湯堂という漁村の生活(2)

湯堂という漁村の生活(1)からつづく

村に活気があった昭和14、5年

昭和14(1939)年、大村トミエさんは小学校に入った。トミエさんの記憶はこの前後からはじまる。「どこの家でも朝の4時5時頃から獲れたイワシの窒ゆでをやり、それを道にムシロ一杯ほしあげる。乾し上がったイワシは業者が、その頃馬車にて買取りに来る。そんな、のんびりとしたようで又忙しく、そして張りのある生活を村人は送っていた」(『不知火』終刊号)とトミエさんは書いている。綴り方は表彰されたもんだと神奈川のアパートに尋ねた私たちに話して、トミエさんははるかなまなざしになる。

「学校に行くとき、通り場がないように湯堂中むしろだらけだった。へりを歩けといわれるが、男の子なんか面白がって真ん中をふんだくっていく(踏んで歩く)。それで生乾きのイワシをサッとポケットのなかに入れて、休み時間にみんなに分けてやる。ポケットのなかはダシジャコの頭ばっかじやなかったか」

トミエさんの家は椿の井戸の近くの埋立地にあった。おじいさんの徳次さんは、のぼせもん(顔役)で(なんというズバリそのものの表現だろう)、埋立てをはじめ湯堂の村づくりに大きな貢献をした網元だが、このころは地引網株は手難し、隠居して鍼灸を人にうっていた。地引網の前は回船業で、その収益でミカン山や地引網の株を買うことができた。父親の清さんは回船業で、主に筑豊炭坑への松の坑木を運んでいた。湯堂にはそのころ回船業は7、8戸あったという。部落全体は80戸ぐらいだった。部落は上の鹿児島街道の際の上組、傾斜面の中組、埋立地で椿の井戸を使うサキ組にわかれていた。一軒に8〜12人が住み、それは子だくさんだった。

昭和13年から15年にかけて、湯堂の漁は一番盛んで、村全体が生ぐさかった。トミエさんの家は湾口にあったから、ワッショイワッショイと櫓を漕いで帰ってくる活気がもろに当るょうだった。水俣湾に出た沖どり船(イワシ船引綱)が、コペリ(舟縁)が5〜10センチしか出ないほどグレ(カタクチイワシ)を積んで帰ってくる。午後、ブォー・ブォ・ブォーとほら貝がなって(綱元によってふき方がちがう)また船が出てゆく。子どもたちは朝、網を立てるから、はよう帰ってこなきやだめだぞと学校に送り出され、帰ってくると、男の子は船にのり、女の子は弟妹を背中にくくりつけられた。

大村トミエさんの楽しかった思い出

昭和14、5年ごろ、椿の井戸のそばに貝工場ができた。ポンポン船で毎日赤貝より大きな、ピンク色をした丸っこい貝(チドリガイ)を運んてきて貝頭をとった。タ方や夜、女の人たちが賃取りに通った。貝製造所は何年か夜通しで操業し、椿の井戸のまわりは貝ガラで敷きつめられるようになる。女の子たちも行った。実際貝頭とりそのものは子どもばかりで、一升とって何銭かになった。

袋湾の鮎子(五センチくらい)を、大きな四角な木桶を積んだヒラボテ(平床の)トラックで運んでいたのもこのころで、子どもたちはイケスに入った鮎子をバケツでトラックまで運ぶとアメダマがもらえた。

昭和14、5年まで、磯にはおよそ何でもいたとトミエさんはいう。

「ビナ(巻員類)やカキをのぞけば、まずウニが多かった。角が長いのが雄、短いのは雌(という見分け方は興味があるが)で実がいっぱいあった。ウニは買ってくれる人がいなかったのでもっぱら食べるだけ、イツツガゼ(ヒトデ)の黄色いのはおいしい。赤いのは毒がある。イソギンチャクは茹がいて食べる。なんといっても美味なのは蛇のようなマガリ(オオヘビガイ)。茹でても生でも甘くおいしい。生のときは管のハジにロをあててすすりこむ。クズマ(ヒザラガイ、岩にはりついているが、はがすとタイヤのように丸まる、剛毛が生えている)は岩でこすって生のまま。コリコリしておいしかった。カキは一面ビッシリ、でも小さいので五合とるのはけっこう大変だった。お前たちは口に入れるほうが多いといって、子どもたちは親に怒られたものである。カキは売りに行った。シラスは澄みきってきれい、生で会べる。サバは刺身、今と種類がちがうのかしら」・・・

