湯堂という漁村の運命(2)

「湯堂という漁村の運命(1)」からつづく

見ぬけなかった企業の論理

チッソ水俣工場のアセトアルデヒド生産はぐんぐん上がっていた。昭和21年の2300トンから、昭和26年には、6200トン、以後、昭和35年のピーク(アセトアルデヒド・4万5000トン、塩化ビニル・2万5000トン)まで昇りつめていく。

有馬澄雄の試算(「工場の運転実態からみた水俣病」1979年)によると、昭和26年に水俣湾に流出した水銀量は、9.3〜12トンで、生産最盛時の昭和35年には、約32トンに達した。昭和7年からの全流出水銀量は、380〜455トンとみなされ、水俣湾は水銀鉱山のようになった。熊大研究班が、原因物質としての水銀にたどりつくのが遅れたのは、水銀が高価てあり、捨てるはずがないと考えたためである。回収するより、利潤があがるなら、文句なく捨てるほうを選ぶという企業の論理を医・化学者は埋解していなかった。

昭和28、9年、海は死んだ

昭和28、9年の水俣湾の様相を、水俣病研究会の漁民、地元民の「聞き取り」(『水俣病に対する企業の責任----チッソの不法行為』1970年)からまとめると、次のようであった。

一、浮きあがる魚はますます増加し、坪谷(つぼだん)や湯堂湾などでも、タイ、タチウオ、イカなどが手で拾えるようになった。とくにグチ(イシモテ)は波打際に真白に死体をさらし、悪臭をはなった。当時、夜釣りに行っていた人たち(素人)は、これらの浮いた魚を矛で突き、いかにも矛突きの名人の如く自慢した。その獲物は、夜釣りにはめずらしいハモ、カレイ、グチ、タコ、スズキ、ボラなどの大物であった。

二、29年暮に、湯堂湾内でアジ子が群をなし狂ったようにぐるぐる回るのを見受けるようになった。

三、海草の海面漂流は年ごとに増加し、漁船のスクリューや櫓にまきつくようになったので、湾外へ出る船は動力をとめ水竿で海草を取り除かねばならないこともあった。

四、貝類の状態も悪化の一途をたどり、空殻が目に見えて増加した。「水俣市漁獲高調」にも「・・・28年は4〜5月の調査で当地先一円に十数年振りに鳥貝が育って金額にして6〜7千万円位の水揚げが予想されたのが、7、8月後に沿岸から1000メートル以内のものは殆んど死滅しその採取は見られなかった。海藻類にも地元干潟面で甚しくその被害と思われる点が見受けられる」と被害状況が記されている。

五、28年に出月で猫が狂死したのをはじめとし、29年春頃から、出月、湯堂、茂道などの猫が次々に狂い死に出した。

六、カラス、アメドリ、シミンドック(シビンドックリ=溲瓶徳利のこと)など烏類の死骸が見受けられるようになり、また飛べなくなって素手で捕えられるようになった。殻を開いた貝類に群がるカラスが方向をあやまり海中に突入したり、岩に激突するのも見受けられた。

絶対に食べない“くさった魚”

瀬戸内海の浮き鯛はかつて良く知られていた。マダイは深いところに棲んでいるが、急な潮などで浅いほうへ流されると、水圧調節が追いつかず浮袋がふくれて水面に浮びあがってしまう。獲るのは容易である。水俣湾の浮き魚は、ちょうどそんな感じであった。生きていたし、味は全く変わらない。それで、ネコやトリの異変にただならぬものを感じながらも、人びとは新鮮な浮き魚を食べた。のちに、漁民=貧乏=くさった魚を食べた、という図式が、根強く定着し、しつっこく宣伝されることになるが、漁民にとってこれほど侮辱的な言辞はなかった。

なるほど昭和30年代には、白内障にやられ、やせこけたスズキなどが研究者によって採取されるが、そのような魚を漁民が食べるわけはない。昭和34年から5年にかけて、累々と銀色の潮のように海面を流れたタチウオを、天草の御所浦島では一日に300、400キロすくった人もおり、立派に市場に水揚げされている。腐った魚がどうして水揚げされようか。

