返信29:罪について(最首悟、2020/11/13)

序列をこえた社会に向けて

罪というと、罪と罰というように、罪と罰はセットになって口をついて出て来ます。罪は罪として、そのまま放置されることはないのです。ところが、悪となると、その規模が大きくなればなるほど、うやむやにされるということが起こります。巨悪というのですが、必要悪という見方があって、ものごとはきれいごとでは済まない、という現実感覚を示します。清濁併せ呑む、物事はそう単純に割り切れるものじゃない、主義主張を貫くには不正、妥協も必要なのだ。政治とはそのような営みなのだ、といわれます。危うい均衡です。

そのような綱渡りは許せないという潔癖さは、青二才とか嘴が黄色いと言われます。昭和29年というと、いまから66年前になりますが、造船疑獄という汚職事件が起き、自由党の佐藤栄作幹事長が逮捕必至となりました。犬養健法務大臣は指揮権を発動し、逮捕状執行を停止させました。理由は、「国会が重要法案を審議中」でした。犬養法務大臣は即日辞表を提出、翌日辞任しました。そのあと佐藤幹事長は起訴され、2年後の1956年、日本の国連加盟が実現し、国連加盟恩赦で免罪されました。

日本の指揮権発動は、吉田内閣のこの一件だけです。内乱罪とか、国家の危機に相当するような事態に対して、検察総長の意向、方針に対してストップをかけることができるという規定です。その重大事態の根拠とされた法案は「教育に関する二法」でした。義務教育諸学校で特定の政党への支持を禁止する「義務教育における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」と,教育公務員の政治的行為に制限を加えた「教育公務員特例法一部改正法」の二法です。

日教組をはじめとして、激しい反対運動があり、日教組は一日総休暇という行動もとりました。全国連合小学校長会、全国大学教授連合、日本教育学会など、反対を表明した団体は50を越えました。この二法は可決され、1954年6月から実施されることになります。そのころ、「逆コース」という言い方があり、米国の対日政策の方針転換の下、「日本の民主化・非軍事化」に逆行するとされた政治・経済・社会の動きの呼称でありました。この「教育二法」もその一つです。

わたしは、中学三年生で十八歳でした。小学校五年の時、三年連続して学校を休んだためです。喘息で休みがちなので、年子の弟のその下の弟のクラスに入れてもらっていました。友だちはいません。社会の動きにうとく、政治に無関心というか、わがことではありませんでした。ですが、この指揮権発動に対して、単純に、正義にもとると怒りがこみ上げてきました。国家は正義にまさるという思いと同時に、保身とか、私利私欲の匂いがするような気がしました。

そのころ、山村総監督の映画「蟹工船」を見ました。映画館からの帰り、急いで歩いたこともあって、喘息を起こして寝付いてしまったのですが、映画のラストシーンで、目が開きっぱなしになって、閉じなくなった覚えがあります。蟹工船という大きな船で働く人たちが過酷な労働と待遇に耐えかねて、反乱を起こします。海軍がやってきます。みんな自分たちを助けに来たと思って万歳を叫びます。そして反乱は容赦なく鎮圧されます。可哀そうとか、気の毒という思いでなしに、しばらく目が乾いて閉じなくなってしまいました。

指揮権発動とこの映画が記憶の中ではくっついています。私の生きてきたなかでの、いくつかの転機に、1960年の第一次日米安全保障条約改定への反対、いわゆる安保闘争に加わったことがありますが、その下敷きには、このときの、たぶん恐怖も混じっていると思いますが、頭が真っ白になるような感じがあったと思います。

青二才というのは、若気の過ちをふくみ、正義感に基づく性急な判断や行動の戒めです。そして、ある行為を悪と断じて、責任を取れと迫り、行動を起こす際に、その悪事にはやむにやまれぬ事情があったのではないか、悪と知りつつやらざるをえなかったのではないか、立ち止まって考えてみよ、と諭しています。さらに、正義感はよい、しかしそれを振りかざす資格がお前にあるのかと問うています。この問いは厳しいです。

私の人生での第二の転機は、冤罪とわかった学生に対する処分の撤回を求めた、学生たちの処分撤回闘争です。大学側が応じないため、闘争は激しくなり、教授たちの倫理が問われることになりました。1968年、私は助手になって1年、学生側に立って闘うことにしました。まだ学生気分が残っているということもありましたし、助手は大学の正式な一員でなく、あくまで見習いということもあります。でも学生や職員から見れば私は大学側なのです。教授たちを責めることは私を責めることでもありました。自分を問う、自分を責める、自分のあり様を否定する。いかめしく言うと自己否定です。次回この項を続けます。