トミエさんの海の食べものの話はまだまだ続く。それに較べると山の幸は、トミエさんの場合、ヤマモモが記憶に残っているだけだった。

昭和10年に隣部落の月ノ浦との間にトキ場(屠殺場)がつくられて、けっこう遠かったが、トミエさんの家までなき声が聞こえた。でも肉を会べた記憶はない。「魚や貝はねえ、生まれて死ぬまで食べて、あきがこないような味になっているんだねえ」と、よほど食べた者でなければ言えない哲学的感想をトミエさんは述べる。

もう魚はコリゴリとつゆ思えないところに貧乏を耐える立脚点があった。「湯堂居って生活のでけん人は、何処行ったっちゃ生活はしや得ん」(「天草漁民聞書」)という時代は続いていた。それでも自分の身体さえ惜しまなければ、海は応分のものを与えてくれたのだ。

やがて戦争、そして結核の流行

昭和14、5年ごろが一番よかったと湯堂の人たちはいう。だが、日中戦争はすでにはじまり、男たちはすこしずつ居なくなりはじめていた。後に一本釣りでならす宮下優さん(大正8年生まれ、水俣病未認定のまま昭和60年1月死亡)も、20歳を迎えて、昭和14年出征した。当然にも、宮下さんは長男ではなかった。長男はまだ戦争にとられなかった。彼が、右手指をとばされながらも、帰ってくるのは7年後のことである。

それに加えて、結核が漁村に蔓延しはじめた。昭和11年には、結核患者の増大が問題となり、第1回の結核予防国民運動振興週間がもうけられるという時代であった。結核の死亡率は昭和20(1945)年にピークに達した。湯堂も例外ではなく、大村トミエさんによれば、結核の巣みたいで、結核患者がいない家はなかったくらいだった。トミエさんの家でも、母親が喉頭結核にかかり声が出なくなって、昭和13年、36歳で死んだ。ついで妹が腎臓結核で、またおじいさんの徳次さんがたぶん結核で死んだ。

ブラブラ病、ハイカラ病といわれながら、病人は日光浴がよいと医師にすすめられて、オエン(お縁)に胸をはだけて横になっていた。トミエさんは、子ども心に、自分の家に病人がいるのはさておいて、そういう病人のいる家の前は、口をおおって走りぬけた。

昭和23年、トミエさんは父同士が従兄弟の同じ村の青年と結婚するが、やがて夫は結核で死亡、トミエさん自身も肋骨を6本とらなければといわれるような結核の症状が出た。日雇い日当が100円のころ、ストマイは1500円、畑を売ってストマイを射ってもらったという。

各家に1人ぐらいは結核にかかっていると、誰もが密かに思いながら、結核は遣伝性の病いという考えは牢固としてあった。村の成り立ちからの血縁の入りくんだ関係を考えると、<どこの家も>と<遺伝性>はあまり矛盾しなかった。ただそういう村落を外からみれば、「肺の統(すじ)」ということになり、「尻は絡げて逃ぐるごたる気持」(「天草漁氏聞書」)になるのであった。

ただ、この表現や口をおさえて走るという言い方にみられるように、恐怖心ばかりでなく、伝染も相当強く意識されていたと思われる。このことを考えると、1人でも病人が出れば統(すじ)という言い方が理解される。統(すじ)とは、合理的には伝染をさけるためのつき合いの拒否、縁組忌避の表示であるが、それは、必然的に血統と結びつき社会的差別につながっていくのである。ただし血統の意識は、身内のみが安全な血統という考えを生み、近親結婚を重ねて、やがて3代目ぐらいには「コシキ(ハンセン氏病)の統、肺の統」よりもひどくなったとなげくような例が語られることになる。

昭和19年夏、一人の青年の突然の異変

気がついてみると、水俣湾の百間港にカキはいなくなっていた。トミエさんが国民学校4、5年生ごろ、つまり昭和18、9年のことである。百間港の一番奥まったところにある水門から日窒水俣工場の廃水が滔々と流れ出ていた。舟底にフジツボなどがつかなくなると噂がひろまって、みな舟をもっていって一晩つないでおいた。

そして、昭和19年の夏、一夜にして一人の青年の体に異変がおきた。

椿の井戸から屠殺場にゆく途中の高台の中本国雄さんの家では、日室水俣工場の臨時工員だった国雄さんの仲間たちが集まって、国雄さんの徴兵検査合格のお祝いをした。ぶえん(無塩−新鮮な魚)が山と用意されたのはいうまでもない。

