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接点の凝視 ―序にかえて―
東大全学助手共闘会議 最首悟

最首悟(著)、『山本義隆潜行記』、講談社、1969(昭和44).12.8 第一刷 発行

日本の支配階級の代弁者である佐藤自民党政府は、すでに安保条約の自動延長を決定してしまった。その上、自衛隊の治安出動訓練を大がかりにくりかえし、昨年に比べ、二倍に増えた機動隊に、大量の毒ガスを持たせて、反対運動に立ち上る者をたたきつぶすと豪語している。一〇・ニ一国際反戦闘争の際は、ベ平連を除き、全共闘、反戦青年委員会の集会さえも、全面禁止とし、二万六千の警官をもって、東京を「戒厳令」がしかれたに等しい状態とした。秦野警視総監は、このとき、新左翼を追いつめることに成功した、これも一般市民の協力のおかげであると語り、新聞やラジオ、テレビも夫唱婦随の美徳を発揮した。共産党や、総評、社会党もますます、暴力学生糾弾、反戦派労働者排除キャンペーンのボリュームをあげた。学生の必死の闘いに対して、「暴力はよしましょう」という、官・マスコミ・既成左翼一体の叫びは、天にもこだましそうである。

しかし、それは真に「民の声」であろうか。大衆の奥深い心の底からの叫びであろうか。

一〇・二一闘争のとき、マスコミが一斉に流したニュースの中に、築地の若者たちの声があった。築地で火炎ビン闘争を展開した学生たちが逮捕されたとき、この若者たちは、横動隊に拍手をおくり、「こんな学生は殺してしまえ」、「いいから殺しちまえよ」と口々に叫んでいた。この人たちは、名付ければ、庶民であり、大衆であるだろう。そしてこの人たちの表現のほうが、ほんとうだとわたしは思う。ガラスをわられ、自動車をぶっこわされれば、こう叫ぶのも無理はないと、大部分の人は思っただろう。

「殺してしまえ」といった人たちは暴力思想の持主であり、「無理はない」と思った人たちもそうである。「築地の若い衆たちは、学生の行動に怒りをもって、口々にこういっておりました」と、同情と寛容の念をもって、紹介したマスコミも暴力思想に貫かれている。付言すれは、六〇年以来のわたしの経験の範囲内で、採決が不利だと判れば、常に退場戦術をとり、全共闘暴力集団糾弾と称して、武装し、人目につかないところで、さんざんにテロ、リンチを行う日共=民青などは最たる暴力主義者である。

わたしたちの間でも、わたしたちの暴力は、暴力ではなく実力であるといったり、商店街の人たちや、日共民青のように、断じて暴力ではなく、自衛だという場合もあるが、実力も自衛も暴力であることに変りない。「自衛とは、相手が攻めこんでくる可能性がある場合、こちらから先制攻撃をかけることを含む」という自衛論議に関する政府答弁を、ここで思い出すことも無益ではない。

「暴力はいけない」というタテマエのもとに、誰もが暴力肯定であるというのは、一体何を意味しているのだろうか。それはなによりもまず、「暴力」をまじめに受けとらないということである。まじめに考えないという点では、佐藤首相をはじめ、誰もがいう「人間尊重」ということと対比できるだろう。

「一方ですべての人が『人間の神聖』を言い、他方ではだれ一人それをまじめには受けとらない、――それと意識さえされないこの奇怪な分裂のなかに、ひょっとして、現代のあらゆる場面に現われる果てしない分裂の、深く隠れた病根が潜んでいるのではないだろうか」(高橋克巳「万人の事としての哲学」)

この適確な指摘のなかの、近代以来「確立」されてきた「人間の神聖」を「暴力はいけない」という句に入れかえれば、わたしたちの状況は、はっきりするだろう。いな、それだけでなく、暴力をまじめに考えることは、即人間の尊重に結びつくという示唆が得られるはずだ。暴力をまじめに考えようとすれば、人間の尊重をただいっても何も意味しないように、暴力一般をあつかっても無意味だという認識へは、ただの一歩で到達しよう。

