市井論文への反論
最首悟
『水俣の啓示――不知火海総合学術調査報告(上)』
筑摩書房
1983年3月10日

はじめに

私がなぜこのような文章を書かなければばならないのか。かなしく、腹立たしく、そして許せないと思う気持は、ちょうど一学生の冤罪がひきがねとなって爆発した東大闘争、あるいは学生自治権剥奪に抗した全国の学園闘争の際に示された多くの高名な教授たちの言行に対する感情と同じである。自分の述べたてる思想と言動のあまりの乖離、無権利な者、苦しむ者への無残なふみにじり方、に対する驚きと怒りは、「何のための学問か」という問いを誘発せざるを得なかった。自分のなかに食いこんでしまったこの問いを、いま他人に投げかけるのは苦痛である。私は「何ゆえの学問か」に対して自分の「学問らしきもの」をつくりあげようとする姿勢で応えてゆこうとしている。〈学者〉になるうとする〈非学者〉として自分を常に位置づけることによって、いねば迂遠にその問いに応えようとしている。そういう現在では、既学者に、ことあらためて物申す余裕や元気はあまりないのである。

しかし、調査団という組織の一員としては、同じ一員である市井氏の論文にかなしく、腹立たしい思いがするのはいかんともしがたい。それだけであれば、内輪で愚痴をこぼすことで足りるが、公害という企業犯罪の犠牲者、被害者の苦しみをふみにじっている点において許せず、そのことの指摘は、とうてい内部討議にのみ収めておく筋合いのものではないと判断せざるを得ない。

市井論文は、無意味であるばかりか、加害的である。この評価は、私一人ではなく、複数の団員および調査団オブザーバーのものである。この論文が公表される経緯は色川団長の説明にゆずるとして、最もひどい部分か削除されたとはいえ、このような論文が出る責任の一端をとるために、第一期メンバーとして、さらに第二期調査を継続している身として、市井論文に対する反論を述べることにする。

前置きとして、市井論文に関係する市井氏の立場をまとめてみる。

市井氏の特徴は、「わたしは哲学者の市井です」と日常的挨拶で必ずいうことである。「哲学」学者ではないことを強調しているのだろうかと、その自負にみちた口調を聞きながら思う。

市井氏は、『歴史の進歩とは何か』(一九七一年、岩波新書)で、

一、社会集団を形成する人間は、歴史のあらゆる時代において、人為的・自然的語原因によって、みずがらの責任(科学的囚果関係の見地よりする責任)を問われる必要のない事柄から、おびただしい苦痛をこうむってきた。

二、その苦痛を減じようとする思想変化、科学・技術の成果は新しい苦痛を生み出した。

三、「歴史の進歩」と称されることには、このように執拗な逆説性がつきまとってきた。したがってこの逆説性を少しでも減らすことによって不条理な苦痛を真に減殺する方策が、新たに探究されねばならない。

四、そのためには、みずから創造的苦痛をえらびとり、その苦痛をわが身にひき受ける人間の存在が不可欠である。

五、また不条理な苦痛の処理には連帯が必要である。自分ではなくて他の人面が、自分か負うているのと同様の不条理な苦痛を軽減しようとして、自分に連帯を求めにくることが必然となる。

という「新しい価値観」市井氏の言葉)を提出し、さらに加害者と被害者との関係では、

六、つねに被害の事実認定において加害者のほうが盲目的になりやすい。被害者のみが、この事実を自覚的に体験する。個人的レベルにあっては明白なこの価値的関係が、より大きい人間集団間の歴史的関係になると“科学的”認識の立場からさえ、非自明なもの、つまリアイマイ化してしまう。

七、つまり、ほんらい価値的関係である事態を、没価値的に把握しようとする“科学的”認識は、当の認識者(科学者)が根本姿勢においていずれの側に立とうとするかで、結論がちがいうる。

という。五項はよく理解できないが、物神の一人歩きと権力関係が、市井氏のいう「逆説性」を支え、深化することを導入すれば、他の項はおおむね首肯できる。そして三、四項こそは市井氏の生き方と無関係であるはずがないと思う。六項もそうである。