たしかに浮き魚は動きがにぶい。それから漁家は売りものにならない魚を食べる。これには二種類あって、一つは雑魚、一つは傷物である。網からはずすときに頭や尾がとれてしまった車エビ、ホコ突きて頭でなく体を刺してしまった魚など、こういうのは値がつかないので自家消費となる。動きがにぶい魚、売りものにならない魚が、腐った魚に変じ、そのような魚を食っていれば、水俣病にもかかるというものという悪意の謬見が、漁民蔑視の土壌に深々と吸いこまれていったのである。

東工大の清浦雷作、東邦大の戸木田菊次両教授の「腐敗せる魚類を食せしためにおこったアミン中毒」は、漁民に対する偏見の上に仮説をたて、偏見を強化する役割をはたした。

昭和31年、水俣病、爆発

昭和31(1956)年、水俣病が爆発的に発生した。しかし漁村に住む人びとにとって、それは、間に一休止期(昭和20〜22年)を含みながら、少なくとも15年間にわたってひたひた迫ってきた災いの帰結、あるいは終末のようだった。

昭和46年にチッソは「水俣病問題について−−その経過と会社の考え方」を発表するが、そのなかで、「水銀を触媒として使用するアセトアルデヒド設備は昭和7年から稼動しています。そして生産量は、戦時中も、昭和27、28年ごろも、ほとんど変りません。そのためなぜ昭和28年暮になって、突然水俣病が発生したのか、当時それが一番問題になりました」といっている。自然の災厄なら耐え忍ぶ、しかし人為の危害としたら、人びとは、このような言い方に耐えられない。被害は、まさに昭和7年からはじまっていたのだ。

昭和31年4月21日、湯堂の隣の月ノ浦の5歳の女の子がチッソ附属病院に入院。特徴、平熱、硬直マヒ、泣きやまず。3日後、その妹(2歳)発病。翌日、旅館勤めの女性(19歳)と漁師(50歳)入院。強度の視野狭窄をともなうヒステリー。

それから5日目の4月30日、入院した姉妹の隣家の女の子(5歳)入院。硬直、意識なし。この一家は、5月8日、兄(11歳)発病。5月16日、母(45歳)発病。5月23日、妹、意識不明のまま、死亡。6月14日、兄(8歳)発病。伝染病の疑い決定的になる。

湯堂では、5月13日、農家の坂本タカエさん(17歳)にマヒがきた。ついで6月8日、一本釣漁師の松永喜市さんの三女久美子ちゃん(5歳)が発病。6月30日、隣家の坂本武義さんの長女真由美ちゃん(2歳)発病。7月13日、松田文子さん(28歳)発病。7月20日、一月からマヒ症状の岩坂聖次ちゃん(2歳)死亡。同日、武義さんの二女しのぶちゃん生まれる。のちに胎児性発症と判明。同日、奇病患者担当のチッソ附属病院看護婦発病。伝染病の疑い決定的となる。7月27日、疑似日本脳炎として、入院中の患者を白浜の避病院に隔難。16名。

“伝染病”という新たな受難

この日は、終末的な被害にみまわれている人びとにとって、新たな受難のはじまりであった。法定伝染病扱いは、村八分扱いをひき起こし、排除する新たな血統(イデンとデンセンの複合)が措定されたのである。

この事態の終りは、いちおう、昭和34年(有機水銀中毒症の発表)に来る。いちおうというのは、いったん措定された血統はそう簡単に消えないからである。しかし魚の多食による発症という原因発表は、同時に漁民棄民のはじまりだった。それはまず、伝染病の拡大をおそれて真剣に調査にとりくんだ医師会・保健行政の熱意の急速な冷えにあらわれた。

