水俣の痛み

『人間の痛み』(山田宗睦編・1992・風人社)所収

水俣病の傷みは深く、奥行きはとらえがたい。その記録の試みは石牟孔道子の作品や土本典昭の映像に見られるごとく、数は少ないが研ぎ澄まされた結晶として残されている。しかもなお、それら非凡の作品群の存在価値は、水俣病の傷みはついに沈黙や闇のなかに蹲っていることを指し示すことにあるかのようである。
その思いは、私たちに、だから一つ一つ石を積め、傷みが救済の彼方にあることをつかむために、といううながしとなってやってくる。しかしそのうながしに応えるのはつらい。一つには傷みを明示のものとして記録してしまう至らなさがあり、一つにはそのような傷みの恐ろしさに凍んでしまうからである。この小文は、そのような狭間での、小さな一つの石積みである。

「くやしか本当にくやしか−35年目の水俣病」というドキュメンタリーがこのほど(1991年9月)放映された。制作は熊本県民テレビである。1987(昭和62)年3月の水俣病第三次訴訟判決(熊本地裁)は、国と熊本県の行政責任をはっきり断じた。国・県は恒例のように控訴するのだが、その事態を踏まえて、1990年から、5つの訴訟で裁判所は一斉に和解勧告を提示するに至った。ドキュメントは、国が和解に応じることを願いながら、水俣病と診断されることなく、この6月に死んだ一人の女性患者を中心にすえて、国の態度と、被害者の、もう叫びとは言えない訴えを映す。水俣を訪れた北川右松環境庁長官に、患者たちは「生きている間に救済して下さい、お願いします」と唱和する。その言葉を翻訳するように、一人の患者は、「やられた病気だということを確かめて死にたい」とつぶやく。
国は公健法(公害健康被害補償法)の運用による措置に瑕疵はないとつっぱねる。それをボソボソと発表した環境庁の局長は自殺した。裁判所の和解勧告を、熊本県とチッソは国が応じることを前提に受け入れたが、国は、担当する個人の苦悩は別にして、はっきり拒否する。その自信は、結局のところ、公健法の運用の基礎である水俣病認定審査会の学問的結論を、くずれない防御壁としているからに他ならないのである。
水俣病の傷みは政治、経済、社会にまたがる錯綜した要因によって、広がり深まっているのだが、しかしどれほど四面賛歌であろうと、政治・経済に抵抗することは出来る。貧乏の極みでも衿侍を失わないことはあり得る。しかし社会的な冷視と指弾には気が萎えてしまうような無力感が生じてくる。その社会の輪が狭まってきて、いわば同じ身どうしの反発になってくると、文字どおりの修維場が出現する。とは言っても、修羅場は外部の者に窺い知れない親和力を秘めて、当事者はお互いに抱きかかえているところがあるのである。
しかし、対処の仕様がない苛立ちばかりがつのって、精神の安定を際限なく失わせて行く大きな原因がある。それは学間の透明さである。局部的に、それがつくられた、建て前としての透明さであることを反論することはできる。だが学問総体となるとむずかしい。特に公害という事象では、学問への期待をゼロにすることはできないのである。その、現実の力と駆け引きとは一線を画す、と思いたい学問と、その担い手である、全面的には罵倒し切れない、それなりに良心的な学者が患者の前に立ちはだかるとき、傷みは言葉を失ってくるのである。現代文明の傷みを象徴する水俣病が、現代文明の大きな推進力である学問によって、その傷みを否応なく拡大されて行くところに、出口なしのつらい世界が口をあけ始める。

関西水俣病患者の会の会長である下田幸雄さんは、不躾けな質問にもニコニコして、体の状態についてわかりやすく話してくれる。そうやって応対していると、下田さんがどんなに疲れてしまうか、私たちにはすぐには分らない。
「頭のてっぺんから脳みそがぶらさがっていて、それがブラブラゆれるんですよ」
脳が萎縮するのは、水俣病の激しい症状の一ったから、下田さんの脳が実際そうなのかどうか別にして、脳が頭蓋骨の中でぐらつくというようなイメージがするのだが、下田さんの言葉はそういう状態をぴったり表現しているなあと思ってしまう。ただそのような状態に自分がなったことを想像すると、想像がいくらも進まないうちにクラクラして、体が前後左右にふらふら傾いてくる感じに襲われて、もうダメだと、想像するのをストップしてしまう。
