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シモーヌ・ヴェイユ著『ヴェイユの言葉』を読む
エロスの透明性、透き通った「いのち」
ヴェイユをまた読み、やっぱり立ち止まる

図書新聞 2004年6月12日

「理性が信仰を命じる」。この命題にならない命題に、ヴェイユを読んでいるとどうしても行き着く。ヴェイユに引き寄せられるタイプは、信仰をもたないゆえに「なぜ」と問い続け、かつそのような旅人であることを止めたがっているのだろうと思う。そしてわたしはヴェイユに引き寄せられる。

学者や研究者は旅人であることの覚悟を選択した人である。ポパーを引き合いに出すまでもなく、その所業に終わりはない。ではポーキングホ−ンのような、素粒子学者であり聖職者ある人はどうするか。素粒子学とはいえ、それは神学の一部門と言える。一五世紀末のピコ・ミランドラ以来、創造主は人を規定していない、ただ自由のみを与えた、という枠組みのなかで、創造主の定めた世界を探究するという自由を選択する者が出てきた。ポーキングホーンはそうな人々の典型である。

創造主の定めた世界という枠組みをもたない素粒子学者や宇宙論学者、あるいは学者一般は当然いる。ただし、ホーキングのようなまぎらわしい宇宙論学者もいる。創造主は要らないと言いながら、宇宙の五つの力を一つの方程式で表す、それが自分の究極のゴールだという。この究極のゴールを定める、あるいは究極のゴールを目指すという姿勢こそ、創造主の定めた世界、すなわち始めと終わりがある世界を下敷きにしている。

ホーキングが自分は無神論者だと言うとき、それはニュートンと同じように創造主の役割は終わったと言うことの表明なのだ。ステントの、今の西欧の多くの若い研究者は無神論者というけれど、自分がいかに有神論者であるかわかっていないのだ、という指摘は、まさにホーキングのような学者にあてはまることになる。ただしホーキング夫人は無神論の夫と暮らすことはできないと離婚したから、実生活上、神は要らないという態度は大問題になる世界がある。

旅人には二種類ある、行く先があるのとないのと。しかし後者にあって、行く先が見つかるだろうという思いを点滅させたり次第に深めたりしてゆく旅人と、行く先があったのに消えてゆく旅人と、あてどのない旅人、というような区別があるだろう。芭蕉はどうか。僕の前に道はないと謳った詩人はどうか。湯川秀樹はどうか。

あてどがないけれど歩き続ける義務がある、という思いがいちばん因る。好きだからとか幸せを求めてだとか、ましてや人顆のためになどという理由は中途半端もいいところである。真・善・美を求めて、いや事実だけがほしいのだと言っても「なぜに?」という問いがかぶさる。休み休みにせよ、もういい加減にしたいと思うにせよ、なぜ歩き続けるか。

一つの答えは義務としか言いようがないというものである。そして、しかし、義務を認めるなら、ゆきつつ、あるいはぐるぐる回っているにすぎないリカーシブな道のりにいらだつこともないのだと思うのだが、やっぱりもどかしい。尋ねてゆけば何もなし、無根拠からの出発と言い切ってしまえばいいと、そのようなタイトルの書を読みながら思う。でもそういうふうにならない。ブラックボックスのなかから義務が出てきた、それを内なる、内発的な義務とするとき、その義務にこだわり、その義務についていじるのなら、どうしたって外が必要である。ブラックボックスの外が要る。われに地球外の足場を与えよ、さすればと言ったアルキメデスからゲーテルまで、論理は外部の、別の系の必野性を指し示している。そして外部は理性では追究しきれないことは、他者論で明らかである。

内なる義務の淵源は外にあって論理ではそこに分け入れない。そのことが痛切に腑に落ちること、それが問題である。どうしたらよいのか。

入り口は二つある。一つは体験のあり方である。一つは信念のである。体験については常識的に身体がかかわるものとすれば、わかりやすい。しかし信念については、それと信仰とどうちがうのかと言われると錯綜するのだが、信仰とちがう信念、無自覚な信仰ということが思い浮かぶし、信仰を神にしろ菩薩にしろ山川草木にしろ、「いのち」にかかわる信念とすれば、いわゆる信念はそれより広く設定されているだろうことは言える。

体験について、身体が耐えきれなくて悲鳴をあげ、その限界のところで心が変化する様な体験がある。生物としては適応の一種で、人では回心という現象が起きる。徹底的に自尊心をたたきつぶされる場合にも、宇笛飛行士のような全きの孤独に置かれた場合にも起こることがある。回心というキリスト教信仰の突然の訪れがヴェイユにはあった。エ場労働者として、生涯消えない「奴隷の烙印」を押されて、ヴェイユは突如としてキリスト教が奴隷の宗教であることを理解したのである。

