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いのちの作法

2011年7月18日に「臓器移植法を問い直す市民ネットワーク」で行われた講演録。

最首悟

<はじめに>

人とは、「こと」なのか「もの」なのか。「もの」とは存在しているもの、「こと」とは進行している事態。私は「もの」と「こと」は分けられないと考えています。臓器移植は「もの」と「こと」を分けることで成立している。

<自然科学の危うさ>

人には免疫と親から受け継いだ遺伝特性があります。自然科学は自然現象の仕組みや仕掛けを探究してきました。しかし、生物科学においては、その仕組み・仕掛けと私たちが実際に見えていること、聞いていることが繋がっていません。さらに、「いのち」というものを機械仕掛けのようなものとして弄(いじ)ってしまうことによって何が起こるかは、全く分からずにやっているのです。それはいのちを軽視しながら、いのちに全面的におぶさってやっていることを意味します。

<唯一無二のわたし>

出生時からの自己選択の積み重ねに重きを置きたい。自然科学は、ヨーロッパ文化という一つの文化から生まれた営みです。でも、それは世界を覆う文化ではないし、私たちが築いてきたのは単一文化ではありません。私たちは生まれた時から、無数の選択をして生きています。その積み重ねと、免疫遺伝特性と風土が共に個性をつくりあげています。とりわけ人間については、徹頭徹尾、唯一無二であるといえる。それを損なう思想と体制が国家と資本であり、それを私は国家資本複合体と呼びます。国家資本複合体が、最も個性を奪うものです。

「選択」は複雑で、私たちの選択の中には、お任せ、意思表示しないという選択もあります。中野好夫(英文学者)は民主主義の3原則として、「インフォームド・コンセント」(納得同意)、「表現の義務」(間接民主主義では投票が義務)、最後に「民主主義にカリスマはいらない」をあげています。根っこは唯一神教的考えで、意志表示は権利でなく義務なのです。私たちはそれは権利で、権利は放棄していいと思っている。

<法について>

西欧の「法」とは、神の究極的な罰という重石がある一神教の上で成り立つものです。日本の法にはその基盤がない。だから裁判では「良心(聖書)に誓って」というが、日本では良心は曖昧です。日本の法は信用できない。まして人の死を安直(短期間、多数決)に法で決めるとは何事だろう。西欧的な土壌のない日本においては別の形の重石が必要になります。

<自分の選択>

私たちの個性とは、積極的に打って出るだけではない幅広いものです。そこでの選択とは、お任せや選びたくないという、相当きつい(間違いたくないという)判断もある。そういうことを無意識にやっているのが個性です。西欧では、人間は神に与えられた人格(パーソン)として平等かつ尊厳があり、その規定によって臓器移植、バイオテクノロジー、さらには原発が操作、製作されるのです。

<私はいのちそのもの、いのちは分けられない>

「いのち」とは、すべてにおいて第一次なのです。その前にゼロ次として神や仏があるとしても、一次よりも背景にあるとしたい。そして、いのちが何かを発言することはないというのが大切です。これに対して神や仏のご託宣があります。神や仏を否定するものではありませんが、一次のいのちの沈黙をまず、そして、あくまで重んじ、神や仏というのはもっと奥深く大事なものとして、みだりに引用参照しないことがが大事です。

いのちという「こと」(関係の総体)がすべてであり、いのちがものになって姿を表してくる。私はいのちそのものである。そして、いのちは、始まらない。いのちの起源はなく、ずっと続いている。この理解が、西欧近代文明にはない。生命は始まったとされます。始まった生命がモノ化し、人間という生命には精神があり、精神は不滅であると分ける。本当にそうなのか。いのちはすべてであって、私はいのちである。わたしはいのちの分有である。ものは単なるモノではない。これを唯(ゆい)いのち論として追求したいのです。

<思想と政治経済>

近代文明を振り返ると、400年前と、1920年代と70年代の三つの変動がありますが、やはり400年前が問題です。精神と物質をはっきり分け、身体は機械であるという考えです。それが科学技術を到来させ、実際に人間の臓器を取り出して、移植することが可能になる時が急速にやってくるのです。その後、思想上は精神と物質の二元論はさすがに維持できず、ついにはいのち論的になってくるが、実際の政治経済においては、二元論に基づく科学技術が貫徹する。