「朝目が覚めるでしょう。おかしいことに体が覚めてくれないんですね。それで一生懸命体に目を覚ませと言い聞かせて、なかなか聞かないから、午前中が終わってしまう」
「関西に出てきて、硬鉛張りという職が手にあったから、工事現場をあちこち出張して仕事はいっぱいあった。それがだんだんダメになってくる。電話がかかって、はい、見積もりに行きますっち答えて、明くる日、出かけようと時計を見て、あと一時間遅らそうかと、それがまた一時間経つと、あと一時間というふうで、結局仕事を逃がしてしまう。ほんとうに世界中の時計が止ってくれたらと、よく思ったですよ。仕事中もとにかく、もう、ここでちょっとでいいから横になれたら何もいらんと、そればっかりで。終わって帰る道になれば、あそこの小石まで、あそこの電信柱までと、横になりたいのを一寸きざみに延ばして家にたどりつくとです」
土本典昭さんの、カラーで登場した大作の『不知火海』の中の渡辺保さんの言葉を思い出す。渡辺さんは日焼けして筋骨隆々として了いる。土本「水俣病というのは、傍目で見ると普通に…普通っていうか…歩けるし、めしも喰えるしね。ところが、どっかがカチンッとやられてる、というもんでしょう(保さん「それがショックですよね!」)……こうやってみてるとあんたは普通に見えるよね?」
保さん「普通ですよぼくは!(うめくように)でもさ、……草とりでも、もう30分もやらかすと、そりや、夜は相手(註・奥さん)ば眠らせんとやから(土本「えっ?」)身体、揉め!とかあっちが痛い、こっちが痛いで一晩じゆう眠らせんとやから。そっでうちの家内なんか、まあ、俺が仕事しよると、「また、妙なことしよる!そげんこつばして、また今夜一晩寝せんとやろが!」ち、怒られるごたる風やっで(土本「ああ、そう!」)。そいでうちの家内にしてみれば、今は俺が遊んで、ぶらんぶらん、ぶらんぶらんやってた方が自分の体がらくですよ(土木「ああ夜中に……」)う−ん。クックックックックッ。」(土本典昭『逆境のなかの記録」未来社)
映画『不知火海』には、忘れられない場面がいくつもあるが、このインタビューの一つ前の場面で、保さんが、仕事がでさるということがどんなに人生の長くつづく楽しみか、仕事に追われている人にはわからないだろう、補償金もらって豪華といわれる家を建てても何にもならん、と述懐する。それに続くこの場面も衝撃的である。「わらの男」と言うのも合わず、頑丈そのもので腑抜けという形容が、失礼は承知でどうしても浮んできてしまうのである。
そういえば、下田さん、水俣でフユジゴロという言い方を習いましたが、あれはそうとうグウタラのようですね、というと下田さんは手を否々と横に振って、「まだまだ、よかほうで、このドセゴロッが!、というのがきつい。親父によくそう言って怒鳴られたものです」
下田さんは水俣の百間の出身である。1923(大正12)年生まれで、1937(昭和12)年にチッソに入った。昭和16年には朝鮮チッソに出張して工事をしている。翌年水俣に帰って塩化ビニルのオモチャみたいな工場をつくったという。1951(昭和26)年にチッソをやめた。それから大日本金属に勤めたが、そのころ記憶力には自信があったと語る。1960(昭和35)年のころは一週に一回、一週分の毎日の作業報告を書いたそうだ。その頭がぼんやりして、物忘れがひどいのがくやしい。
一見ふつうに見えて何かしようとすると、たちまちだるさが襲ってくる。それは真綿にぶつかっているような苦しさである。こんなはずじやないという苛立ちがつのってくる。それに加え、自分に対する猜疑心にも苛まれるのだ。このことには少し説明が必要である。
下田さんの自覚症状は、この他に「頭が重い、全身がふるえる、両腕に力が入らぬ、口の周りが時々しびれる、どうきが激しい、味がよくわからぬ、耳鳴り、足に鉛をぶらさげられているような感じ」(下田さんも原告の一人である関西訴訟の訴状から)がある。診断所見は「四肢及び顔面を含む体幹知覚障害、運動失調、嗅覚障害、聴力障害、視野狭窄」(同じく訴状から、大阪阪南病院の診断)であり、有機水銀をどのように摂取したかという疫学条件ははっきりしている。下田さんは1979(昭和54)年に熊本県に認定申請を行ったが、まだ検診の知らせがない。
