返信36:私を生かしてくれる関係(最首悟、2021/6/13)

序列をこえた社会に向けて

日本の福祉の創始者であると言っていい内村鑑三について、その著『流竄録』を引用した阿部秀雄の『弱者を捨てる アメリカ型福祉観への問い』の文を紹介しました。もう一度引用します。

――「下賤の業」を採った鑑三は、「朝夕これら下劣の米国人の糞尿の世話まで命ぜられ」たのであり、「舌もろくろく回らざる、かの国社会の廃棄物」にジャップ呼ばわりされた、と言った調子である。――

内村鑑三の至誠を疑うものではないと阿部秀雄は言っています。その通りだと思います。ただ、その至誠は神への信仰の中で、神のまなざし、神の恩寵に沿った至誠であり、人間に直接向けられた姿勢ではないと言わざるを得ません。「白痴」は人間ではない。「下劣」を越えて、「人間の廃物」であり、「社会の妨害物」なのです。ですから、そのような相手の介護をするのに、どのようにして相手に触り、どのようにして糞便を処理したかを思いたくなります。

便通があるかどうかは毎日の暮らしの一大事です。前にビッグベンと書きましたので、そのように表現しますが、身体の具合や食物の種類によっては、ビッグベンは強烈な臭いを出します。自分の便に鼻をつまむこともあります。しかしビッグベンは大切な必須の肥料でもありましたし、現代では、米国で、引き返し不能点を過ぎた患者に、健康な人のビッグベンを生理的食塩水で薄めて、浣腸する療法が試みられ、患者の寿命が延びることが確認されています。ビッグベンは大腸菌を主とした有用細菌の宝庫でもあるのです。

子どもがビッグベンに惹かれるのは、みんな知っているのですが、その理由はというと、にわかには答えられません。生きることに関わる奥深いわけがあるのだと思われます。子どもがビッグベンをいじるのと認知症の老人がいじることにはそういう何か共通の理由があると思います。

人さまのビッグベンの始末や世話をすることは大変なことです。やってられるかという気持ちは職業倫理で乗り切れるようなものではありません。でもその世話は、そもそも、世話や介護の出発点で、相手をどう思うのかにかかってくると思うのです。患者と思うのか、被介護者なのか、障害者なのか、人間かどうか疑わしいと見なすのか。

医療では、その対象になった病人は患者と呼ばれます。機器が開発されて、医療は時計の修理のようだと言われるようになりました。部品に分解して、交換したり、油をさしたりするイメージです。無理のない話で自然科学の要素還元主義に沿っているからです。その考え方では、主導権は医師にあり、患者は受け身の存在です。そうじゃない、患者に治す気がなければ、治療は効果をあげないとは言いますが、患者は黙って医師の前に坐ったり、寝たりするだけです。何か言おうものなら、黙っとれと怒鳴りつけられたのはそんなに昔のことではありません。いまはさすがに怒鳴られませんが、その代わり、医師は患者に話しかけたり、患者の顔を見ません。患部とパソコンにもっぱら視線を注いでいます。

それではならじと、アメリカを中心にして全人医療の試みが始まりますが、近代医療とはまったく考え方が違います。全体と部分は絡み合い通じ合っているので、部分をいじっても病気は治るとは考えないのです。全人医療については、また述べることにします。

娘の星子は、重度複合障害者です。ランクもついています。社会的には、特典もありますが区別もあります。一番の区別は、代筆を許さない本人主義のために、投票権を行使できないことです。あたり前じゃないかと言われそうですが。人間じゃないよとレッテルを張られているみたいです。

そうではなくて、まず、人間とは食って出して寝てつくって遊ぶ生き物で、他の人間と関係を持たないと生きてゆけないのだ、と自分に対して思い、そして相手に対して、自分を生かしてくれる関係の人間だ、と思うことが出発点ではないか、思うのです。

私を生かしてくれる関係の人間は、私が好み、私が選ぶ人間とは限りません。むしろそのような人間によって、私は枷をはめられてしまうかもしれません。これから先をどういうのか、困ってしまうのですが、相手を先に立てるという言い方をしてみます。私に、でなく、相手に先に呼びかける、実際に呼びかけるのでなく、心の中で呼びかけるとします。どう呼びかけるでしょうか。愛着関係にある場合は、名前を呼ぶことは多いです。そう呼ぶことがはばかられる場合は、意外にも一つの呼び方しかありません。〈あなた〉です。英語ではYOUですが、決定的な違いはYOUとIは対等なのに、あなたは、遠慮や尊重を含んだ、前後で言えば前、上下で言えば上という意味合いが入っています。よくも悪くも、私を生かしてくれる関係として、あなたと呼びかけるのです。次回、この項を続けます。