返信38:自分の意見(最首悟、2021/8/13)

序列をこえた社会に向けて

客観的という言葉は日常語ではありません。議論するときは、出てくる場合はあります。中学校までの教育ではどうでしょうか。あまり記憶にありません。人の言葉で話さないで自分の言葉で言ってごらん、と親や先生から言われた、という記憶になると、ありそうな気がしてきます。人の言葉というときの人は他人という意味です。一人じゃなくて多くの他人です。多くの他人の言葉とは常識に通じます。常識はまあ客観的と言えなくもないのですが、思いや情がこもっている場合がありますから、客観的とは言ええません。客観的とはさばさばしている、事実に基づいたものの見方です。

客観的の反対は主観的です。自分の言葉でとは、主観的に話すという意味です。主観的とは、独特な、自分らしく、というふうに言い換えて見ます。ここではたと困ってしまいます。自分だけのとか、自分らしくとは何だろうと困ってしまうからです。

私はたぶん一人しかいないと思います。どうしてか、指紋が同じ人がいるという話しは聞いたことがないからです。顔つきが瓜二つというのは、ありそうで、ドラマなどでよく使われます。でも、極め付きは遺伝情報のDNAで、4種類の核酸が30億個、糸のように並べることができるというのですが、その順番が同じ人がいるとはとうてい考えられません。

わたしは一人しかいない。それはうなづけるのです。では、私の考えはというと、にわかに落ち着かなくなります。独創かと聞かれる、あるいは受け売りだろうと言われる、と思うだけで、わたしの考えは人の考えの寄せ集めのように思われてきます。自分の考えを述べよ、と言われるとひるむのです。絶対にお前独りの考えかと言われたら、黙るしかありません。

絶対と言われたら怖いのです。日常では、絶対嘘つかないからねとか、絶対だよ、指切りげんまんとか、絶対を使いますが、可能な限りという意味です。本気で絶対と言われたら、尻込みするし、怖いのです。

ここで、ヴィクトール・フランクルという人の話をします。第二次世界大戦でドイツがユダヤ民族絶滅という方針を打ち出して、ユダヤ人を強制収容所に隔離して虐殺しました。フランクルはその強制収容所アウシュビッツで生き延びた精神科医です。『夜と霧』という体験記を出しました。『夜と霧』とともに、ロゴセラピーで有名です。ロゴセラピーとは意味中心療法と訳されますが、精神を病む人が自分でその意味が分かれば、病いは治る、医師はその手助けをするという療法です。日本にもたびたび来ました。

フランクルは、自分の背後にある、自分では触れられない不変の人格ということを言います。人格は生まれるとき、神から与えられる、他にはない新しいものです。このわたしの背後にあって、私がいじることのできない不変の人格こそが精神の病いを治すのだとフランクルは言います。それは生命力がある限り、身体の病いは治るのと同じだというのです。

人格の背後に神がいます。神と人は断絶していて、人は決して神になれませんが、人は神の似姿なのです。似姿ということと神にはなれないということが、神と私の間のわたしの人格ということに表れているような気がします。

日本では私たちの人格は自分で育てるものです。むずかしく言うと、人格の陶冶といいます。陶冶とはつくり良くすることです。ダイアモンドも磨かざれば光なしとよく言われました。原石もダイヤでダイヤそのものは変わらないわけです。人格は不変と、人格は自分で育てるもの、という考えの中間に磨くがあるような感じです。

わたしという個人の自己同一性ということが言われます。自己同一性はアイデンティティと言います。自己同一性を裏付けているのは、私の不変の人格です。

前置きが長くなりましたが、自分の意見、自分の考えというとき、自信がもてるというか、安心がもてるというか、自分の意見に決まっているという思いがはたらくかどうか、です。不変の人格ということに基づけば、間違っていようが、見当はずれだろうが、不利になろうが、自分の意見を言えるだろうと思います。

そのような人格感がなければ、自分の意見をと言われても、なかなかすぐには言えません。別にありませんと逃げたくなります。子どもたちは遠慮会釈なく、「べつにぃ」と言いますが、大人たちも、そう言いたいのです。大人たちが気にしていることはいっぱいあります。言ったらまずいということから始まって、ずーっとたどっていくと、自分とはという問いにぶつかってしまうのです。

客観的とは主観的でないこと、主観的とは自分の見方や考えであること、では、自分とはという問題に入ってました。次回も続けます。