疲労、貧困、冷たい目

患者家庭の貧困と疲労は頂点に達した。最初にチッソ付属病院に入った姉妹の母親、田中アサヲさんの手記(塩田武史『写真報告』)によると、4月12日から水俣尾田病院に4、5日通院、水俣市立病院に通院の上入院、ルンバール検査(脊髄液採取)のあとは泣き通しで、「自分たちのような身分には看護婦様も冷たく」一日で退院、朝隈病院へ。手のつけようがなく、附属病院を紹介され、そこではじめてていねいな扱いを受けた、とある。

舟大工を営む家族8人の家庭である。附属病院の4月分の支払い、すなわち10日分の支払いが8000円であった。熊大の先生に見てもらいたいと頼んだところ、一回5000円取られるといわれた。それでも来てもらった。5月には妊娠していることがわかり中絶した。避病院から「熊大に研究材料として」移る8月30日、「次男(2年生)、昨日は大きなタイ魚がウカウカして来たので、それをひろって、生きていたので、3年生の次女と二人で魚屋に売りに行きましたら、480円だったそうです。僕がランニング1枚買った残りは、母ちゃんに小遺銭にやるからな、というてくれた」とあり、値段の比較ができる。なお昭和32年の日雇労備者の全国平均賃金は433円だった。

坂本武義さんは、湯堂では数少ない田畑山林持ちだったが、32年、35年、38年と三回にわたって、三町歩の立木を全部売ることになった。真由美ちゃんも、学用患者ということで熊大に入院したのだが、そうならず10日目ごとに「ものすごく高い額の治療費」(坂本ふじえ「怒りの通信簿」1976年)を請求された。武義さんは昭和35年、チッソの漁民採用の一人になるが、その前は、一日500円の職安仕事をした。湯堂を開いた家筋て、モハン青年といわれた身には、それはまことに恥ずかしいことであった。

商工業・農林・漁業などの自営者及ぴ無業者対象の国民健康保険実施は、昭和38年7月である。患者発掘と隔離のために漁村に入った保健所員は、白い視線と沈黙に迎えられたが、そのなかでかろうじて、入院に金はいらないからと言って歩いた。

たしかにそれは大きな問題だったが、しかし、それで患者が名乗り出てくるような単純な状況ではなかった。

激減した漁獲量

昭和31(1956)年の湯堂の漁業世帯数は表2のようである。全戸数は昭和初年ころの7、80軒から昭和20年には100軒ほどであったものが120軒強になっているが、この間、漁業世帯はそれほど変化しなかったと考えられる。

表2・昭和31年の湯堂の漁業世帯(水俣市調べ)
専業 第1種兼業 第2種兼業 総数
世帯総数 122 25 4 19 48
人口 635 146 24 120 290

地引網が一統ある。その乗子は漁業従事世帯に分類され、この表には出ていないので、漁業にかかわる世帯は48世帯を上まわる。水俣漁協組合員は52人てあったが、漁民数は72人である。南隣りの茂道(漁業世帯63%)にくらべれば、漁村的性格を減じるが、北隣りの月ノ浦(漁業世帯17%)よりは圧倒的に漁村だった。

表3は漁の内訳を示している。地引網の網元が営んでいた不知火海に出ていくイワシ双手巾着網はもう消滅している。昭和29年からの漁獲量の激滅ぶりがよくわかるが、なかでイワシ地引網、ボラ飼付釣漁、一本釣漁は潰滅状態といってよい。磯刺網漁、タコ壺漁は、経営体(その漁を営む漁家)、網数、壺数の増加を考慮すると、漁業効率は著しく落ちて水俣漁協7地区の合計では、31年の漁獲は昭和25〜28年の平均の83%減で、カキ、ナマコ、コノシロは4〜6%しか獲れず、ついでカニ(12%)、イワシ(15.5%)、ボラ(19%)の減少が目立っている。

