村の漁家の青年と結婚した。トミエさんの記憶はこの年を境にして、その以前は鮮明で、以後はだんだんとボケ、年月が錯綜してくるようになる。ある時から以降記憶がぼけてくるのは、水俣病に共通している症状のように思われる。

そのしっかりした記憶によれば、袋中学校へ通うころ、袋湾にいっぱい来ていたシビンドックリが見えなくなったという。浮いている姿がシビンに似ている冬の渡り烏である。たぶんアビであろうか。アメドリ(シロエリオオハム)もいなくなった。袋湾にイワシが入らなくなったのである。その前に猫がおかしくなっていた。前足だけで歩いたり、腰がぬけたり、ヨダレをたらし目が見えなくなった。「おまえとこのネコはまだ元気か」というのが挨拶になった。

終戦後、昭和21年は、イワシも何も大漁で、(チッソ)会社行きの1カ月分を2日で揚げるといわれたぐらいである。昭和18年にチッソ水俣工場に入った工員の日給が、昭和21年に3円52銭だった。これを目安にすると1日に4、50円の水揚げがあったことになる。チッソ水俣工場が爆撃を受け、アセトアルデヒドが昭和21年2月まで製造できなかったこと、男手がなく漁ができなかったこと、男たちが復員してきたことなどが大漁の原因に数えられる。アジが大量に獲れた。水俣湾内のカシ網(磯建網)によるエビやカニ、クチゾコ(舌ビラメ)漁も3年間好漁だった。鯛の一本釣も目の下一尺ものが2、30匹という水揚げが可能だったのである。タコも豊富だった。

昭和24年から25年にかけて、水俣湾で急に魚がとれなくなり出した。水俣湾のなかの湾である袋湾のイワシ地引網の不振に続いて、水俣湾の馬刀潟(まてがた)でカルワ(ヒラメ)、タコ、スズキなどが浮きはじめ、そのなかには手でつかめるようなものも出てくるようになった。海草は白味を帯び出し、海底をはなれて海面に浮き出すものが多くなってきていた。

湯堂では、大村さんによれば、昭和23年から24年にかけて、水俣病様の激症で死亡した人が3人いたという。酒がなかったころで、密造酒が出まわり、メチル中毒が騒がれたこともあって、メチル中毒といわれたが、女の人もメチル中毒とはおかしいとささやかれた。当時女の人は酒を呑むことはなかった。もつぱら男だけが呑んだのである。

昨日仕事をしていた人が今日は別人のようになってしまう。ライオンが吐えるような咆声をあげた。夜は静かなので、その声がよけいに響いた。

猫と同じ症状であることがあさましく思え、年寄りたちは、バチが当ったのだと言っていたが、何のバチかはわからなかった。しかし半家畜として人間に馴致されきらない猫に対して、人びとは<猫かわいがり>する一方で、「あの眼に油断せず、十分に心を許さなかった。。…何かと言えば恨み憤り、復讐でも考えているのではないか」(柳田国男)と疑がっており、歯をむきだした興奮に、野性と魔性をみていたのである。ネコが狂い、ヒトが同しように狂うことには、肌に粟立つような恐怖があった。病気だとすれば、それは十分、血統(ちすじ)に値する病気だし、崇りだとすれば一家に代をついで襲ってくるはずだった。どちらにしてもイデンである。イデンという言葉は、決して大きな声で発しられることはない。

戦後、湯堂は、ボラの飼付釣漁に力を入れはしめた。トミエさんの嫁ぎ先も、ボラ漁にとりくんでいた。6月から10月にかけてトミエさんは朝3時に起きて、ボラに食べさせるソフトボールほどの大きさの麦ヌカ団子をつくった。ヌカ団子には小石を埋めこみ、ボラの通り道に撤く。この撒餌はずっと継続して行なうので、餌付けという。ボラが寄ってきたところで、撒餌と同しヌカ団子に鈎を何本か埋め込んだ餌で釣りあげる。ヌカは大きな釜で炊きあげ、蛹(有脂)粉を混ぜて熱いうちに握り個める。この作業は重労働だった。のちに餌付釣漁がだめになって、餌付けカゴ漁が主体になるにつれて、ヌカ団子の質を競うようになった、その質の工夫がたいへんだった。味暗を入れ、バター、肝油を入れ、高価な馬の油を混ぜ、毒味をしてボラがよろこびそうな味を必死に求めることになる。餌代はどんどんかさんでいった。お互い秘伝をつくして、一匹でも多くという気持の表われだったが、その努力はボラが少なくなった事実によって強いられたがゆえに、悲哀の念がまといつくのを避けられなかった。