自分が奴隷であること、キリスト教は奴隷の宗教であること、奴隷はキリスト教を信じざるを得ないこと、だから自分もキリスト教を信じる、という理性の働きがここにないとはいえない。しかし祈りをとなえるとき、キリスト自身が現存するときがある、それは感動的で愛に満ちた現存であるというとき、もはやここには理性はない。生々しさをまったく排除したエロスがあるとして、そのエロスがあるのかどうかわからないけれど、ヴェイユの場合ありそうにも思えるし、反面、男キリストと女ヴェイユにおけるエロスを吹っ切ることはできない。ひっくるめるとやはりヴェイユの信仰告白からはエロスの透明性、透き通った「いのち」が浮かび上がってくる。しかし透き通った「いのち」への回路は信仰しかないのかという思いもまたやってくる。

身体的な過酷な体験が他の人々の不幸の理解と共に、理性を超えた心の働きを生む。じゃあ、自分もやってみるかというわけにはゆかない。もともと身体が虚弱であったり、お坊ちゃん育ちでは、やってみたところですぐ降参してしまうし、やってみようとする観念も安手なのだ。そして中間階層として喜怒哀楽の幅がせまく、ほどほどの常識と収入をもって暮らしている者にとっては、過酷な体験をしようという発想がそもそもない。たとえ発想したとしても、その過酷さはたかがしれている。ヴェイユだってお嬢さん育ちだと言えなくはない。しかしユダヤ系ヨーロッパ人であることだけでも、日本でいうお嬢さん育ちという揶揄が通じないものを感じさせる。信念の問題に転じると、体験・環境と切り離された信念はあるのかという問いにぶつかるが、その問いから離脱出来る余地として、理性しか信じないという信念がある。この信念の発生の土壌もまた理性を裏切るが、例えばお酒を少し飲んだだけで自分に現れた気分を嫌悪し、以後酒は飲まないというのも一つの土壌である。

理性しか信じないという信念のあり方をヴェイユは「神の不在」で表そうとした。不在とは留守にしていること、あるいは居ることを証明出来ないということである。理性が届くかぎりの範囲で徹頭徹尾神は居ない。「わたし」が安全である限り神は居ない。「『わたし』が部分的にせよ破壊される希有な瞬間」、神は有在である。「わたし」が居て理性を働かさせている限り、神は完全に不在であり、それは論理的に必然で参る。

そしてこの不在の必然こそが神の実在である。「神が完全に欠落したものとしての世界は神そのものである」。「そして」で始まるこの二文の「そして」は跳躍符号を示し、跳躍によって信仰の世界に入ったことを意味する。ここのところをスルスル読めれば、おそらくヴェイユの言葉を精選した本書を読むことはなかった。怖いもの見たさというのか、傷口を引っ掻こうというのか、読み進めないヴェイユをまた読んで、そしてやっぱり立ち止まっってしまう。

情のうすい心の幅がせまい中間階層者が暮らしてゆくには、理屈が通るということに依拠せざるを得ない。そして理屈をそれなりに通してゆこうとすると、際限なく歩むことに気づき、多くは学者とか研究者と呼ばれる部類に入り込んでゆく。それは決して居心地のいいものではないし、さりとて歩み続けるにせよ、またもっとしばしば歩むのはいい加減にしたいと思うにせよ、踏み切る決断が必要で、道から横への跳躍が必要だという意識は徐々に固まってゆく。しかしそのような意識がいかに形成されようと、実際に跳ぶこととの間にはそれこそ深淵があるのだ。

この本の編訳者である冨原眞弓は、「序」で「読みの多用性」を強網している。また『シモーヌ・ヴェイユ 力の寓話』(青土社、二〇〇〇年)という著作では、ヴェイユに対する「無数のレッテル張り」と、過激革命家とキリスト教神秘主義者としての「ふたりのヴェイユ」説に対して、後半生のヴェイユの「回心のドラマ」に最初惹かれたが、やがて「回心のドラマ」は自分のなかで崩壊し、「もっと柔軟に多層的に錯綜するプロセス」が浮かび上かってきたと述べている。編訳者自身がカソリックであるということのなかでのヴェイユの変容である。カソリックであることからの読みによって、ヴェイユは多面体化したのである。無信仰にして、かつ「なぜ」と問わざるを得ず、しかもその始末は死という沈黙によってでしかないだろうと思う者にとっては、ヴェイユはひとすじの白い光芒のようである。いやおうなく引きつけられ、そして近づくことはできない。「理性が信仰を指し示す」地点で立ちつくすしかないのである。

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