返信28:契約について(最首悟、2020/10/13)

序列をこえた社会に向けて

契約は約束ごとです。ただ契約を守らなかった場合、破ったとき、弁償とか、保証とか、制裁のあり方もはっきりさせておく約束です。でも起こりえる不慮の出来事があります。そういう場合には、責任をとらなくていいという免責の条項も盛り込む必要があります。

私たち、日本列島人の約束は悪く言えば杜撰(ずさん)、いい加減です。良く言えば、成り行き次第、守らなくてもしょうがないという暗黙の承認を含んでいます。約束したよ、きっとだよ、指切りげんまん、嘘ついたら、針千本のーます。そうして約束が果たされない。破られた方は、カッとしたり、煮えくり返る思いをして、ひどいじゃないか、と責めます。でも破った方に悪気はない、しょうがないなあと思い、七十五日も経つと、思いは薄らいでだんだん忘れていく。

約束自体、大したことでなかったのだ、ということもあるでしょうし、どうしようもない成り行きなのだ、仕方ないと思うこともあります。日本人は世界一忘れっぽい、ドイツ人は世界一記憶力が強い、という文章を読んだ覚えがあります。覚えがあるとか、あったような気がするという言い方が記憶の不確かさを表しているのですが。

ところが、お金の貸し借りとなると、忘れてしまうとか、なかったことにしよう、というわけにはいきません。お金を貸す商売では、もうけは利子です。十一(といち)で複利というのが過酷で有名です。複利は利子にも利子が付くので10日に1割の利子となると、二か月と10日で2倍を超してしまいます。1万円借りると2万円返さねばなりません。背に腹は代えられない、なんとしても一時しのぎのお金が必要だというのが、いわゆる金貸し業の成り立ちなのですが、業者の方からすれば、人助け業なのに阿漕(あこぎ)だとか血も涙もないと言われてはたまらない、という気持ちが語られます。でも借りた方としては、担保がなければ死ぬしかないのです。

それで利息を禁じる国も出てきます。イスラム教を国是とする国々がそうです。いま利息と言いましたが、利息は貸し賃で利子は借り賃です。借りた側としては、払わなければいけない元金と借りたときの手数料を払わなければいけないのですが、手数料が固定されておらず、時間がたつにつれて増えていくことが死活の問題なのです。イスラム教の伝承書コーランでは手数料が増えていくことを禁止したということになります。手数料自体の禁止ではないので、銀行は成り立ちます。

イスラム教では、そのほかの主な禁止事項として、飲酒、賭博、豚肉を食することが挙げられます。イスラムは平和を求めるという意味だそうですが、その特徴、よさを伝える本に、「ゆとろぎ イスラームのゆたかな空間」(片倉もとこ著)があります。「ゆとり」+「くつろぎ」-「りくつ」=「ゆとろぎ」と本の帯にあり、さらに「ゆーっくり」と「しずかあーな」時間が流れるとあります。日が沈むころ、ゆっくりとお茶をのむ時間がこよなく大切なそうです。

さて、契約ですが、古くは「目には目を歯には歯を」が思い起こされます。仕返しをしなくてはならない、ただし同程度を超えてはいけないというふうに解されています。泣き寝入りはいけないけれど、倍返しはダメだという教えです。ところが、ほんとうは「目には目で」で、相手の目を傷つけたら自分の目で償わなければならないという、お金などで償うわけにはいかないという戒めなのだとも説かれます。

そしてキリスト教のゴッドとの原契約となると、責任が説かれます。責任はリスポンシビリティで、リスポンスは応答ですので、応答責任と呼ばれます。ゴッドの要請に応える義務です。そして義務を果たさないとどうなるか、義務違反はどんな罰になるかというと、世界の終末のときに救われない、ということになります。それがどんなに身の毛がよだつ罰なのか、少なくとも私にはわかりません。聖書に手をかけて嘘は言わないという宣誓を破ったらどうなるかと同じ問題なのです。

現在国民主権による社会・国家の考えが主流で、日本もその中に入ります。そして国民主権は社会契約の考えに基づいています。さらに社会契約は自然法によるのですが、法は究極にはゴッドが定めるのですから、自然法は神との原契約に行き着く、ということになります。その垂直の神との原契約を横倒しにして、水平の個人どうしの契約にしたのが社会契約と言えます。

個人とは自由と権利をもった尊厳ある存在です。しかしこのままでは個人どうしのぶつかり合いは避けられません。それでルールが必要になるのですが、そのルール違反に対して最終的には、永劫に救われない罰が下される、というのが社会契約なのです。この恐ろしさが本当の恐ろしさとして感じられない、というのが大多数の日本人です。罰について次回書こうと思います。