ボラ飼付釣漁は集団の共同漁である。みんなが一斉に餌を撤かなければならない。餌を撒きに行って、そして釣ってくる。水俣湾口の裸瀬や茂道山の柳崎から恋路島の針の目崎(めんず)を結ぶ線上に、ボラ釣り船がズラリと並んだ。町中の人たちや少し山に入った村の人たちは、その風景をみて、ボラカイの楽しみに思いをはせる。ボラカイとは、ボラを買って焼酎をのむ宴会のことである。そのために人びとは講のようにしてお金を積み立てていた。湯堂をはじめ、月ノ浦、茂道で「漁民の生活の半分を支えるといわれた」(『水俣に対する企業の責任』)、このボラ釣り漁が昭和26年夏から不漁続きになった。

トミエさんは、結婚後間もなく妊娠した。「でもどうしたことか9ケ月で死産で生れる。あくる年2回目の妊娠、これも5ケ月で早産。そんなことで23年から45年までの間に、連続12回もお産のしくじりをして今も子どもがありません。どこの病院に行っても不思議がる。どこといって原因が分らない。その後主人が病気で寝こみ、ボラもイワシもめっきり獲れなくなっていたので実家からの援助もへって、私たちは貧困のどん底におちた」(「死ぬ前に一ケ月でいいから平凡な日々を」『不知火』終刊号、1949年)。

昭和30(1955)年、夫の病死。トミエさんは実家に帰るが、病い知らずの父親が倒れ、トミエさん自身も耐えがたい頭痛と神経痛に悩まされる。昭和33年、トミエさんは佐賀県の鳥栖に働きに出て、沖縄県出身の大村さんと昭和34年の暮結婚した。それから先は病の悪化の日々である。昭和47年、半身麻痺。昭和49年、神奈川県平塚に迎えた父親が痩せきってヨダレをたらし、ケイレンをくりかえしながら狂って死んだ(水俣病と思われる)。昭和51年、トミユさんは水俣病申請をしたが、そのまま待たされている。トミエさんのような、しかも申請もしていない水俣病県外患者は何人いるのだろうか。

「23年頃からの不漁で、私らの年代の上の娘たちは、ほとんど大阪、名古屋に出た。電気消された家も多かったし。だいたい2、3万のお金で売られた。1万円は今の10万円以上だろうけれど。みんな帰っていませんよ。帰れるわけがない」と、昭和58年、川崎のアパートに訪れたときに、体が小さく縮こまってしまったようなトミエさんは語った。湯堂は不漁になると、いっぺんに食えなくなる漁村だった。

(三)昭和28、9年の水俣湾の様相

チッソ水俣工場のアセトアルデヒド生産はぐんぐん上がっていた。昭和21年の2300トンがら、昭和26年には、6200トン、以後、昭和35年のピーク(アセトアルデヒド・4万5000トン、塩化ビニル・2万5000トン)まで昇りつめてゆく。有馬澄雄の試算(「工場の運転実態からみた水俣病」1979年)によると、昭和26年に水俣湾に流出した水銀量は、9.3〜12トンで、生産最盛時の昭和35年には、約32トンに達した。昭和7年からの全流出水銀量は380〜455トンとみなされ、水俣湾は水銀鉱山のようになった。熊大研究班が、原因物質としての水銀にたどりつくのが遅れたのは、水銀が高価であり、捨てるはずがないと考えたためである。回収するより、利潤があがるなら、文句なく捨てるほうを選ぶという企業の論理を医・化学者は全く理解していなかった。

昭和28、9年の水俣湾の様相を、水俣病研究会の漁民、地元民の「間きとり」(「企業の責任−チッソの不法行為」1970年)からまとめると次のようであった。

一、浮きあがる魚はますます増加し、壷谷や湯堂湾などでも、タイ、タチウオ、イカなどが手で拾えるようになった。とくにグチ(イシモチ)は波打際に真白に死体をさらし、悪臭をはなった。当時、夜釣りに行っていた人たち(素人)は、これらの浮いた魚を矛で突き、いかにも矛突きの名人の如く自慢した。その獲物は、夜釣りにはめずらしいハモ、カレイ、グチ、タコ、スズキ、ボラなどの大物であった。