下田さんにかぎらず、どうしてこの人が水俣病でないと棄却されたり、放置されているのだろうと思う人達が、あきれるほど居るのだが、ちょっと話を聞き出し始めると狐につままれたような気になる。下田さんは夜心臓発作が起きて、死ぬのではないかと思うときもあるそうである。それで特に発作の激しかった後など循環器センターで診てもらうと何でもなく、まったく健康(?)と言われるという。どうしてなのだろう。そんなふうに心臓発作に悩んでいる人達に実際何人も出会う。『水俣と金閣』(水上勉、筑摩書房)の中に、「阿賀野川の岸から」という長いルポルタージュがある。1968(昭和43)年から1970(昭和45)年にかけての新潟水俣病取材の記録である。この中に、阿賀野川水銀中毒被災者の会の会長である近喜代一さんの言葉が出てくる。
「局所的ですが、手足がときどききりでもまれるように痛くなるのです。だども、いちばん心配なのは心臓発作で、これまで四回ほども呼吸がままなくみたいになった。そのたびに大学へ行って胸の精密検査をしてもらったが、<異常はない。近さん、水俣ノイローゼじやないか>と言うんですね。バカなこと言うな。おらはノイローゼになるほど神経が弱い人間じやない。呼吸が止って死んだらどうしてくれるんだ。私はそう言い返してやったんです」
水上勉は「病気の苦しみを医者にもよくわかってもらえない水俣病患者の悩みがよく出ている」と書いている。ここのところがどうもよくわからない。近さんの場合は、水俣病ノイローゼと言われていることから分るように、医師に情報、つまり先入観がある。ところが下田さんの循環器センターの場合は水俣病だと訴えているわけではない。常識的には、検査結果が正常でも、本人が訴えているのだから、夜家で寝ている状態の時の心臓の調子を調べるように手配するのではないだろうか。軽便な携帯できるモニター(ホルター心電図)などで調べるにちがいないと思うのだが、下田さんはそういう検査は受けたことがないという。そういう検査をしてもなお心臓は何ともなくて、本人はあいかわらず死にそうに苦しとしたらどうだろう。正直に言ってて想像の範囲を越えてしまうようだ。
脈が正常で、あるいは許容範囲内の上限値に近いとしても、本人には早鐘を打つように感じられ、寝ることもできないというのは一体どういう生理状態なのだろう。心理的には、嘘をついている、ノイローゼである、ほんとうに苦しいという三つの場合が想定できる。その一々について確かめて行くのが医師の仕事ではないか。そして一番最初に調べるのは、ほんとうに苦しい場合だと思う。もし数科にまたがる物理化学的検査が全部白(そういう結果が出るとは思えないのだが)と出ても、患者の生活歴をよく聞き、水俣病の申請をしていることを知ったら、そして、心臓発作可のこのような訴えをする人達が他にいなかったら、水俣病の症候として位置付けるべきではないのだろうか。その上で少しでも楽に寝られるような対症療法を施すべきである。少なくとも、そういう考えの道筋を患者が納得するまで説明すれば、それだけでも患者の心の負担を軽くする療法になると思う。
「大丈夫、大丈夫、気のせいだよ」、「どこも悪くありません」と言われて、今までの経験から水俣病のことを言い出したら、医師が困惑するか苛立つか警戒するかを知っている者にとって、水俣病のことは結局言い出せず、まったく納得しないまま引き下がることになる。苦しさはあいかわらずである。いや、あいかわらずではないのだ。「あんまり医者に何ともないと言われると、自分はずるけて働きたくないだけなのではないかと思うようになる」と下田さんは言う。これが自分に対する猜疑心である。だるさと痛みと怒りと口惜しさと自己不信と。下田さんのニコニコした円満な顔を見ていると、人間の自己抑制のすごさとか人間の幅の広さについて思いを馳せないわけにはゆかなくなる。
医者が頼りにならない、水俣病の全容が分らないという状態での、水俣病患者の発散できない苦しみを紹介したのであるが、なぜそうなのかという問いの答えに、水俣病は現在進行中であるということ、そしてその追跡が妨げられているということが挙げられると思う。もちろん原田正純さんが力説するように、水俣病像について複雑高度な問題があるわけではない。水俣病に特有の症状の土台ははっきりしていている。はっさりしなくてもいい。水俣病の疑いありという所見の下で、医師は自分の患者の症状を継続観察し思いがけなく現れる新しい症状について記載し、治らぬまでも痛みや不快を取り除くように努力するだろう。水俣病がふつうの病気であればそうなっているはずである。