表3・湯堂の漁業種別漁獲高の変化(水俣市調べ)
単位は貫=3.75kg
()内の数字は経営体数、[]内の数字は網数または籠数または壷数
漁業種類 26〜28年の平均 29年 30年 31年
双手巾着網 6,138
地引網漁 5,735 3,550
(1)
1,829
(1)
945
(1)
磯刺網漁 885 553
(4)
[50]
456
(5)
[75]
376
(6)
[100]
イカ籠漁 130 75
(3)
[30]
120
(3)
[75]
80
(3)
[60]
ボラ飼付釣漁 3,380 3,267
(26)
2,306
(26)
694
(26)
一本釣漁 282 353 230 85
タコ壷漁 425 140
(1)
[100]
150
(2)
[200]
116
(2)
[250]
その他の漁 421 392 220 12
合計 17,396 8,330 5,311 2,308

昭和35年、漁村として命絶つ

図1は、水俣漁協全体の漁獲高の変化を示している。実線が湯堂など水俣の漁民が獲った漁獲量で、点線は水俣魚市場に水揚げされた漁渡量である。この点線の示す統計だけをみていると水俣漁氏の窮状はわからない。自分の獲った魚をどこの市場に水揚げするかは漁民の自由であり、なるべく有利な市場が選ばれることになる。31年からの属地漁渡高の上昇は、地元の供給が滅少したことと、水俣周辺の需要増をふまえた仲買値の好調を反映している。

図1・水俣市の漁獲高の推移
実線は水俣の漁民が獲った漁獲量(属人統計)
点線は水俣魚市場に水揚げされた漁獲量(属地統計)
(水俣市漁獲高調、農林省統計より作成)

まだ奇病と魚は結びついていない。34、35年は、原因の解明と漁民暴動を反映して急落するが、「水俣病は終った」キャンペーンで36年には回復する。34年以降の属人統計は未入手であるが、35年に最低値を示すことは他の資料(動力経営体カ−ド)から推測することができる。

動力経営体とは、エンジンつきの漁船を持つ漁家のことであるが、昭和35年には、138経営体のうち、85%の117経営体が休業していた。湯堂ではこの年、21経営体のうち11経営体が休業、操業したうち、100日以上200日未満が1経営体、30日以上〜100日未満が9経営体、30日未満が1経営体という操業実体であった。

操業日数が百日を越えたのは、坂本武義さんの父で、名人といわれた福次郎さんただ一人てある。この年、福次郎さんは76歳であった。

それ以後の悲惨な状況

じりじりと生産現場を奪われ、労働力を奪われた湯堂は、昭和35年に、漁村としての命をほぼ絶たれたといってよい。豊かな湯堂湾(袋湾)を象徴する茂道松は、このころから枯れはじめ、昭和47年、最後の茂道松(樹齢130年)が倒れた。

安保条約改訂をのりきった政府‐企業連合体は、高度経済成長に向おうとしていた。その前段階に、水俣の漁村は葬られたのである。その屍(しかばね)をふみにじるように、チッソ水俣工場は莫大な量のメチル水銀を放出しつづけ、不知火海全域を汚染し、20万人の沿岸住民になんらかの健康障害を与えた。

それから20年後の昭和55(1980)年、湯堂の水俣病認定患者、116名。そのうち死者20名(昭和45年までの認定患者15名)。世帯数146戸。人口451人。専業漁家6。水俣漁協組合員19名。

昭和59(1984)年6月現在の水俣病の状況。認定患者、1985名。棄却者、4824名。未処分者、5669名。申諸者総数、1万2478名。

参考文献
有馬橙雄編『水俣病』青林舎、1979年。
塩田武史『写真報告「水俣'68〜'72深き淵より」』西日本新聞社、1976年。
山本茂雄編『愛しかる生命いだきて』新日本出版社、1976年。
水俣病研究会編『水俣病に対する企業の責任−チッンの不法行為』水俣病を告発する会、1970年
砂田明『祖(おや)さまの郷土(くに)・水俣から』講談社、1975年。
原田正純『水俣病は終っていない』岩波新書、1985年。


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