二、29年暮に、湯堂湾内で、アジ子が群をなし、狂ったようにぐるぐる回るのを見受けるようになった。

三、海草の海面漂流は年ごとに増加し、漁船のスクリューや櫓にまきつくようになったので、湾外へ出る船は動力をとめ水竿で海草を取り除かねばならないこともあった。

四、貝類の状態も悪化の一途をたどり、空殻が目に見えて増加した。「水俣市漁獲高調」にも「……28年は4〜5月の調査で当地先一円に十数年振りに鳥貝が育って金額にして6〜7千万円位の水揚げが予想されたのが、7、8月後に沿岸から1000メートル以内のものは殆んど死滅しその採取は見られなかった。海藻類にも地元干潟面で甚しくその被害と思われる点が見受げられる」と被害状況が記されている。

五、28年に出月で猫が狂死したのをはじめとし、29年春頃から、出月、湯堂、茂道などの猫が次々に狂い死に出した。

六、カラス、アメドリ、シミンドック(シビンドックリ=溲瓶徳利のこと)など鳥類の死骸が見受けられるようになり、また飛べなくなって素手で捕えられるようになった。殻を開いた貝類に群がるカラスが方向をあやまり海中に突入したり、岩に激突するのも見受けられた。

瀬戸内海の浮き鯛はかってよく知られていた。マダイは深いところに棲んでいるが、急な潮などで浅いほうへ流されると、水圧調節が追いつかず浮袋がふくれて水面に浮びあがってしまう。獲るのは容易である。水俣湾の浮き魚はちょうどそんな感じであった。生きていたし、味は全く変わらない。それで、ネコやトリの異変にただならぬものを感しながらも、人びとは新鮮な浮き魚を食べた。

のちに、漁民=貧乏=くさった魚を食べたという図式が、根強く定着し、しつっこく宣伝されることになるが、漁民にとってこれほど侮辱的な言辞はなかった。なるほど昭和30年代には、白内障にやられ、やせこけたスズキなどが研究者によって採取されるが、そのような魚を漁民が食べるわけはない。昭和34年から5年にかけて、果々と銀色の潮のように海面を流れたタチウオを、天草の御所浦島では1日に三百、四百キロすくった人もおり、立派に市場に水揚げされている。腐った魚がどうして水揚げされようか。たしかに浮き魚は動きがにぶい。それから漁家は売りものにならない魚を食ベる。これには二種類あって、一つは雑魚、一つは傷物である。綱からはずすときに頭や尾がとれてしまった車エビ、ホコ突きで頭でなく体を刺してしまった魚など、こういうのは値がつかないので自家消費となる。動きがにぶい魚、売りものにならない魚が、腐った魚に変じ、そのような魚を食っていれば、水俣病にもかかるというものという悪意の謬見が、漁民蔑視の土壌に深々と吸いこまれていったのである。東工大の清浦雷作、東邦大の戸木田菊次両教授の「腐敗せる魚類を食せしためにおこったアミン中毒」は、漁民に対する偏見の上に仮説をたて、偏見を強化する役割をはたした。

(四)水俣病・貧困・差別

昭和31(1956)年、水俣病が爆発的に発生した。しかし漁村に住む人びとにとって、それは、間に一休止期(昭和20〜21年)を含みながら、少なくとも15年間にわたってひたひた迫ってきた災いの帰結、あるいは終末のようだった。

昭和46年にチッソは「水俣病問題について−その経過と会社の考え方」を発表するが、そのなかで、「水銀を触媒として使用するアセトアルデヒド設備は昭和7年から稼動しています。そして生産量は、戦時中も、昭和27、28年ごろも、ほとんど変りません。そのためなぜ昭和28年暮になって、突然水俣病が発生したのか、当時それが一番問題になりました」といっている。自然の災厄なら耐え忍ぶ、しかし人為の危害としたら、人びとはこのような言い方に耐えられない。被害はまさに昭和7年からはじまったのだ。

