この一文は、1986年2月、「水俣環境創造大学」設立の趣旨説明のたたき台として書かれたが、奇矯とまでいわずとも激越かつ書生的である印象を免れず、討議の対象となるまでにいかなかったものである。ただし最首(私)らしいとの評はあった。久しぶりのビラというべきで、もうこういう口調の文章を書く機会はないだろう。
慟哭すべきことに私たちの現在の生活はHIROSHIMA・ NAGASAKIの犠牲の上に成立っている。真理の探究を旨とする自然科学研究の成果である原子爆弾の二発によって日本は敗戦を強いられた。原子爆弾の投下がなければ日本に勝利の、あるいは和平の一縷の希望があったのであろうか。否である。一億玉砕を呼号する右翼・軍部の狂信的天皇主義者たちは、日本国民を肉弾としてさらに駆り立て、日本全土の灰燼のなかに軍部は消滅して戦争が終結する道しか残されていなかったのである。
しかし私たちの多くは、ヒットラーの宣言と同じく、この戦争に勝てないのであれば、民族は滅亡する他はないと思っていた。勝てない戦争を開始し、敗北は決してあり得ないという国民心情を持ち続けるかぎり、民族滅亡への道をひたすら歩む他はなかったのである。
人類初の核兵器使用を契機とする日本の敗戦は、しかるがゆえに日本国民の多くにとって晴天の霹靂(へきれき)であった。情報を遮断された私たちは、勝利を信じながら来るべき死を予感し、その一方で親や子に食べさせる次の食事の算段を懸命にしていたのである。
私たちは、民族の滅亡をかけた悠久の大義、八紘一宇の顕現、東亜新秩序の建設から突然解放された。私たちは不正義の力に届し、一歩後退し、耐えがたきを耐え忍びがたきを忍んで、臥薪嘗胆の生活に入ったのではなかった。歴史の教えるところ、軍部も民衆も信頼できなくなった元老の、国体護持のみを目的とした画策が戦争終結を導き、天皇家の安全と沖繩の日本からの切り離しを引換えにしたのである。
私たちはほうり出され、初心をもってものごとを学び、生きる意味を探さねばならなかった。民族の誇りをもち占領軍を毅然として迎え、天皇家をあくまで守ろうと「日の丸」を隠し持ち、非公然集会で「君が代」を歌う、そのような抵抗を私たちはしなかった。
HIROSHIMA・NAGASAKIは、私たちの原点にならざるを得なかった。情報が解禁されるにつれて、HIROSHIMA・NAGASAKIの意味は深まり、不戦の象徴になった。それは何よりも核兵器のもたらす悲惨な死であり後遺症の苦しみである。それは満州・朝鮮半島・中国・東南アジア諸国民の被った死と苦しみである。それは満州・中国に残された子どもたちの苦しみであり沖繩の苦しみである。
私たちは為政者の、敗戦を終戦といいくるめる意図とは異なり、HIR○SHIMA・NAGASAKIの犠牲に立って、終戦を誓った。次の戦いを永久に起こさない決意を終戦という言葉にこめたのである。それゆえに「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」「恒久の平和を念願し」「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」ことにしたのである。武力放棄によってすべての国との信頼を育て、そのことによって、国際的に名誉ある地位を得たいと願ったのである。そして、そのような努力が主権在民の政治形態なくして達成されないことも明白であった。
私たちの選択が誤っているはずはなかった。しかし、主権在民の政治を維持し発展させ、武力の威嚇と均衝を廃し、武力なき恒久平和の実現、なかんずく身をもって体験した核兵器の廃絶に向かっての努力において、私たちは自ら評価することはとうていできない歴史を残した。
