返信26:あなたとわたし(最首悟、2020/8/13)

序列をこえた社会に向けて

「あなたとわたし」の話にもどります。毎日の暮らしでは、「あなた」も「わたし」もあまり出てきて来ません。「あなたはどうするの」、「あんたどうすんのさ」。この二つの言い回しからは、どういう人がどういう人に、どのような時と場合にいうか、だいたいのことが分かります。「あなた」はそもそも丁寧な言い方なので、「あなたはどうなさいますか」、「あなたはどうなされますか」と訊きます。時と場合によって使わないことはないのですが、自分で誰かに言ったか、となるとまずありません。

「あなたはどうするの」は女性言葉です。それも若い女性で、親密な関係の人への言葉です。「あんたどうすんのさ」となると、まあ、中年以上の女性で、古漬けの沢庵などが連想されます。「くされ縁」とは、言葉はきついのですが、うんざりするけれど解消できない、切るとなると面倒くさい関係のことで、「くさる」は発酵に通じます。発酵は「なれ」で、熟すると共に臭みを伴うのです。その臭みを旨いと感じるか、とてもじゃないと遠ざけるか、「くされ縁」は加齢臭のような匂いを伴うけれど、熟した関係の表現なのです。

「あなた」、「わたし」は人称代名詞です。人称代名詞というと、「アイ・マイ・ミー」を習ったころを思い出します。どうしてかと言えば、わたしたちは、日常はもちろんですが、文章でも、あまりというか、ほとんどというか、人称代名詞を使わないからです。一人称、二人称に比べ、三人称はもっと使いません。一人称、二人称は多様な言い方があるのですが、三人称では、「あの」が付く言い方とか、「あいつ」とか言います。「あ」は彼方の「あ」で、そしてどうして二人称の「あなた」の「あ」に使われるのか、論文にもなる問題になってきます。ところが、「あ」は「吾・我・己」だというのです。

場所の呼び方は「あそこ」「そこ」「ここ」です。「あなた」「そなた」「こなた」というと、「そなた」は目の前の人への呼びかけで、「あなた」と同じです。そして「あ」は自分を意味する、となると、遠くにいる人も目の前にいる人も自分もみんな「あ」なのではないかと思われます。日本語は単音に意味があり、その単音がいろんな意味をもつのですが、「あ」は世界の中心を指し、頭は「あ・たま」だという説があります。自分が世界の中心なのだというのです。

和歌山県のどこかに、ここが世界の中心だ、という札が立っているという話を聞いたことがあります。なんだか興奮しました。地球が真ん丸だとすると、その表面はどこでも、いたるところ、中心なのです。球の中心は一つしかありませんが、球の表面の中心は無限です。「世界の中心で愛を叫ぶ」という有名な作品がありましたが、どこでもいい、ここで叫べばそこが世界の中心なのです。

一人称・二人称・三人称代名詞は、「われ」「なれ」「かれ」と遠近感がはっきりしてきますが、明治時代から定着した人間という言い方のもとの意味は、人の住む場所だったことを思い合わせると、「ここ、そこ、あそこ」の区別は、場合に応じて、ひっくるめて一つの場所「あ」で表示されるのだという思いがわいてきます。

場所、場合という言葉が出てきましたが、場面、立場、会場など「場」は多く使われます。「同じ場に居る」ということが、私たち、日本列島に住む者にとって、ことのほか大事です。「あなたとわたし」という場合、まずあなたとわたしはふつうに声が届く範囲にいて、話すとなれば共通の事柄です。話し手と聞き手の主語となる代名詞は省かれ、話しにも多くの省略がなされます。

「わたしはうなぎだ」という「うなぎ」文があります。「わたしは」は主語を指す句ではなく、『日本語に主語はいらない』(金谷武洋著)によれば、その場の話題についての旗印で、「わたしはといえば」という意味を表します。何人かで何を食べるか相談していて、自分は「うな丼」にすると言ったのです。英語に訳せという問題で、「I am an eel.」と答えたという定番の笑い話もあります。

同じ場に居るということが、日本語に大きく影響し、そして日本語がわたしたちの考えや考え方を根本的に規定します。「人間」という言い方は、「場」という「間」、関係という「間」を重視するわたしたちのあり方を象徴している、といっても過言ではありません。

同じ場に居ない人を指す三人称は日本語にはないという言い切る学者もいます。つまり、普遍的な人の場である社会をわたしたちはわかっていないということです。社会と個人、個人が社会の単位であるということになじまないのです。社会という言葉も明治時代に六十くらいの候補から選ばれました。最後まで残った候補は会社でそれをひっくり返したのです。次回、社会について書きます。