三、四、六、七項は、水俣調査をふまえた市井氏の論文に投影されるはずである。

一 人間淘汰について

「人間淘汰」という概念はたいへんショッキングである。淘汰とは、セレクションすなわち選別、選択の訳語で、生物の種の存続、新種の出現をめぐって、生物と自然の関係において、自然のほうに重きをおいた進化の一要因の説明として用いられた。このダーウィンの自然選択(ナチュラル・セレクション)説に含まれる適者生存の意味を端的に表わし、強調するものとして、砂金採取の際の金を選り分けるという意味の淘汰という訳語があてられたのである。選択とか選別には「悪しき」という形容詞をつけることは可能であるが、金が価値のあるかぎり、悪しき淘汰とはいえない。転じてわたしたちがふつうに用いる場合、淘汰とは良きもの、価値のあるものを選ぶという意味をもっている。生物進化論的に適者生存という意味をこめて使われることももちろん多い。ただこの場合、適者とは、人間か生物の歴史をふりかえり、結果として生き残った種々個体をさしているにすぎず、そして何故生き残ったかの特徴を部分的には指摘できるけれども、現在のどの生物、どの個体が未来において適者かは決していえない、ということが閑却されがちなのは残念なことである。

人為淘汰となると様相は一変する。もともとダーウィンは、人為淘汰から自然淘汰の着想を得たとはいえ、人為淘汰は人間の目的が介在することによって、自然淘汰とは全く異なる。確かに乳の多く出る牛、卵を多く産む鶏、足の速い馬など人間は多くの品種改良を行なうことができた。そのこととその生物が自然における適者であるかは全く別のことである。くりかえすことになるが、たとえば生き残ってきた生物をみて、卵を多く産むという属性があったからという説明はできても、その逆の、卵を多く産むからこの生物(種)は存続繁栄するだろうとは決していえないのである。進化の歴史は、少数仔、少数卵への移行の歴史でもあるからである。ただ、人間による恣意的部分的な目的、すなわち「自然の経済」ではない「人間の経済」によってある程度生物を変えていくことが出来る、という人間の自信は、遺伝学者を中心にしていままだゆらいでいない。

この若干の説明で、「人間淘汰」という概念がなぜショツキングか、わかってもらえると思う。人間という生物に及ぼしている自然の淘汰圧の影響を、その進行形において人間は測ることができないので、その意味するところは、人為淘汰による「人間淘汰」以外はないからである。

市井氏は、あえてこの「人間淘汰」を掲げて、しかもその意味、価値をぬきたいという。これは無茶である。市井氏は人一倍、言葉の定義やら、歴史性について詮議すると思われている「哲学」を専攻する人である。蛮勇というのか無謀というのか、哲学の逸脱というのか、全く理解を絶する。

しかもその定義け、「人間が自然死にいたるサイクル以外の理由で、滅んでゆくこと」としたいという。そして自然死とは統計的平均寿命を指すのだという。人間の生理的寿命は一〇〇歳ぐらいと推定されていて、統計的平均寿命はある社会のある時点の、社会的平均寿命を表わしているにすぎず、長く生きたり短く生きたりする人を前提して成り立っている。淘汰という意味の定まった言葉を使うと余計混乱するから、選択という語をつかって市井氏の定義を書き直すと、「人間が社会的平均寿命より長く生きたり、短く生きたりして死ぬことを人間選択という」というふうになる。同義反復もいいところだが、いったいこれは何らかの意味かおる定義なのか。無意味である。

市井論文の一七行目までで、わたしは悪い夢をみているような、いいようのない不快な念に襲われる。市井氏はふざけているのか、あるいはこの無茶な無意味な定義によって、今まで解き難かった問題に市井氏好みの逆説的アプローチを行なおうとするのか。

答はすぐにやってくる。優生学論者の主張する人為淘汰による「人間淘汰」に抗して、逆価値的立論(?!)をするために「人間淘汰」から意味をぬくというのである。そして彼の「人間淘汰」の定義からみると、第一に、文明の「進歩」にもかかわらず、人間が短期問に急速に大量死する現象は緩和されず、しかも人口は爆発的に増えつづけており、第二に、ゆえにふつうの意味の人間淘汰は、「なんらかの形で必要なのだ、という思想が力を得るとしても不思議ではな」く、第三に、しかしそれは人間の尊厳に反すると最も生々しく訴える象徴が水俣病であり、第四に、したがって自発的な意志による産児制限を主張する、と市井氏は述べる。ただただ唖然とするばかりである。