昭和31年4月21日、湯堂の隣の月ノ浦の5歳の女の子がチッソ附属病院に入院。特徴、平熱、硬直マヒ、泣きやまず。3日後、その妹(2歳)発病。翌日、旅館勤めの女性(19歳)と漁師(50歳)入院。強度の視野狭窄をともなうヒステリー。

それから5日目の4月30日、入院した姉妹の隣家の女の子(5歳)入院。硬直、意識なし。この一家は、5月8日、兄(11歳)発病。5月16日、母(45歳)発病。5月23日、妹、意識不明のまま、死亡。6月14日、兄(8歳)発病。伝染病の疑い決定的になる。

湯堂では、5月13日、農家の坂本タカエさん(17歳)にマヒがきた。ついで6月8日、一本釣漁師の松永善市さんの三女久美子ちやん(5歳)が発病。6月30日、隣家の坂本武義さんの長女真由美ちやん(2歳)発病。7月13日、松田文子さん(28歳)発病。7月20日、1月からマヒ症状の岩坂聖次ちやん(2歳)死亡。同日、武義さんの二女しのぶちやん生まれる。のちに胎児性発症と判明。同日、奇病患者担当のチッソ附属病院看護婦発病。伝染病の疑い決定的となる。7月27日、疑似日本脳炎として、入院中の患者を白浜の避病院に隔離。16名。

この日は、終末的な被害にみまわれている人びとにとって、新たな受難のはじまりであった。法定伝染病扱いは、村八分扱いをひき起こし、排除する新たな血統(イデンとデンセンの複合)が措定されたのである。この事態の終りはいちおう昭和34年(有機水銀中毒症の発表)に来る。いちおうというのはいったん措定された血統はそう簡単に消えないからである。しかし魚の多食による発症という原因発表は、同時に漁民棄民のはしまりだった。それはまず伝染病の拡大をおそれて真剣に調査にとりくんだ医師会・保健行政の熱意の急速な冷えにあらわれた。

患者家庭の貧困と疲労は頂点に達した。最初にチッソ附属病院に入った姉妹の母親、田中アサヲさんの手記(「塩田武史写真報告」)によると、4月12日から水俣尾田病院に4、5日通院、水俣市立病院に通院の上入院、ルンバール検査(脊髄液採取)のあとは泣き通しで、「自分たちのような身分には看護婦様も冷たく」1日で退院、朝隈病院へ。手のつけようがなく、附属病院を紹介され、そこではじめてていねいな扱いを受けた、とある。舟大工を営む家族8人の家庭である。附属病院の4月分の支払い、すなわち10日分の支払いが8000円であった。熊大の先生に見てもらいたいと頼んだところ、一回5000円取られるといわれた。それでも来てもらった。5月には妊娠していることがわかり中絶した。避病院から「熊大に研究材料として」移る8月30日、「次男(2年生)、昨日は大きなタイ魚がウカウカして来たので、それをひろって、生きていたので、3年生の次女と2人で魚屋に売りに行きましたら、480円だったそうです。僕がランニソグ一枚買った残りは、母ちやんに小遣銭にやるからな、というてくれた」とあり、値段の比較ができる。なお昭和32年の日雇労働者の全国平均賃金は433円だった。

坂本武義さんは、湯堂では数少ない田畑山林持ちだったが、32年、35年、38年と3回にわたって、3町歩の立木を全部売ることになった。真由美ちやんも学用患者ということで熊大に入院したのだが、そうならず10日目ごとに「ものすごく高い額の治療費」(坂本ふじえ「怒りの通信簿」1976年)を請求された。武義さんは昭和35年、チッソの漁民採用の一人になるが、その前は、一日500円の職安仕事をした。湯堂を開いた家筋で、モハン青年といわれた身には、それはまことに恥ずかしいことであった。

商工業・農林・漁業などの自営者及び無業者対象の国民健康保険実施は、昭和38年7月である。患者発掘と隔離のために漁村に入った保健所員は、白い視線と沈黙に迎えられたが、そのなかでかろうじて、入院に金はいらないからと言って歩いた。たしかにそれは大きな問題だったが、しかしそれで患者が名乗り出てくるような単純な状況ではなかった。