一方、人類がはじめて遭遇した、生態系の食物連鎖を通ってヒトに病気を発生させた水俣病について、大学の医学部は国や地方自治体のバックアップの下に、大きく調査研究の網を打つだろう。他の病気が主因であろうと、他の病気との合併であろうと、首をかしげるような症状が多々あろうと、不知火海沿岸に住み、そこで獲れた魚介類を少量であれ食べた人達について、水俣病にかかっていることの潜在可能性を認めて、衣食住の変化や加齢によって症状はどうなるか、他の病気によってどう影響を受けるか、他の病気をどのように誘発するのか、他の重金属などの複合影響はどうか、といった大項目を立て、客観的主観的に水俣病患者がいなくなるまで(人間は死ぬ者であるから)、調査研究を続けるはずである。医学部の存立目的が、そこに病気に苦しむ人がいるかぎり直接間接の救済を図るのであり、人類の命運に関わる病気に立ち向かうというかぎりは、そうしているはずなのである。
脳死臓器移植はその好適な例である。移植推進の立場の医師の発言は、そこに苦しんでいる人がいること、移植によって助かること、臓器提供は人類愛の発露であることに尽きている。そして大字の威信をかけて直接費用だけでも一件あたり膨大なお金を注ぎ込んでいる。ただちにそのことを非難することはできない。しかし人類愛を口にするかぎりは、普遍的な立場に立って苦しむ人びとを見渡してもらいたいと思うのである。
言うまでもなく、水俣病についてそのような調査研究をプロジェクトとして組んでいる大学は一つもない。機関として国立水俣病研究センターがあるが、機能をはたしていない。そして一般の医者たちは、それが彼等の怯儒によるのか屈伏によるのか、水俣病に関する診断権を奪われている。したがって一般の診察で水俣病の視点からのカルテの記載は一切ないわけである。
ある人が水俣病かどうかは、熊本・鹿児島・新潟県の審査会と国の審査会が行う。メンバーは水俣病の権威とされるが、患者に直接合うわけでなく、あくまで書類審査で、その書類は患者が検診センターに出向いて作ってもらうのである。書類は非公開、審査状況も秘密会で記録があるのかどうかも分らない。審査会はあくまで学問的厳密さだけで書類を審査するのであって、その結果に基づいて患者が救済されるかどうかは行政府の仕事とされる。メンバーは全員医者である。医者はふつう学問と技術と人間愛をかね備えた職業とされるから、立場上、厳密に学問からだけというのは変則である。しかしそれはひとまず認めよう。するとどういう事態が起るか。患者を直接診るわけでなく、患者の症状の追跡カルテもないわけであるから、過去のある時点に字問的に定まった水俣病の定義に照らし含せて、判定する他ないわけである。
言ってみれば、生物学の分類学で種を同定しようとする作業に似ている。そして分類学では種に含わない亜種、変種、品種等が出てくる。当然と言えば当然で、そこにまた、生物が変化して行く有り様が反映しているのである。水俣病ではどうか、当然にも定義外の症状が出てくる。水俣病に似ているが水俣病と言えないボーダーライン層であって、原因は不明という結論が出される。これははっきり言って学問的厳密さではない。ボーダーラインはある基準から見たバリエーションで、水俣病が変化して行く貴重な証拠であり、そのバリエーションがあまりに多ければ、基準そのものを変えなければならないことを物語っているのである。
有機水銀の影響の複雑な現れ方と、一般に病気というものが一人一人の人間にそれぞれ違う現れ方をするということは、医者であるかぎり誰にもはっきり分っているはずである。水俣病の権威を自他ともに認めるのであれば、生身の人間をつかまえて死んだ標本を同定するようなやり方を医学の厳密さとは、口が裂けたって言えないはずだと思う。
9月(1991年)に大阪で「水俣’91IN大阪」という熱気と工夫にみちた催しが開かれた。この会は下田さんの呼びかけで一年近くの準備をかけて実現したのである。私も花崎皐平さんと座談会に参加したのだが、会場をどんどん埋めてゆく人の数の多さに久しぶりにこみあげてくる情緒があった。この催しの一つのメインは原田正純さんの「水俣病の責任と和解」という講演で、原田さんは、和解というのは、自動車事故などのように被害者と加害者があいまいであったり、そのとき被害者であっても次に加害者になるような事象に関して言われるのではないか、水俣病のように一方的に加害者、一方的に被害者というケースに適用されるのは納得できないと述べた。また、責任に関して水俣病ボーダーライン層ということについて言及した。