ベトナム戦争であなたはどちらの側につくか、アメリカかベトナムか、どちらでもないとはいわせない。なぜなら、どちらでもない日本人は、日本人を代表することになっている佐藤政府を通じて自動的にアメリカ及び政府軍側につくことになっているからである。もしベトナム(解放戦線)の側にたつとすれば、あなたは解放戦線の行使する暴力を肯定されるのか、否定されるのか、後者であった場合、あなたは、ベトナム解放戦線に向って「非暴力」をすすめ、やっぱり「話し合いで」という勇気があるだろうか。

わたしたちがこう問われたとしたら、わたしたちは、暴力を二つに分類し、その一つとしてベトナム解放戦績の暴力を肯定するだろう。すなわち、迫害され虐げられた人たちの行使する暴力として。支配階級の暴力と被支配階級の暴力をわけたとき、すでにわたしたちは、そのどちらかを選択しなければならず、まして双方が鋭くぶつかっているときに、「暴力はよしましょう」とは、口がさけてもいえなくなってしまうはずである。ここで暴力一般は消え失せ、暴力の分類と、何のための暴力かという、「暴力の目的」が登場してくる。

ベトナム戦争は、民族解放闘争であり、ベトナム解放戦線の暴力は、充分に意義のあることだ。しかし現在の日本はベトナムとは異なる。ベトナム戦争にかこつけて、新左翼の暴力を認めるような方向に誘導されるのはごめんだ。いったい学生のふるう暴力に現段階で必然性があるのか、学生は虐げられているとでもいうのか。

このような反論がただちに出るであろう。この反論の当否はさておいて、もし誰からか実際にこの種のことをいわれたとき、問題としたいことは、話がどんどん具体化しているということである。日本とベトナムがちがうとすればどのようにちがうのか、ちがうとした上で、日本と.ベトナムとはどのようにかかわりあっているのか。ちがうという日本で、学生はどのような位置や状況におかれているのかなどは抽象的な話では毛頭なく、さらにこれらを分析してゆく過程で、話は、もっともっと特殊、具体的になろう。このように思考を続けている間は、わたしたちは、一見妥当と思われる一般命題から遠ざかり、その一般命題に対する判断を留保している。そして、特殊、具体的な事柄から再び一歩一歩上昇して、一般に到達しようとするとき、はじめて一般命題は肉づけされた意味内容をもち、現実のこととなるのである。

「暴力はいけない」ということが、そのようなものとして現実化するまで、あるいはそのようなものになるよう、わたしたちは、この命題を自らに疎遠なものとみなすし、さらにわたしたちの現在いる社会の矛盾をおおいかくす、虚偽のイデオロギーとして批判し続けなければならない。

子供が丈夫に育つように願い、家族の幸せを求めて、一生懸命働き、しかもカツカツの生活しかできぬ大部分の人にとって、それだからこそ国鉄の一日ストを迷惑と感じ、まして全共闘の火炎ビン闘争など、とんでもないと怒るのはむしろ当然のことである。しかしそうして一生懸命働いて、つくりあげたものがナパーム爆弾であり、それは一瞬にして、自分と同じような家族を何十となく消滅させ、孤児を何百人もつくりだすということもまた現実なのだ。

日本ではナパーム爆弾づくりに直接従事しなければならない労働者は、それは全体からみれば少数かもしれない。しかし朝鮮戦争特需を通して立ち直った日本の経済、そして今またベトナム特需でかせぎまくった日本にすむわたしたちは、比喩的にせよ、一人一人がナパーム爆弾をつくったのだ。しかもつくりたくはないとソッポをむいたら、生活できないしくみのなかにまたいるのだ。「暴力はよしましょう」といいながら、どれほど大きな暴力が支配する社会にわたしたちは生きているのだろうか。また屈しているのであろうか。

だからわたしは、ほんとうに尋ねてみたいのだ。「こんな学生は殺してしまえ」と率直に叫んだ築地の若者たちに向って、「あなたは今まで何度殺してしまえと叫んだか、そしてその対象は何だったのか」と。

昭和二十九年、戦後最大の汚職といわれた造船疑獄において、捜査が進み、自由党幹事長の佐藤栄作の逮捕必至となったとき、犬養法務大臣は、指揮権を発動して、佐藤栄作の逮捕を阻止した。そのとき十七歳だったわたしは、「ふざけやがって、吉田も犬養も佐藤も皆殺してしまえ」とほんとうにそう思った。こんなに古い事実(当事者が現職総理大臣という点では絶対に古くしてしまってはならない事実だが)をもちださなくても、この類のことは現在ざらにころがっている。そういったことに対して「殺してしまえ」といったり、思ったりしたか。もしいわなかったとしたら、何ゆえにとみずからに問わなければならない。