三つの文章を引用する。

「マルサスによれば、植物の限られた量にたいする人口の過剰は、風俗の頽廃や身体条件の劣悪化による出生率の低下、殺児、疾病、飢饉、および戦争による大量の死亡、によって調節される。人間が、貧困やこれらの悪をふせごうと思うなら、人為的に出産を抑制しなければならない。貧困者が生活の困窮に悩むのは、無制限に出産する彼らの責任である」(八杉龍一『ダーウィンの生涯』岩波新書、一九五〇年。マルサスのいう出産の抑制とは、貧窮者の結婚の抑制である。岩波版『初版人口の原理』九〇ページ参照)

「だが、第三世界の民衆は彼らが多くの子供を抱えているがゆえに貧しいのではない。事実はむしろ、まったく逆である。民衆は、貧困の中にあるがゆえに子供をたくさん持とうとするのである」(マフモード・マンダニ、自主講座人口論グループ訳『反「人口抑制の論理」』風濤社、一九七六年、傍点は著者による)

「将来の日本はどんどん人口が減っていくという異常事態になる……戦争中の産めよふやせよというような政策はもうとれっこない。それではどうしたらいいかというと、私は、やはりかなり響いているのは女性の社会進出じゃないかという気がするんです」(中山太郎/梅棹忠夫編「これからの日本――四つの課題』、サイマル出版会、一九八一年、「総務長官とこれからの日本を語る会」の記録で、発言者は高原須美子)

市井氏は、ほとんどマルサスのレベルにある。そして高齢化を憂いながら、「北」の「先進工業国」のエゴを丸出しにする新マルサス論者も、水俣病をひき合いに出されては、さすがにたまげるだろう。

市井氏の立揚に、市井氏の新定義は何の役もはたしていない。前置きで述べた一、二項のように「ゆえなき苦痛」による大量死は減じてないといえば済むことである。しかも大量死、人口抑制とからめて水俣病が登場する必然性はまったくない。かえって水俣病をそのようにとらえている市井氏の内面の不気味さが露わになっただけである。

市井論文を読みすすんでいくと、新定義はほとんど使われず、頻発される「淘汰」は、ふつうの意味のものと解される。典型例は、「水俣病という公害に侵され淘汰されつつある人々は、社会ダーウィニズムのいう意味の環境適応能力に劣る人々ではない」という個所である。漁民は蛋臼質摂取量が多く、平均的日本人よりずっと強健であって、だから逆方向に公害淘汰は進んだのだという。蛋白質摂取量で人間を比較されてはかなわない。いまそれにはふれないとして、ここでの使い方は明らかに適者生存、劣者排除の「淘汰」である。そうでなければ逆淘汰の指摘はなされないはずである。

遺伝・優生学者の「反戦思想」なるものがある。戦争一般において体力壮健な若者が多量に死ぬが、特に現代の戦争では、頭脳・視力に秀れる飛行士が失われるので、逆淘汰がおこる、ゆえに戦争に反対するというのである。市井氏の論法は、これとまったく同じである。そのような主張をする遺伝・優生学者は、人為淘汰による「人間淘汰」を消極的・積極的に認める。とすれば市井氏の発言はどういう意味をもつことになるか。

公害とは劣者排除の人間淘汰の一形態であり、なかには水俣病のような逆淘汰の事例もある。

市井氏よ、わたしは悪意ある要約を行なっているのであるか。かりに悪意であることを認めよう。しかし合理、論理整合性をこととするあなたには、そのように受けとられる危険性を回避する配慮が常に働いているはずだ。この論文が悪意に受けとられる可能性に全く気づかなかったとしたら、それはひょっとしてあなたが論理化できない無意識領域を吐露しているためではないだろうか。

いずれにしても、価値をぬこうとしてぬけない淘汰概念をつかって、公害を新たなる人間淘汰と規定することは、被害者の苦しみ、人間性をふみにじり、公害発生者、公害発生機構を免責、容認するものとして、絶対に許すことはできない。