ボーダーライン層とは、行政的に言うと、3年に限って医療扶助を認める特別医療事業の対象者をいう。1986(昭和61)年にスタートしたのだが、扶助の更新なく一回かぎりであることや、扶助を受けている間は水俣病の認定を求める再申請ができないという条項からは、救済というよりは切り捨ての考えの方が勝っているような気がしてくる制度である。対象者は水俣病認定と同じく、知事が決める。とは言っても、歴代の知事が強調してきたように、学問的に素人の行政者は独自に判断できず、あくまでも、審査会の、そのような人達がいるという答申を受けて決定するのである。
原田さんは、そういう判定そのものが承服できない、ところが水俣病第三次訴訟の福岡高裁の和解所見で、ボーダーライン層も和解上の水俣病という見解が出た途端、ボーダーライン判定はゼロになってしまったことを指摘して、学問的と言うよりは政治的判断と言われても仕方がないだろうと述べた。
学問的厳密さということについて、一言注釈を加えておきたい。これは真を求める学問をする者の倫理であり責任である。何が真であるかは、結局は、歴史が決めてゆくのだが、その道程に少しでも障害物を減らそうということから、学問は公開を義務付けられている。例えばある生物を使った生理作用の実験で新しい特異な結果が得られたら、まず自分で納得の行くまで追試をする。そして発表する。そのとき他の者が追試を出来るように全てを論文に害き込んでおかなければならない。コツとかオレだけの秘密などということはあってはならないのである。さて、ここに二つの大きな問題が発生する。
一つは、真らしきことに近づく方法である。なんだか難しそうだが、別にそんなことはなく、まず、その時の常識(と思う自分の好み)に合せて自分の取り組む課題を盆栽のように刈り込み整形して単純化することである。何かを真であると言い切ることは元々できないのだが、真とされることを非真であると指摘するのはいともたやすい。いろんな例を挙げて、だから真ですよという、いわゆる帰納法では、一つ真でない例を見つけるだけで営々とした作業は瓦解してしまう。だから穴がないようにモノゴトをうんと単純化する。そうすると学問は複雑怪奇な生の現象から遠ざかって行く。
二つは、国家と企業は秘密をもっということである。しかも法律で守られている。つまり国家利益、企業利益が正当性をもつかぎり秘密は保護される。個人の場合もプライバシーは保護される。したがって対象如何によっては、学問はそれ以上進めない壁にぶつかる可能性が出てくる。その壁を突破したとしても公開はできない場合が生じる。そうすると学問は生の現実から遠ざかって行くことになる。
このように、学問は現実や現象との関わりで本質的に無力な面がある。とこうが、19世紀の半ばから、学間の中の自然科学や技術学はナショナリズムと資本の勃興により、国家と企業の制度的資金的後押しの下に驚異的な発展を遂げた。そこでは迂遠な真よりは直截に力や効用が、直接のあるいはそれとなしの秘密主義の下に追求されたのである。現代のどんな学者もこの大きな枠から逃れられない。逃れるとすれば、学者で飯を喰うことを止めて、アマチュアになる他ないのだ。
医学も自然科学や技術学の一部門であるかぎり、その枠から逃れられない。しかも医学はそれに加えて、個人のプライバシーの保護(守秘義務)にことよせた、密室作業や医薬産業・行政府との癒着が日常的に起り得る分野である。現在議論されている脳死・臓器移植も、根本的には、カルテ打は患者に所有権があり、それに基づいて医療・判定作業の公開を求めるという主張をめぐる攻防戦といってもよいのである。
少しくだくだしくなっていると思うが、学者が学問的厳密さを守ろうとすれば、現実から離れて行かざるを得ず、しかし研究するにはスポンサーが必要で、そのスポンサーが強引に学者を現実に向かわせ、しかもその上で字問的厳密さを学者に要求するという構図をなんとか説明したいのである。