その翌朝、国雄さんは、目がかすみ、手足が萎え、ロをきくことが難しくなっていた(砂田明聞き書)。秋には視力は完全に失われた。若くて中気になったと村で言い合っていたが、ダイヤモンドでガラスをかくような叫び声は、中気の人は出さないものだといぶかしがった。家が高台のため、その声は村によく通り、あたかもトキ場のほうから聞こえてくるように思われた。昭和22年12月、苦しみぬいて青年は死んだ。

部落の人たちは、いい知れぬ不安や不気味さを感じないわけではなかったが、これが後の生き地獄ともいうべき事態のすべり出しとはつゆ思うことはなかった。日窒水俣工場の爆撃に驚愕し、ついでのように袋湾の上空を旋回する艦載機からの機銃掃射に逃げまどいながら、なによりも老人と女手で食っていくための闘いに全力をあげていた。

終戦。そしてその後、いままで名前をあげさせてもらった湯堂の人たちに、どんな苛酷な将来が待ちかまえていたか。

水俣病の初発について

ただ、水俣病の初発について、昭和47年の熊本大学第二次研究班の調査や、原田正純の追跡で明らかになったことを、ここで述ベておきたい。

それによると、水俣病の初発患者は昭和16(1941)年11月に湯堂で生まれた女の児で、「出産は正常、体重七百匁(2,625グラム)、誕生過ぎまで母乳。しかし初めから心身の発育がおくれ、独り立ち・発語は7歳。この頃まで、強直-間代性痙攣」(第二次研究班調査報告書)があり母親から胎盤を通して有機水銀をもらった胎児性水俣病の疑いがあるとされた。ついで隣部落の月ノ浦で、昭和13年10月生まれの女の児が、昭和17年に痙攣発作をおこして発病した。

また、町のほうでは、駄葉子製造屋で、材料がなくなったため、趣味であったホコ突き漁で生計をたてるようになった一家の三男(7歳)が、昭和20年未から「甘えるような不明瞭な言葉になり、指でものをつかむのが困難、拙劣となり、食事のとき箸を落し、歩行はふらつき、よく転ぶようになり、ついには寝たきりとなり、四肢麻痺、変形して、流涎、嚥下困難、声は出ず犬吠様の叫声をあげて、骨と皮になって」(原田正純『水俣の啓示』)、昭和21年4月28日死亡した。

その兄(15歳)が続いて全く同じ症状で、翌昭和22年1月2日に死亡、父親はこの子のお通夜の晩に派手なゆかたを着て「祭りだ、祭りだ」と舌もつれ、足もとをふらふらさせてはしゃぎまわった。「焼酎をのみすぎぞ、なんと不謹慎な」と通夜の客からひんしゅくをかったが、それはすでに発病のしるしで、この父親は錯乱状態で昭和24年死亡した。

はじまった恐怖の日々

人類がはじめて体験する水俣病は、このように、結核や戦争と交錯して発生していること、および、水俣病をひきおこしたのは、一私企業でなく、意識としても実績としても、天皇制絶対主義国家を背負ってたつ半国家企業であることの認識が肝要である。そのことは、昭和18年1月の日窒肥料(株)と水俣町漁業協同組含の契約書に端的に表わされている。

この契約書は、日窒水俣工場の汚悪水無処理放流によって生じた水俣湾馬刀潟(まてがた)と水俣川川尻の漁場崩壊に対して、漁協が漁業権を放棄し、その補償を日窒がなそうとするものである。その第2条に、漁協は、この漁場に対して、将来永久に一切の損害補慣を主張してはならないのはもちろんのこととした上で、水俣工場が「平時戦時ヲ問ハズ国家ノ存立上最モ緊要ナル地位ニアルコト」を認識して、漁協はその経営に支障のないように協力しなければならないとしている。

今ですら背筋の冷える不敬罪・反逆罪への、当時の人びとの恐怖はすさまじかった。貧困・差別・病い・戦争被害にあえぐ湯堂の戦後の歴史は、その苦しみに追い打ちをかける水俣病被害の歴史であり、水俣病の発生源が判明するにつれて村をおおっていった、ものいえば唇が寒くなるような恐怖の拡大の日々でもあった。

それゆえにこそ、この湯堂から、「ただいまより国家に刃向う」という宣言が、昭和44年、裁判にうって出た渡辺栄蔵おじいさんの口から発せられることになるのである。

参考文献
石牟礼道子『苦海浄土』講談社、1969年
色川大吉編『水俣の啓示』上・下、筑摩書房、1983年
岡本達明編『近代民衆の記録7・漁民』新人物往来社、1978年
水俣市史編纂委員会『水俣市史』水俣市役所、1966年


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