くりかえすことになるが、築地の若者たちの学生にたいする「殺してしまえ」という叫びをそのこととして、否定はしない。理不尽だと自分で思ったことに出会ったら、「論理に先行する行動を」というのが、まさに「全共闘運動」の根幹だからである。「まず、ギャーとわめこうではないか」をモットーとするグループも実際にいる。しかし同時に、どんな場合に行動しようとしたのか、そしてそれが擬似普遍性に安住しての行動か、人間という存在にかけて、普遍性に向おうとしての行動なのかを「深く問う」ことこそ、「全共闘運動」のさらなる根幹なのだ。

昨年十月、国際反戦デー新宿闘争にたいして騒乱罪が発動されたあとの数日間、教養学部では、いっさいの立看板、ビラ類が姿を消し、雨が続いたこともあって、学内は深閑となったことがあった。一方、全学部無期限スト体制の確立、堅持を主導した全学共闘会議の闘いに、追いつめられた大河内執行部は、秘かに新収拾案を練っていた。

わたしたち助手共闘は、事態は重大と考え、また東大全共闘も参加した新宿闘争の「勝利万歳!」を、単純にただ一句叫びたい衝動にかられて、ビラをつくった。

   東大闘争の決定的局面を闘いぬけ     一九六八年十月二十六日    全学無期限ストライキで闘っている学生諸君、大学当局は常軌を逸した拙速主義をもって、またもや事態の収拾をはかろうと動き出した。彼らの動きは、腐敗した土台にあくまで固執し、その上に、一部の諸君の喜びそうな擬制民主化ないし近代管理体制を接木しようとするものである。腐敗した土台とは何か。国家権力と癒着し、日本独占資本主義の高度な発展を支える純体制内的支配機構であり、年功序列、身分職階制に裏打ちされた権威主義・伝統主義・学問至上主義である。この土台に対する徹底的な攻撃を欠いた「大学改革ビジョン」などは、たわごとであるにとどまらず、「よりよき管理化」への積極的協力を約束する犯罪をおかすものに他ならない。

闘う学生諸君、冷静に大胆に(大学)を破壊せよ。半焼家屋の跡に新しき家をたてたいと欲するならば、まず半焼家屋を焼き滅さねばならない。ここに、その最低の作業として以下の項目をかかげる。東大闘争を闘うすべての学生・院生・若手研究者・職員諸君、いま一度不退転の決意を新たにして、この闘争を闘いぬこう!(以下略)

青医連や政治党派の運動、そしてより多く山本義隆などを中心とする全闘連の運動に牽引されながら、わたしたち助手共闘も、「要求獲得集団のツマ」としてでなく、また全共闘の支持者としてでなく、端的に現在の(大学)をつぶそうとする全共闘の一員にようやくなっていったのである。

わたしたちの場合、それが、決意の表明やスタイルの次元でしかなかったにしろ、ともかくもヘルメットをかぶり、封鎖闘争やデモに加わっていったのもこの時期である。戦術的には、現体制のなかでの助手という特殊性を利用しながらも、駒場の学生とか、大学院、助手の枠、さらには学部の枠をとりはらった闘争体のなかではじめて生れてきた全く新しい連帯意識を、わたし自身実感できたし、また容赦のない数々の批判をあびてきた。

そのような経験をとおして、混乱しながら、「全共闘運動」とは一体なんなのだろうか、自分は正直なところ、どのようなかかわり方をしているのだろうかと、思い続けた。漠と思い、想い続けたのであって、考え続けたのではなかった。そのように「全共闘」や「東大闘争」は不定形、不可思議であり、新しかった。「七項目」をかかげて一歩も退かないという意味では単純明快であったが、その闘争を支える組織論、運動論、全体としてかもしだされる思想は、硬くなく、振動していた。そのように思うことは、わたしの立場が曖昧で、矛盾にみちているからにすぎないという批判は正当である。しかし機会あって、それは全共闘のいろいろな組織からのメンバーによる座談会をまとめることであったが、東大闘争の到達点を文章化しようとしたとき、ボーと坐りつづけた上で、客観的全共闘論を書くことを放棄してしまった。わたしは、自分の自家撞着や矛盾をぶちまけ、そういう身として、全共闘運動のどこに共鳴するかを、かろうじて表現することはできた。