(五)湯堂の漁業の情況―死滅への軌跡

昭和31(1956)年の湯堂の漁業世帯数は表2のようである。全戸数は昭和初年ころの7、80軒から昭和20年には100軒ほどであったのが120軒強になっているが、この間漁業世帯はそれほど変化しなかったと考える。地引網が一統ある。その乗子は漁業従事世帯に分類され、この表には出ていないので、漁業にかかわる世帯は48世帯を上まわる。水俣漁協組合員は52人であったが、漁民数は72人である。南隣りの茂道(漁業世帯63%)にくらべれば、漁村的性格を減じるが、北隣りの月ノ浦(漁業世帯17%)よりは圧倒的に漁村だった。

表3は漁の内訳を示している。地引網の網元が営んでいた不知火海に出ていくイワシ双手巾着網はもう消滅している。昭和29年からの漁獲量の激減ぶりがよくわかるが、なかでもイワシ地引綱、ボラ飼付釣漁、一本釣は潰滅状態といってよい。磯刺網魚、タコ壷漁は経営体(その漁を営む漁家)や網数、壷数の増加を考慮すると、漁業効率は著しく落ちている。水俣漁協7地区の合計では、31年の漁獲は昭和25〜28年の平均の83%滅で、カキ、ナマコ、コノシロは4〜6%しか獲れず、ついでカニ(12%)、イワシ(15.5%)、ボラ(19%)の減少が目立っている。

図2は水俣漁協全体の漁獲高の変化を示している。実線が湯堂など水俣の漁民が獲った漁獲量で、点線は水俣魚市場に水揚げされた漁獲量である。この点線の示す統計だけをみていると水俣漁民の窮状はわからない。自分の獲った魚をどこの市場に水揚げするかは漁民の自由であり、なるべく有利な市場が選ばれることになる。31年からの属地漁獲高の上昇は、地元の供給が減少したことと、水俣周辺の需要増をふまえた仲買値の好調を反映している。まだ奇病と魚は結びついていない。34、35年は、原因の解明と漁民暴動を反映して急落するが、「水俣病は終った」キャンペーンで36年には回復する。34年以降の属人統計は未入手であるが、35年に最低値を示すことは他の資料(動力経営体力−ド)から推測することができる。動力経営体とは、エンジソつきの漁船を持つ漁家のことであるが、昭和35年には、138経営体のうち、85%の117経営体が休業していた。湯堂ではこの年、21経営体のうち11経営体が休業、操業したうち、100日以上200日未満が1経営体、30日以上〜100日未満が9経営体、30日未満が1経営体という操業実体であった。操業日数が100日を越えたのは、坂本武義さんの父で、名人といわれた福次郎さんただ一人である。この年、福次郎さんは76歳であった。

(六)高度経済成長の陰に葬られた漁村

じりじりと生産現場を奪われ、労働力を奪われた湯堂は、昭和35年に、漁村としての命をほぼ絶たれたといってよい。豊かな湯堂湾を象徴する茂道松はこのころから枯れはじめ、昭和47年最後の茂道松(樹齢130年)が倒れた。安保条約改訂をのりきった政府−企業連合体は、高度経済成長に向おうとしていた。その前段階に水俣の漁村は葬られたのである。その屍をふみにじるように、チッソ水俣工場は莫大な量のメチル水銀を放出しつづけ、不知火海全域を汚染し、20万人の沿岸住民になんらかの健康障害を与えた。

それから20年後の昭和55(1980)年、湯堂の水俣病認定患者、116名、その内死者20名(昭和45年まで認定患者15名)。世帯数146戸。人口451人。専業漁家6。水俣漁協組合員19名。

昭和59(1984)年6月現在の水俣病の状況。認定患者1985名。棄却者、4824名。未処分者、5669名。申請総数、1万2478名。

参考文献

有馬澄雄編『水俣病』青林舎、1979年
塩田武史『写真報告「水俣'68〜'72・深き淵より」』西日本新聞社、1973年
山本茂雄編『愛しかる生命いだきて』新日本出版社、1976年
水俣病研究会編『水俣病に対する企業の責任―チッソの不法行為』水俣病を告発する会、1970年
砂田明『祖さまの郷土・水俣から』講談社、1975年
原田正純『水俣病は終わっていない』岩波新書、1985年


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