一人芝居「天の魚」(原作石牟礼道子『苦海浄土』)
2009年東京大学駒場キャンパス公演

趣 意 書

2009年1月20日

2009年は石牟礼道子の『苦海浄土 わが水俣病』が刊行されて40年目にあたる。

『苦海浄土』は、石牟礼道子が初期の水俣病患者さんとその情況を取材して回って記した作品である。『苦海浄土』の初稿は、『サークル村』などに1960年以来掲載された『海と空のあいだに』であり、それならば確かに40年目を殊更に強調する必要はないのかもしれない。

とは言え、1969年の『苦海浄土』刊行がどれほど多くの人の思いを水俣に向け、さらには全国各地のその後の公害闘争に影響を与えたのか、また日本における環境倫理、生命倫理への問いかけの一つの出発点となったのか、そのことを今更改めていう必要はないと思う。そしてだからこそ、わたしたちは、水俣病と『苦海浄土』、そしてそれらをめぐり現在までつづくこと、語られてきたことについて、40年目のこの機会に何ほどか考えてみる必要があると考えている。

たとえばその作業を宇井純が発したひとつの原理からはじめてみるのもよいかもしれない。かれは水俣病を追う中で見えてきたことのひとつとして「公害には第三者はないこと」を挙げた。かれはこれにつづいて、わたしたち誰もが潜在的に公害の当事者であり、第三者を名乗るものは必ずといってよいほど加害者の代弁をしてきたと述べた。この原理が述べられたのは1968年のことである。

一方、この原理は40年後の現在どう映るのか。

現在、(「公害問題」ではなく)「環境問題」が日々取り上げられている。そのもとでは、たとえば地球温暖化にしろ、多重化学物質汚染にしろ、わたしたちが「第三者(で)はない」ことは自明として扱われる。その理由のひとつとして政策論的にも企業のマーケティング的にもそれが妥当性をもちうることを挙げてよいのではないか。

一方で、それに比例して、わたしたち個々の「被害」「加害」「第三者」をめぐる錯綜したありよう――たとえば、わたしたちは「第三者(で)はない」といわれており、確かにそれはわかるが、第三者気分が抜けず、しかも被害者でありそうで、加害者としての居心地悪さもありそうだ、その上で「水俣」(にかかわらないが)気になってしまうありよう――は以前と変わらずヴェールで覆われており、さらに悪いことにかえって問いづらい情況になっているように思える。

たとえば学問研究の場に限定してみると、そもそもこうした錯綜を保持しようとすること自体が、対象に対する客観性の欠如と見なされてきた。そうであればこそ、現在の「環境問題」の時代において取られる態度は次のとおりである。すなわち、まず錯綜自体をカッコでくくり、しかも研究の必要性の根拠として「第三者はないこと」を取り上げ、そのうえでみずからは「第三者である」という立場にいようとする。つまり現在、宇井純の「第三者はない」は、「第三者」的態度で(しばしば上から目線で政策論的に)「環境問題」を研究するための格好の口実となるわけだ。

しかし実際には、この錯綜は「(学問や研究)入門前」までに一時的に抱き、「入門後」はすっかり割り切って忘れてよいようなものではないはずだ。そして、こうした錯綜こそ、みずからがみずからにつねに問うていく、わたしたちの行動のみなもとであるはずなのだ。石牟礼道子や宇井純の作品がわたしたちに投げかけてきたことは、わたしたちがみずからの錯綜を問うということに他ならなかったはずだ。だからこそ、わたしたちは歩き回り思考するなかで、みずからの錯綜を問いつづけ、その果てにあるみずからの生き方や社会のあり方への希望に思いを馳せたいと思うのだ。

わたしたちはこうした錯綜の中での問いを一人芝居「天の魚」を通じておこないたいと考えている。具体的には、東京大学駒場キャンパスの駒場寮跡地にある駒場小空間において、2009年5月13日(水)から15日(金)まで、『苦海浄土』を原作とする一人芝居「天の魚」を公演したいと思う。

一人芝居「天の魚」は、俳優の故・砂田明が『苦海浄土』第四章「天の魚」を演劇化したものである。

かれは『苦海浄土』に「自らの内部に忽然と未知の世界が展けてくるような戦慄を、あるいは古くて遠い記憶の底の部分を呼び醒まされるような感動」を味わい、特に「ゆき女聞き書」と「天の魚」からは「劇的なカタルシス(=美的蘇生感)」をおぼえたのだという。そのため、かれは「ゆき女」と「天の魚」を通じて観客に「カタルシス」を与えることを決意したのだった。端的には、役者であるかれみずからが舞台上で呪術師となることで、水俣病死者たちのよみがえりと鎮魂の儀をとりおこなおうとした。それはいわば「よみがえりの共同性」の呼び起こし、またはユートピアへの思い潜めであったかもしれない。