それは一言にしていえば、接点の思想とでもいうべきものであった。

倉橋由美子は、「非政治的な立場」と座した文で(「潮」一九六九年夏季別冊号)、賢人ピェロンの提唱する「無関心」と「判断留保」が非政治的な立場にたつ人たちの依るべき徳であって、それは、疑似的政治行動、すなわち「政治ごっこ」に加わることを「禁欲」することを意味するとした。体制側にせよ反体制側にせよ、いずれかのエリートに接近することをしない個人としての、または個人の集団としての意志表示とか、デモは児戯とでもいう他ないとして否定する。そして結論を次のように書いた。

「ところで非エリートの『無関心』と『判断留保』とは結果的に『体制的エリート』を利する態度ではないかといわれれば、その通りだと答える他なくて、私たちは、じつはそのような形で『体制的エリート』に暗黙の支持をあたえているのである。そのことに飽きたらぬ人間は、くりかえすことになるが、いずれかのエリートに接近して政治家になる以外になくて、その場合にはじめて、自派の利害とイデオロギーとにもとづいた判断や意思決定が可能になる」

「体制的エリート」に暗黙の支持を与えることを拒否し、なお反体制的政治家になることを拒否しようとする道を、倉橋由美子はこのように明快に断ちきった。そして、この切断にたった運動も現実に全共闘運動を構成している。マキャベリの論理に基いた必要悪としての人間の操作手段化、そこから生まれる自己絶対化の思想と、組織構造、一般にセクトと呼ぶ運動である。

政治と非政治、反政治とか、日常と非日常、あるいは日常と革命、さらには前衛と大衆という言葉は、ほっきりとした対立概念を示し、それぞれの関係は切断されていた。もっとひろげれば、学問、研究における専門家と素人、学生と教授、さらに抽象的には、絶望と希望、勝利と敗北、玉砕と妥協、悠長さと性急さ、など、それぞれ二つの異なる世界や概念をつくり、それぞれしっかりと安泰であった。しかし、わたしたちのぶつかった、または強いられた状況は、そうではなかった。それは単に、言葉や概念が意義を失い混乱し流動化しているということではない。日常は日常として、革命は革命として厳然とある。しかしその二つが、触れ合い、せめぎあっている世界に、わたしたちはいやおうなくおしこまれたのである。そして、そのどちらかに身をおくことも、どっちもどっちの相対化(戦後民主主義思想!)をすることもできないのだ。

その結果として、わたしたをはまた、いやおうなく、二つのものがふれ合い、せめぎあっているその場に身をおくことを選ばざるを得ず、あるいは選ばうとするのである。険しい尾根道のごとく、また二円のふれあう接点のように、その場は細く小さい。そんな場所をみつめつづけ、そんなところに居つづけ、あるいは歩もうとすることができるのかどうかは、「予測不可能」である。

しかし、そうしようとつとめる、そうしなければならないおいめをもっているというのが「自己否定」であり、それを支えるのが、「根源的に問い続ける」態度なのではないだろうか。

「彼にとってその時、『主体』とは、この現実世界の『秩序』の中でかぎりなくギシギシときしみ続ける自らの存在のことであり、『自己否定』とは、もはや安らぐふところを失った自らの生命の道程――ジグザグの道のことである」 (松沢俊郎「新たなる前進のために」)

ジグザグの道――それは迷いに迷う、血統証明書をもたない者の細くかぼそい「生き方」であり、同時に、したたかな、不逞の輩の「歩む道」である。そしてわたしには、それが接点のように小さくみえる。

無数の思念、想念にあふれながら、それを表現すれば、キレイ事でしかない状況に、わたしたちの大学闘争は、ますます突入しつつある。「状況先取性と状況抵抗性」(高橋和巳)の二つながら、わたしたちはどのように自分のものとするか。そして、自己絶対化をどのように避けようとするのか。

いずれにしても即答はない。ただいえることは、ヌエといわれようと、わたしたちが見いだした道を歩む他はないということである。

   一九六九年十一月

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