<科学技術文明とアンバランス>

ノーベルのダイナマイト(1866)、第一次世界大戦で毒ガス兵器、第二次世界大戦では核兵器が開発されます。1960年代は化学物質汚染が始まり、原因追究が難しい複合汚染状況を招く。そして、DDT汚染を追究したレイチェル・カーソンの「知的存在がなぜかくもつり合い失ったゆがんだ考えを持つに至ったのか」という問いを生み出しました。2、3種類の害虫を駆除するのに人類を破滅させるような道具を使う知性とは何か、バランスを欠いた科学技術文明とは何なのかと。

いのちとはバランスです。動いて止(や)まぬ動的なバランスです。知性がそれを傾け始めた。いのちが復元させ補ってきた「聖なるバランス」(デイビッド・スズキ)。今、その復元にも限界があることをを福島第一原発の事故は表している。しかしそのアンバランスを解決するのは、いのちしかないのです。アンバランスを止めるにはそういう考え方、生き方しかないのです。

わたしたちのいのちは、日々膨大なメンテナンスを行っています。壊死ではないアポトーシス(細胞自殺)による細胞の入れ替わりはその一つですが、その複雑さについて、多分、人間は認識不可能である。その認識不可能性の確信に至るには、自然科学のさらなる発達を待たねばならないが、もうその時期に来たようです。ベストセラーを出した先端分子生物学者の福岡伸一は、いのちとは分からない、表現していくしかないと分子生物学者を止めたのです。野蛮というか蛮勇というか、モノと政治経済のからみの中の医療の突出が臓器移植です。

<医療の変遷>

知性を持つと考えられる人がバランスを失し、二度の戦争で科学とテクノロジーを刺激し、医療も戦争と共に進んだ。731部隊の問題も然り。60年代には病院医療が急速に進み、医療費の高騰にWHOのアルマ・アタ宣言(1978)が出てくる。地域医療(プライマリーヘルスケア)と伝統医療の復活、自助精神を重んじようというのです。60年代末の公民権運動と連動した患者の権利の一つの、インフォームド・コンセントは生命保険会社に首根っこを押さえられた医師の自衛策でもあったのです。医療は保険・製薬・機器産業の支配下に入ったのです。

<続かないこと>

バイオテクノロジーは、ハンチントン病の遺伝子診断を可能にしましたが、アメリカの保険会社はこれを担保しない。担保しなければ保因者は医療にかかれない。国民皆保険制度がない米国では中流生活者が医療の埒外という事態が起こるのです。さすがこの事態は放置されませんでしたが、がん保険(余命が確定したら保険金を当人に払う)も含めて、政治経済が科学技術を駆使していかにいのちをだしに使うかを示しています。それは根本的に「いのちはつづく」を脅かすのです。P.D.ジェイムズの『人類の子どもたち』(1992)は、子どもが生まれなくなる世界を描いています。そこでは性欲や学問、芸術など全ての欲望が消滅します。わたしたちは続くことをもとにしていろんな欲望を持っている。続かないとなると、人間の欲望はなえてしまう。原爆、脳を破壊する水俣病、放射能汚染は、いのちが続くかどうかという根源的不安を私たちにもたらしているのです。

<人ではない生きているモノ>

IQが測れない重度複合障害をもつ星子(せいこ)が生まれて以来、ずっと問題にしてきたのは、精神と肉体というパーソン観です。それがネオモートという、意識を不可逆的に失ったら人間ではない、モノである、という考えを生み、さらにIQ20以下は人間ではない(J・フレッチャー)という、すなわちモノだというに至る。

テクノロジーは社会のアンバランスをもたらす。国家複合体はテクノロジーがなければ存続できない。その限りでのバランスを維持するには、老人には死んでもらうしかない。姥捨て山です。それが次には与死法に繋がる。安楽死よりももっと楽々と、より機械的に、事務的に老人を殺していく。片方で生命は地球より重いと言って、技術を駆使する。私たちがそこから足抜けしようとしているのか、足抜けできないが、どれだけ抜こうとするかが問われてきます。