かれは「天の魚」の一番のぞましい効果として、「観た人が水俣のために何かをするというのではなく、劇が自分を見つめ直す“鏡”になって、自分の中の多様な可能性を自分で発見し、今の生き方を自ら変えてゆく」ことの契機となることを挙げている。わたしたちが「天の魚」を駒場小空間で公演しようと決意した背景には、以上のような砂田明の思いへの共感があることはいうまでもない。

「天の魚」は、1980年1月の水俣市湯堂、出月での公演を皮切りに全国各地で巡演され、かれが死去する前年の1992年までにのべ556回公演された。初公演の翌年1981年、かれは紀伊国屋演劇賞特別賞を受賞している。東京大学での公演について述べれば、1980年12月に文学部学生ホールで公演され、また1986年には7号館にてワークショップのかたちで公演された。その意味で今回の「天の魚」は20年ぶりの駒場キャンパス公演であるということもできる。

さて、砂田が死去した後、長らく「天の魚」の演じ手はいなかった。

だが、2006年の「水俣・和光大学展」において砂田の弟子である俳優・川島宏知が復活公演を決意し、それから本年までのあいだ新潟水俣病の発生地である阿賀野市を初めとして全国各地で公演の回数を重ねてきた。わたしたちは今回この川島宏知による「天の魚」を駒場小空間で公演したいと考えている。そして「天の魚」とその原作である『苦海浄土』から公害の原点である水俣病を学び、さらに現在わたしたちが営む生活や社会のあり方に眼差しを向け、わたしたちの希望のありかについて問うていきたいと思う。

今回の公演は大学構内の空間を利用する。しかし、わたしたちはこの空間を学生のみならず誰に対しても開放された場所にしたい。そのため、各所で公演のアピールをおこない、協力や加勢をお願いしていく。また、三回の公演に併せて、『苦海浄土』や「水俣」に触発され、考え発してきた人々によるゲスト対談をおこない、すべての参加者が活発に議論できる場所を生み出したいと思う。




期間 2009年5月13日(水)、14(木)、15日(金)
時間 18:00〜20:30
会場 東京大学駒場キャンパス(駒場小空間)



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一人芝居「天の魚」2006年復活公演
趣意書(参照)

砂田明という演劇家のことをご存知でしょうか。

1970年。戦後高度経済成長の頂点とも言えるこの頃、日本は消費社会を謳歌し、大阪の万国博覧会には全国から訪れた人々が溢れていました。「豊かな社会」の到来や「人類の進歩と調和」という楽天的なスローガンが叫ばれていたそんな一時期に、それらのスローガンの陰で垂れ流されてきた毒に苦しむ幾多の人々の、いのちのための長い闘いもまた、大きなうねりとなって私たちを震撼させていたことを、みなさんは思い出すでしょうか。

この年、東京の舞台人として活動していた砂田明さんは、石牟礼道子さんの『苦海浄土』に導かれるように、無数の被害者を出した水俣病の爆心地へと向けて、巡礼の旅に出立します。そして、やがて水俣の地に居を定め、こんどは『苦海浄土』の一章を演劇化したひとり芝居「天の魚(てんのいを)」を演じながら、十数年にわたって全国を行脚することになるのです。それは、水俣の美しい海と山の光景、しかしまた、水面の下で水銀に冒された光景の悲しみを、病に倒れた人々の深い痛みと刺すような問いかけを、魚たち、動物たち、草木たちの霊を、それに、すべての生命が共生する世界への想いを、身体ひとつに宿しながら、あらゆる人々の魂を揺さぶりつづける舞台であり、闘いの旅でした。

砂田明さんが旅半ばにして65年の生涯を閉じてから今年ではや13年。水俣病の「公式発見」からはすでに半世紀の歳月が経過しようとしています。けれども、水俣病はまだ終わってはいません。患者の皆さんの苦闘がいまなお続いているのと同時に、水俣を考え続けることの普遍性、重要性がますます感じられてきているとさえ言えるのではないでしょうか。そんななか、私たちは砂田さんの志を継いで、あらたな「天の魚」を舞台に上せようという思いを手放さずに今日まで過ごしてきました。

そしてこの度、砂田さんに演劇の教えを受け、また、砂田さんの芝居を陰で支え見守ってきた俳優の川島宏知(小松敏宏)から、この舞台をふたたび演じたいという申し出を得ることができました。これを受けて私たちは、川島宏知によるひとり芝居「天の魚」復活プロジェクトをスタートさせます。初演は本年9月15〜24日、和光大学で催される水俣・和光大学展にて、本公演は来年秋ごろを予定しています。

つきましては、皆様がたのご支援、ご協力のほどを心からお願いする次第です。

2006年6月 東京不知火座/代表・岡村春彦(文責:星埜守之)



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