原田さんも一時期熊本水俣病認定審査会の委員だったことがあり、それは患者にとって貴重だったのだが、その経験を『水俣病にまなぶ旅』(日本評論社、1985)で書いている。審査委員は「研究者としては優れた人ばかりであるが、救済の専門家ではなく、水俣病をめぐる諸門題についてあまりにも無知である(学者てある証拠か)。事情に無知なるがゆえに、中には患者に対して抜きがたい不信をもっている委員もいるが、概してみな誠実である。そして、誠実にやればやるだけ、意に反して、患者の救済から遠ざかっていくのはシステムのせいである。…審査委員もまた、ある意味では被害者かもしれない」と言う。私が傍点を打った筒所については後ほど述べたい。
原田さんは学者だけで審査委員を構成してはならないと指摘しているが、もう少しきつく言えば、厳密さを旨とする学者はそもそも審査委員になるべきではないのである。
水俣病が人類が初めて出会う病気であり、現在進行形であるとすれば、木々を見つめながら森を忘れない姿勢が必要である。患者の側に立って、少々まちがってもびくともしないで、患者の生活史に通じ、症状の変化を捨い続けて行く医者やケースワーカーや弁護士などが審査委員になるべきなのだ。
他の公害や薬害でもそうだが、特に水俣病ではチッソと行政府(とりわけ通産省)は一貫して学間の厳密さを要求し続けてきた。チッソは企業秘密を盾に熊大研究班に一切協力せず(工場内研究では原因を突き止めていた)、上部団体の日本化学工業協会はまったく根拠のない原因を言い立て、熊本県は1700名に及ぶ毛髪水銀調査の個人表を隠し(いまだに隠しっぱなしである)、通産省は名誉毀損で訴えられていいのかと威し(新潟水俣病の昭和電工原因説に対し)、国の予算を便う限りは勝手な公表を許さないと研究班にせまった。外堀を埋立て、あの手この手の妨害の上で、学問の厳密さを言い立てる。何のためかは明白であろう。
厳密さは学者が放棄できない泣きどころで、そこを執拗に責められると学問は次第に死んだものになって行く。つまり生活する人々に無関係か敵対するものになって行くのである。
1956(昭和31)年の水俣病公式発生の7年後、すなわち1963(昭和38)年に、熊大研究班は重包囲のなかで、最終的に水俣病の原因がチッソの製造工程での無機水銀の有機化であることを突き止めた。厳密さの要求をもろに受け止めた学者の真心の証しといってもいいくらいである。しかし実はその解明によって、水俣病は有機水銀中毒であり、それ以外ではないという道だけが残され、厳密な有機水銀中毒像が追及されることになった。そしてタリウム、マンガン、セレン中毒や、それらと有機水銀中毒の相乗・抑制作用は省みられなくなってしまった。
チッソは多種多様の毒物を水俣湾に無処理で大量に放出していた。その影響による発症を総合的に水俣湾病と呼ぶことにすると、現実に人々が苦しんでいる水俣病は水俣湾病なのである。そういう意味では、熊大の良心の勝利がすなわち現実の水俣病から遊離した一つの水俣病像をつくりあげたことになるともいえるのである。
天草御所浦島の森千代書さんはどう見ても水俣病であった。竹筒から覗いているような視野狭窄、子どものような口調になる構音障害、しびれやつまづき、そして特有のよだれ、どれをとっても水俣病の症状で、熊大研究班の地区研のお医者さんたちは水俣病と断定していた。千代喜さんは1910(明治43)年生まれで、66歳の1975(昭和50)年に水俣病申請に踏み切るが小脳血管障害で棄却されてしまう。
漁民でずうっと日記をつけている人が御所浦にいるよ、と原田さんが教えてくれて、詰ねて行ったのが1982(昭和27)年、それから年に二回は話を伺い、1960(昭和35)年から16年間の日記をすべて託されるようになるのだが、その、律儀を絵に書いたような、千代喜さんも今年(1991年)12月亡くなってしまった。本人も家族も無念である。
千代喜さんの異議申立てに対する決定が1985(昭和60)年に出るが、視野正常、運動失調なし、小脳多発性軟化症により棄却であった。最初に水俣市立病院で診てもらった時、にべもなく水俣病じやないと言われた印象が千代喜さんにも奥さんのフサエさんにも強烈で、その医師が審査会の長であり、前々からのチッソと一体化したような言動を合せると、森さん一家が診断結果を信じないのは当たり前かもしれない。そして多くの苦しむ人達と同じように、少なくともこの医師に関する限り、字問を曲げる御用学者で絶対に許せない、恨み続けるということになるのである。