<こころといのち>

波平恵美子の『脳死・臓器移植・がん告知』(1988)に描かれている、日航機事故の遺族が遺体の指一本でも見つけようと御巣鷹山に通う思いは、西欧文化では理解されない。わたしたちの死んでいるものに対する感性として、死んだからだは触れてはいけないもの、かつ放置することが許されないものです。埋めるか焼くか、日本列島人は近年焼くことを選択しましたが、きれいさっぱり失くしてしまうことで、そのものを保持したいという思いがある。生きているものならば、人のからだの中でも生きてほしい。二人の死を二人の生にする、それが臓器移植の容認です。西欧はあくまで二人の死から一人の生です。

死体腎移植を受けたイタリア・ルネサンス史研究者の澤井繁男は『いのちの水際を生きる』(1992)を始として、その推移をずっと書いていきます。女子高校生の腎臓だということがわかって、副作用もおさまり、腎臓の部分は家族にも触らせないサンクチュアリであり、「この子と生きて行く」と思う幸せの時期。しかし、腎臓が機能しなくなると、今度は女子高校生を憎み、早く出て行ってほしいと望むのです。澤井繁男の本は、レシピエントとして臓器移植をめぐる医療のあり方、医師の告発でもあるということが大事です。

彼はレシピエントとして、ひらがなの“いのち”に辿りつく。いのちということの中で私たちが生きている。いのちの感覚というものを書こうとする。そういう意味で、いのちが実は目に見えない「こと」ではなく、私たちが体現している「こと」なのです。体現している「こと」が「もの」です。どんなものも無機的なモノではない。

こころというのは、もの・ことのあり方であり、「ここ」ではなく、「ここら」ということにおいて、成り立つ。そのあり方そのものがいのちである。「こころ」とは「ここら」なんです。ここらという関係の総体であることにおいて、私たちは唯一無二の存在であることを示し、それは精神と切り離したからだをモノ(機械)と見なす西欧文化とはちがいます。近代西欧文化は機械をつくりコントロールする人間観を生みだしましたが、原発はコントロールできないという時点でその人間観はとん挫しているのです。いのちを第一次とする考え方への変換、あるいは発掘が求められています。

*質疑応答

・「いのちが続く」ということは、「個人のいのちが続くこと」と「人類とか生物などのいのちが続くこと」と分けることができ、本日の話は後者に力点が置かれていたと思います。 それならば、大きないのち、類としてのいのちを守るために、それを脅かすユダヤ人や障害者を病原体と規定したナチス、日本国家という大きないのちを守るために小さないのちを散らした特攻隊、社会を経済的に成り立たせるために、老人などのいのちを摘むべきという与死という考え、そういうところと、どう関係しているのか、もしくは関係していないのかについて教えて下さい。

最首:個の重要な一つの要件である免疫機能を歪めなければ成立しない臓器移植は、一人に向き合う医療に値しない。自分の個性をつぶすための医療はありえないことです。そして私という個は厖大な大腸菌などと共に生きている以上、類と個という区別は厳密にはない。私という個は、世界全部に広がっているのです。20世紀との決別とは、ユダヤ人をひとつの類と見なす考えとの決別でもあるのです。あくまで個でありながら世界であるいのちの理解を組み立て直さなければなりません。

・娘が4年半前にアメリカで心臓移植を受け、さきほどお話に出ました免疫抑制剤を飲んでいます。確かに悪性リンパ腫や慢性的な拒絶反応、あるいは感染の危険にさらされておりますが、今のところ元気です。移植とは、患者の親にとって他になすすべのないことであって、実際に移植で元気になっている方もいる。そういう色んな人がいることを私は言いたいのです。

最首:確かに臓器移植は、以前より技術的にも改善され、このお父様のように「本当にこの〔臓器移植の〕おかげです」という方もいらっしゃるわけです。ただ、いのちをなおざりにして、動植物を神からの贈り物とし、自然を管理・利用するという考えのもとで、人間だけの幸せを追究するということが、次第に国家資本複合体を肥大させ、国家企業にからめとられてゆく。日本の臓器移植も、推進する国会議員は国家としての体面を述べていた。このお父様の思いを否定することなんてできません。原発事故でも、被災者のみなさんに、大丈夫必ず助けるからという姿勢をつらぬき、かつ原発を推進する国家をつぶすという決意を固くしなければならない。お子さんは本当に良かったと思うと同時に、国家企業がらみの臓器移植はつぶさなければならないのです。

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