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2度と国による戦力は用いない――憲法9条をノーベル賞に

最首悟

自衛権の行使という題で、つぎのような文章を書きました。

ぜったいに、ほんとうだからね、約束したよ。――そしてすぐ忘れる。 他人(ひと)のことではない。わたしのことである。加藤周一は日本人は世界でいちばん忘れっぽい民族であると言った。のど元過ぎれば熱さを忘る。三日坊主。だからというか、忸怩(じくじ)とした思いで、一つくらいは大きな約束をしたい。誓いとなると、絵に描いた餅という。理想と同じで、こそばゆいし、神も仏もあるものか、と言ったりしてしまうけれど、やっぱり、シャンとするためにも、一つくらいは芯となるものをもちたい。

原爆慰霊碑の「過ちは繰返しませぬから」が浮かんでくる。主語は私たち。誰にか、私たちに。不戦の約束である。戦争はしない。武力・戦力は用いない。憲法九条である。

安倍政権のブレーンの元外交官は言う。日本は国連に加盟している。国連は集団的自衛権を認めている。ゆえに日本に集団的自衛権がある。権利は行使しなければ意味はない。

前段は、個別的も何も、自衛権はある、ということを認める。後段も認める。選挙権は行使しなければ意味はない、というようなことを大方是認するからだ。

しかしこの元外交官と決定的にちがうことがある。自衛権の行使に武力・戦力を用いないということだ。自衛権の行使に武力・戦力以外のあらゆる手だてをつくすということである。

私たちはずるずると現実に妥協しやすく、だらしないところがあるけれど、まだ自衛隊は軍隊だとは認めていない。そして徴兵制などは夢にも考えていない。ところが安倍政権の集団的自衛権の行使は米国の戦争に戦力を持って応援することだと言っている。

私たちはダラシない。それはホンワカに通じる利も持っている。それゆえにこそ、今、せめて一つの大きな約束を持とう、という気がする。自衛権の行使に国家による武力・戦力は絶対に使わないと。わが身に繰り返し刻み込みたい。

――「人権と教育」虫めがねコラム、2014年7月

いのちが脅かされれば、抵抗する、身を守る、これが自衛権の根幹です。個人的であろうと、個別的であろうが集団的であろうが、自衛権に変わりはありません。自衛権の放棄、そういう文言が力によって押し付けられたとしても、それは意味を持ちません。

問題は自衛権の行使にあります。ガンジーの無抵抗主義は究極の自衛権の行使のあり方を示したものです。日本はもう少し常識的に、自衛権の行使から国による軍隊の戦力・武力を外すとしたのです。それはすなわちそのほかのあらゆる手だてを用いると言うことの表明でもありました。国としては、謝罪・損害補償、平和外交などが第一に挙げられます。日本人――私は日本列島人と呼んでいます。私にとって国とは邦であり風土だからです――として、私たちは不戦の誓いを立てました。それが「過ちは二度と繰り返しませんから」です。

この広島原爆公園の碑文について、東京裁判のパール判事(インド)は、被害者が自分に謝ってどうするのだ、原爆を落としたのはアメリカではないか、と批判しました。しかし日本も原爆製造を開始していました。福島県の浜通り地区の福島原発から50kmの石川山で、1945年旧制石川中学校3年生がウラン鉱石の採掘に従事していました。その一人、有賀究さんは、完成していれば日本は必ず使ったに違いないと、強制作業とは言え自分も原爆製造に加担した罪悪感を持ち続け、石川山採掘の資料保存を続けてきました。

身を守るために、国による戦力は使わない。そのかわり、その他のあらゆる手段を使う。その一つが一人の主婦が呼びかけた「憲法九条にノーベル平和賞を」です。ノーベル物理学賞に原爆開発の理論と実際に携わった何人もの学者の名前があります。平和賞には非核三原則を秘密裏にないがしろにした佐藤栄作の名前があります。いろいろと釈然としないところがあります。しかし二度と自他国民の血を流す戦争をしない、戦力を用いないというあらゆる手段の一つとしての意義はあります。この呼びかけに賛同し、呼応し、そしてさらなる私独自の努力をすることが、いま求められていると思います。日本国家が仕掛けた太平洋戦争で、2465万人が死んだのです。

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