ここには学問の名によってシャットアウトされた人々の苦しみが何重にも表れている。
非難される学者や医師は、水俣病をバラバラに分解して細部を追及しているにせよ、厳密さは貫いている自信があるから、いくら攻撃されても動じない。患者は蛙の面にションベンというような徒労感で疲れはててしまう。御用学者と攻撃する分、ほんとうの学問や良心的な学者がいるはずだという幻想に駆られ、学問に期待する。いつまでもその望みは叶えられようがなく、絶望感が増して行く。しかし世間はマスコミを始めとして粗雑に学問の権威を信じているから、異議申立てをすればするほど、ゴリ押しの、学問の何たるかを解さない強欲な輩とされてしまう。その口惜しさ。
学者は世間一般の趨勢には無防備で、しかも学問の権威を認めてくれるについて悪い気はしない、そして自分の所見で明らかに水俣病でない、というふうになれば、原田さんの指摘にある患者への不信は醸成されてくるのである。かくして患者は、強欲な金目当てのニセ患者ということになる。
1975(昭和50)年の杉村国夫熊本県公特委委員長の、環境庁でのニセ患者発言は数ある発言の中でも特に目立った。注目すべきは、認定申請者にはニセ患者が多いというニュースソースは熊本県認定審査会の委員だともらしたことで、彼も医師、委員も医師であるから、医師の守秘義務のいい加減さと仲間内でなにを話しているか分らないうさん臭さが強く印象付けられたのであった。憤激した患者と支援者は杉村委員長に詰め寄って逮捕起訴され、有罪になった。
ニセ患者という陰口は、水俣病に苦しむ人々の間でも根強い。一番大きな原因はやはり申請したが棄却されたということだろう。申請は家族さえ知らないケースが多いが、それでも情報はリークしてくる。それから、水俣病の症状が表面的には出ない場合と軽くなってしまう場合があることも問題である。後者は、人々の、えっ、あんなに元気な人が、という率直な疑いになり、中毒学や神経細胞学の常識では考えられないという医者の態度がそれに輪をかけて行く。水俣病は慢性でもじわりじわりと悪化の一途をたどるはずなのである。それから、マンガン中毒も含めて、統合的な運動障害、脳障害がわざとらしく見える演劇的な動作になることも、意外と深い原因になっていると思われる。
お互いにニセ患者ではないかと憶測する関係は確実に人間の心を腐食し荒廃させて行く。そのような苦しみは何と言えばよいのであろうか。
森千代喜さんの場合は、誰もそのような疑いを向ける人はいなかった。逆に千代書さんが棄却されるようでは、千代書さんの住む御所浦島大浦から一人も認定者は出ないだろうというふうに見られていたのだ。だから千代喜さんが実際に棄却されると、何か白々しい大きな悪意が集落に吹きつけてくるようで、棄民ということが大げさでなしに実感されるのであった。
千代喜さんは律儀に実直に漁をし、豚を飼い、畑仕事をし、ミカンを育て、そして水俣病について沈黙を守った。それはとりたててのことではなく、島に住む者の平均像であったが、千代喜さんの場合は忿懣を抑えての沈黙でもあった。1956(昭和31)年から翌年にかけて、中学校を卒業した長男の通夫さんが水俣病という噂を立てられたのである。この早い時期になぜそうなったのかは不明であるが、千代喜さん一家にとっては降ってわいたような災厄であった。通夫さんが水俣病の申請に踏み切るのは、それから26年後の1983(昭和58)年である。
律儀者ということで言えば、原田さんの『水俣、もう一つのカルテ』(新曜社、1989)に登場する漁師を思い出す。「自分はどうもない。病気でない。手足がかなわんのは職がなくて寝てばかりいるからだ」と、流れ出る涎をタオルで拭きながら、水俣病特有の口調で懸命に原田さんに訴える。「律儀な彼(精神病院に入れられた後、心筋梗塞死)は、自分の獲ってきた魚を多くの人たちが買ったのであり、その魚を食べた人が奇病になったとすれば、獲ってきた本人が魚を食べて奇病になったとは口が避けてもいえなかった」と、原田さんは書きとめる。
律儀な人たちはいっぱい居た。千代喜さんもその一人である。申請できるほどに長生きしたが、病状は悪化して最後は半ば狂気の数年だった。千代喜さんの見えなくなってきた眼には、学問の壁が黒々と映っていたのではないかと、私は思う。


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