かけがえのない子だと実感するとき

四番目の末っ子の星子について、この子が平穏に暮らすためとあらば、なりふり構っていられないと意気込んだりするのだが、実情は星子という不思議な子に逆に鼓舞されているほうが多いようである。特に教育の問題についてはそうだ。

星子11歳、小学校障害児学級3年、ようやく、夜、なんとか寝るようになって、朝9時半から給食の前まで学校に行っている。学校では歩くこと、洋式手洗いに座ることが勉強である。丸呑みだが、かたいごはんを食べる。哺乳びんで牛乳をのむ。おむつをしている。目は最近ときどきあけるようになった。家ではあきずに音楽を聴いている。意外と癇癪もちで、生活の流儀が乱されると怒る。このごろワッと泣くようになった。
こういう話をすると、教育・医療関係の人はだいたいイライラする。もう少し何とかならないのか、親は無為無策である、星子がせっかく持っている芽をもつぶしているのではないか、というのである。善意はわかる。しかし、もっともな言い分とはあまり思わない。

子どもについて、「将来が楽しみですね」「丈夫でいいですね」「たいへんですね」という、およそ3通りの挨拶がある。一番初めの挨拶こそは、子どもにとって、脅威・不幸の始まりなのであるが、それはさておき、星子は3番目に該当して、期待度はぐんと落ちる。
もっとも、周り以上に家族の方が期待していないかもしれない。暑さが続いて何も食べなくなると、将来はおろか明日が見えなくなる。
しかし、と、ある有り難さをこめていうのであるが、将来がぼやけていくと、相対的に今日が浮上してくる。御多分にもれず、一日はせわしなく過ぎて行く。だから、今日一日をしみじみと大切に、などというわけにはいかない。ただ、何といったらいいか、今日をぬきにして思いが広がらないというか、今日に繋ぎとめられるというか、無理に飛び立たなくていいような感じがしてくる。それは不思議と家族に、安堵と落ち着きをもたらしてくれる。

星子の今日一日の平穏とは、いやなことがなるべく少ないということに尽きる。歯ブラシは突っ込まれるし、目薬は差されるし、星子もいやなことなしに一日は過ごされないのだが、平穏さはむしろ星子自身がつくりあげているといってよい。
例えば、牛乳を飲みたくなけれぼ、どのようにしても口を引き結んで開けない。嚥み下したくなくなると、口中にごはんを三十分でも一時間でも留め置く。硬軟とりまぜて、星子の拒否ぶりはほれぼれするばかりである。音楽は気に入らないと、身体をスピーカーと平行にしてしまう。いつもは寝そべって頭をスピーカーに突っ込むようにして聴いているのだ。
星子の欲望はたいへんつましい。そのかわり、拒否ははっきりしている。癇癪は自分の頭をこぶしで叩く。医師は、目が見えなくなった原因の一つであろうという。星子は、拒否の粘り強さ、激しさで、いやなことの襲来を防ぎ、平穏な生活を自力で確保している。そういった意味で、星子は十分に個性的で自律的である。家族は、しばしばそのことを話題にして感心し合う。上の子たち三人は、ヘきえきしながら、文句なく妹に一目おいている。

教育が、もし、子どもの自発性を重んじ可能性を伸ばす営為であるなら、さしあたり星子にする教育はない。
仰向けに寝ることも、結局は時期が来て、今年、自発的に自然に自分でやった。一事が万事である。教育が、もし、子どもの将来を慮って、社会や国家への適合性を養うものだとすれば、星子にはあまり縁がない。将来があやういのだし、型には絶対といっていいほどはまらない。
このことは、多かれ少なかれ、全ての子どもにあてはまるのだと思う。星子は特別はっきりしたところがあるにしても、子どもという存在からまるっきり逸脱しているわけではない。

星子が生まれて一番得をしたのは、上の三人の子だと思う。星子ががんばるお陰で、親の、星子とのつきあい方が三人の子へ及んで行く。ムチもアメも控えるし、個性を見ないわけにはいかなくなるのである。3人とも、自分の人生を歩みそうだ。高校も自分で決めた。

ただ、それは放任主義かといわれると、どうもちがうような気がする。大事なことが、もう一つあると思う。それは「わからなさへの定位」とでもいう、大人の姿勢である。
母親は星子に、「ねえ、星子、何考えてるの、ちょっと教えてよ」とよくいっているが、言葉を発しないだけに、ほんとうに星子はわからないことだらけである。モーツアルトの七歳の時の作品を聴いてクツクツ笑っている。何回聴かせても笑う。この音の跳ね方がくすぐったいんじゃないの、などと姉たちがワイワイいう。寝ながらほほえんでいることがある。星子はどんな夢をみるのだろう。

星子のことがわかるときもあるし、日常の暮らしでは、わかったと思い込まないとやっていけないこともある。しかし、基本的にはわからないのてある。ちょうど、ワカラナイ・ワカル・ワカラナイ・・・・と続くルーレット盤をまわすと、玉がワカラナイところでいつも必ず止まるような具合である。
学問をするというのはまさにこの定位に他ならないのだが、対人関係、特に子どもに対するとき、この定位が大事なのだと思う。ここに定位している限り、遠慮がうまれる。星子は、そういうふうに親を朕ける。そして、余禄を上の子がもらう寸法になる。
「みんなにも分けてあげなきゃね」と母親は星子に話しかける。


明日もまた今日のごとく・
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