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土本典昭追悼
自らを未党派と名付ける

『週刊読書人』通巻・第2746号 2008年7月11日号 8面

最首悟

 土本さんには、不知火海の島々を含めて水俣現地についてほとんど全てを教えてもらった。自動車による移動は不可欠で、土本さんはタフな運転者だった。東京から青森までノンストップで運転して、さすがに腸捻転を起こしかけたことがあるという。そのころ、70年代の終りから80年代の初めにかけて、川崎埠頭からフェリーで日向に着き、九州を横断して水俣に向った。あるとき、夜、真っ暗な椎葉村山地に入りこんだ。行けども行けども抜けられない。40歳で免許を取った下手なわたしは、土本さんの車に必死に追随していた。土本さんはそれを振り切るようにスピードを上げる。そしてついに道に迷ってしまった。

 土本さんを思うと、このことが思い出される。先陣を切って追随を許さない気迫があった。そして追随者を振り切って未踏の地に飛び込んで行く。飛び込もうという決意からでなく、続こうとする者を振り切ろうとして飛び込んでしまうのである。そこにはある種の稚気があった。稚気は少年の含羞に通じ、含羞は根源的な疚しさに根ざし、疚しさは潔癖感と正義感と自己犠牲につながる。根源的疚しさとは殺して食わねばならないことへのこだわりであり、それゆえにさまざまな疚しさを堆積させながら滅私をほのめかせる。

 徹底した皇民教育を受けた土本さんに、滅私はそのままに、「党」がそこに現れた。そしてさらに疚しさを累積させながら、土本さんは現実の「党」と決別する。しかし「党なるもの」は変わらずそこに立っていて、土本さんは自らを未党派と名付ける。いまだ党ならず。無党派は自立と主体性と共に語られている、自分はそうではないと土本さんはいう。きっと純にして美しい像がそこにはないからだ。だらしなズボンに辟易しながら共感するのが無党派だからだ。

 一九七一年、患者一二一人の「水俣 患者さんその世界」が世に問われた。ほとんどわけも分らず見た。水俣病のタコ取りおじいさんが満足げに笑う。その金歯が陽を受けてキラリと光る。モノクロの画面の中で、ほんとうに黄金の光がこちらに向って放たれたような気がした。それがそんなにも鮮明なのは、記憶のなかで徐々に醸成された幻だからかも知れない。七〇年代末、土本さんに少しずつ付きながら、この場面が重くなって行く。土本さんの渾身の力を感じる。ぶしつけで浅慮ながら、あえて言わせてもらうなら、続く土本さんの水俣諸作品は、この場面に凝縮する「患者さんとその世界」をさまざまな角度から、私たちに分るようにという心づかいのように思えてならないときがある。

一九六五年、土本さんは水俣に行く。水俣病発生と水俣病補償はともに五九年暮れに終わっていた。そしてチッソ水俣工場は千葉県への移転をめぐって大争議が始まり、組合の分裂は地域の分裂となり、その中で水俣病は患者家族によってもひたすら隠されていた。禍をもたらすカメラを抱えた闖入者、烈しく罵られながら、土本さんは「生きている人形」と言われた少女に会う。「人間はあらゆるものにせよ接しつづければやがて慣れるものという考えは、この人のばあい、ちがう」と土本さんは記した。「あらゆる理解と交感を拒否する悲劇の絶対価のような存在」。絶対を記録し表現できるのか。

 五年の後の「水俣 患者さんとその世界」、それは一条の光となって画面から放たれた。その五年の間の土本さんの苦闘とその解き放ちを思う。映画は「生きものの記録」である。わたしは今、いささか「いのちはいのち」であるという言論をしようとしている。「いのち」は、ただを含む無量価値、人間の器量では計り知れないものであることに逢着しようとしている。「いのち」の言論、表現という作法で言えば、わたしは土本さんにその入り口に連れて行ってもらった。それはすなわち未党派と無党派の接点を土本さんが見て採ったことを意味する。その入り口からの回廊をわたしはもう少し歩む。

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