私たちは、はじめて誰はばかることなく自分の生活にかがずり合うことができる自由に心を奪われたのである。そのためにこそ生活水準の向上を目指し、和魂洋才にかえていわば無所属魂洋才をもって西欧に追いつき追い越す競争に参加した。それは、大平洋戦争の一方の領導者でありかつ平時の戦争、すなわち資本の闘いを続行する者たちにとっては願ってもない好案件の到来であった。米ソ冷戦を利用し、米国の核の傘の下で、朝鮮・中国・東南アジアに対する補慣を棚上げしたまま、過踏な労働条件と低賃金によって、日本資本主義は驚異的な復興・拡大を遂げた。
私たちの精神的自由の享受を根幹とする豊かな生活への希求は、ローンにしばられたマイホームをはじめとする諸商品購買の絶えざる渇望にすりかえられた。進歩の表徴は、精神なきGNPの数字の延びに集中したのである。
その過程の初期段階において、高度成長政策の前段階において、水俣病が発生した。水俣病の人体被害の総体は、三十年経った現在もまだ確定しない現在進行形の性格を有している。水俣病は足尾鉱毒、イタイイタイ病に前史をもつ産業活動による大規模な人間破壊、環境破壊の典型であり、続く四日市喘息、カネミライス油症、スモン等の企業犯罪の予兆になった。
水俣病は中枢神経系及び感覚・運動神経を犯すことによって類例のない悲惨な被害になった。その死者たち・被害者たちは、何かの犠牲になったということはできない。犠牲に見合う大義が存在しないのである。
ここにこそ水俣病の被害がMINAMATAとして世界に受けとめられる第一の理由が存在する。HIROSHIMA・NAGASAKIが、核力というパンドラの箱まで開けるに至った国家間戦争の犠牲者の鎮魂であり、過ちは繰り返さないという不戦の誓いと恒久平和の祈願であるのに対し、MINAMATAは、私たちの日常生活そのものに対する問いかけであり、科学技術工業文明の真っ只中にあり、あるいはこれから迎えようとする諸国の人々全てが免れ得ない問いとして提出されているのである。
水俣病の死者・被害者は二重三重の苦しみの内にある。水俣病が一企業の範囲を越えて国家がらみの加害であることは明白であるにもかかわらず、死者たちは鎮魂される術がない。たとえ幻想であろうと鎮魂の術があるとき、人は「一銭五厘」で命を差し出すことができる。名分のないところ、たとえどのような大金を積まれようと死者たちは浮かばれず、被害者たちの健康は返ってこない。水俣病の死者たちは、国家が押し付けた大義名分のない死をさまよっている。そしてあろうことか被害者たちは、補償金を求めて化学工業協会及び国家がバックアップする企業を相手に単身闘わねばならなかった。さらに、被害者たちの多くは、高度成長政策のなかで棄民の対象とされた低生産性の岸辺漁業をなりわいとする人々であった。自然を相手に暮らしてきた被害者たちは、海域汚染によって生産基盤を奪われ、しかも闘いに立ち上がったとき、棄民であるがゆえに地域社会・企業労働組合から袋叩きに会い、徹底して差別されたのである。
水俣病の原因となったメチル水銀を生み出すアセトアルデヒド石炭化学製造設備がスクラップ化されるまでの十数年間、水俣病被害は放置され、拡大し深化した。アセトアルデヒド製造の石炭化学から石油化学への転換が完了し、新潟第二水俣病が発生し、人々が大気、土壌、水にわたる環境汚染をもたらした種々の公害に苦しみ始めた時、ようやくにして水俣病被害者たちの運動を支援する動きがあらわれたのである。昭和20年代末から昭和43年の政府の公害認定に至るまでの十数年間の被害者たちの惨苦は、言語に絶するものがある。その何重もの苦しみを通して水俣はMINAMATAとなった。
かくしてMINAMATAが問いかける第一の問題は、人間の諸活動によって、責任がとりきれない結果が出来した場合、人間はどのような償いをするかということである。
水俣病は、たしかに何人も予想できない重金属中毒であった。加害者は、学者を動員して未知の事象に対して責任のとり様がないことをいい立てた。はたしてそうか。このことは、知った後も事実を隠蔽し被害を拡大させた非道の犯罪の蔭にかくれてしまっているが、忘れられてはならないことである。大規模な化学工業あるいはIC産業において、人間及び生物の存続を許さない不測の事象のおこる可能性は増えこそすれ減ることはない。チャレンジなきところに成功なしなどというモットウのレベルを、工業活動ははるかに越えてしまっているのだ。さらに事故の確率が当初から0と設定されない原発及び遺伝子工学領域において、事故が起こった場合の責任はどのように考えられているか。そもそも自立していない専門家の算定する確率数値を、私たちはどのようにチェックできるのであるか。
ここに至ってMINAMATAの第二の問いかけは、豊かさとは、人間を収奪し自然を収奪する物質文明の追求のはてにしか展望できないのであるか、ということである。私たちは、公害を通して自然界の忍耐にも限りがあることを知った。エネルギーは循環せず、しかもエネルギーは限りがあり、そのほとんどは、地球に生命が誕生して以来の生命活動の時間的堆積てあることを知った。公害が急性かつ局所型から慢性かつ全域型に移行し、生命体及び環境を日常的に確実に浸食しつつある現在、私たちはなお、「さらにエネルギーを」と叫びつづける豊かさに固執するのであるか。豊かさの再吟味に向かって全民衆的に歩を進めるのであるか。
それはまたMINAMATAの第三の問いにつながるであろう。豊かさがある段階まで実現できた社会の人と人の親和関係は、豊かさと相即しているのかという問いである。その社会の人の関係は、青年及び子どもに如実に反映する。青年が生きがいを見出し、子どもが落ちつきのある無邪気さを保っているかは、その社会の存立の成否を握っているといっても過言ではない。人間が物化され記号化される高度工業化管理社会にあっては、人は、情報を操作する側の資格を得るために子ども時代からしのぎをけずらざるを得ず、青年はすでに序列を決定され、生きる目的を喪失し、しかるがゆえに死を忘却する。情報操作が柔軟かつ巧妙になるにつれて、この病理は深まるであろう。教育の荒廃は構造的である。いじめの解消は、わずかに残る子どもの世界を子ともから徹底的に剥奪する結果にしかならないだろう。そして、青年、子どもに精神を説く者は、かつての侵略排外国家主義者さながらに、敵性国家を想定し罵倒し、武力の拡大整備を叫び、諸外国を軽蔑し差別している。暴力によって「日の丸」と「君が代」を青年、子どもに強制しようとしている。精神なき物質文明の批判には、そのような道しかないのであるか。断じて否である。
MINAMATAがその惨苦のなかから問う第四の問題は、人はついに自然と共生できないのであるか、ということである。水俣病患者浜元二徳は1972年ストックホルムのアピールで「この苦しみは、私たち患者だけで、日本だけでたくさんだ」と述べた。公害は輸出される。貧困にあえぐ発展途上国にとって、公害は受忍限度内として受けとめられがちである。公害被害者たちの叫びは直接に伝えられなければならない。水俣病の惨苦は、各種メディアを通して伝達されなければならない。貧困のどれほどが、政治上の人為によるものかを人々はあばかなければならない。そして私たちは、自国及び他国、とりわけアジアの民衆の自然と共に生きる生活様式を学び、その生活信条を理解し共感することが、国家の壁をとりはらい、人と人との共生をはかる一歩であることを見出すだろう。
MINAMATAの投げかける問いは、きわめて巨大かつ日常的である。それは、人と人との関係、人と自然との関係、人と人を超える存在との関係について、私たちの生産と消費、総じて生活様式、思想信条、教育・学問研究のあり方が、どのように整合的であるかの検証をせまっている。
私たちは、国籍を問わず、老若を問わず、能力を問わず、MINAMATAの発する問いを受けとめ共有し、共に学び、新たな環境、新たなライフ・スタイル、新たな理論を創造する場を欲する。
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