二 優生学的見地について

市井氏は優生学的偏見を批判し、ネガ優生学である社会生物学に無気味な危惧を抱くという。

ほんとうにそうであろうか。

「あくまで冷静に考えてみて、その優位するイデオロギーヘ反論する余地が、科学的に多少は残っているのである。」優位するイデオロギーとは、あらゆる人間の尊厳を説く、現在タテマエとして優位なイデオロギーであって、反論の余地とは、「いまかりに、ほぼすべての人々が忌むべき兇悪犯罪だと認めるような行為を、遺伝的、先天的性向として犯しつづける人間がいると仮定しよう、この場合にも、当の犯罪者に、基本的人権や尊厳を認めるべきか、という問題である」と市井氏は述べる。

これは実に優生学の根幹であって、この議論をもち出したとたんに、優生学に屈服し、まきこまれるのである。先天的性向の犯罪者という仮定がなぜ出てくるのか、なぜアメリカで出てぎたのか、その社会的政治的経済的背景の分析を志して、仮定そのものをうちくがさなければ、優生学者と対決することにはならない。人口爆発にたいして、その背景を問わず、なんらかの人間淘汰が必要だと短絡するネオ・マルサス論者に賀意を示したように、ここでも市井氏は同じ対応をしている。もう一つ引用する。

「四肢の変形した男性の胎見性患者が、うずくまっているのに直面したとき、わたしは激しく動転し、一〇秒と直視を続けることができなかった」「重症水俣病患者が、死をまぬがれて絶望的な生を、なお生きつづけることの意味はどこにあるのだろう。人間の尊厳というときの、『人間』の定義まで攪乱しかねない異状の存在。」

これは直接的ではないにせよ、そしてわたし達がおちいりがちな「人間観」であるにしても、はっきりと優生学的「人間観」である。フレッチャーの「人間の条件」(一九七二)の第一項目、「最小限の知性−スタンフォード・ビネー式知能検査で知能指数四〇以下、またはそれと類似した検査で四〇以下は人間であるかが疑わしい。二〇以下は人間として通用しない」を筆頭として、「植物人間」であるとか「生ける屍」であるとか、「先天性向の犯罪者」とかいう言い方は、関係的存在である人間を、その関係性を断ちきって丸裸にした上で、その機能面だけで判断する「人間観」であり、 この「人間観」こそが、障害者・精神病者・犯罪者差別を生み出しているのである。

公害−人間淘汰による市井氏の水俣病被害者の見かたは、死者のみならず、生者も淘汰され、淘汰されつつある人々ととらえ、乱暴にも「水俣病患者として、生きていること自体が地獄図なのである。死をまぬがれたにしても、重大な後遺症がつづき、今なお医学的に有効な治療法がない」と一括する。水俣病症状の多様性が明らかになりつつあるいま、このような単純な断定は、実は「ニセ患者」キャンペインをはじめとして被害者救済の切捨てをはかろうとする側のものであることが、市井氏にはわからないのだろうか。

多くの患者が体の不調に耐えて、懸命に働き、自己療法を開発し、あるいは鍼灸、漢方など自分に合う療法を探しもとめ、なお生活苦はいかんともしがたく、認定申請にふみきるのに対し、あえて医者がとはいわない、施政の側にある者がどのような対応をしているか。初期の急性型病像に固執し、一応働けるのに、わざわざ「不治の病」と宣告されたがるのは「金の亡者」だからだと広言してはばからないではないか。

「不治の病」イコール絶望のおしつけは、臨床的実体偏重の「病気観」と優生学的「人間観」の相乗によって生まれる。市井氏の水俣病観もその一典型とみなす他はない。

最後に、市井氏の社会生物学批判について。一九七二年米国の優生学会は社会生物学会と看板をぬりかえたことに端的に表わされるように、もともと優生学批判ができなければ社会生物学批判はできないのであるが。

「いま一つ、さらにやっかいな問題が残っている。個人として訴えれば、尊厳を認めてなんらおかしくない、いや、むしろ当然であるような人々であっても、必然悪として尊厳を否定されても仕方がない場合がある、と訴えるかどうかという問題である」、これには「水俣病のギセイ者たちのことがかかっているのだから。」修辞法についてはよく知らないけれど、前段がなぜ「やっかいな問題になのかわからない。前段の内容をある程度・認める立場でなければ、「やっかいな問題」という受けとめ方は出てこないのではなかろうか。後段は市井氏が勝手にもちだした問題である。社会生物学のいう攻撃性、戦争による人口の安定化に、市井氏が公害による人口の安定化をはめこんだために、水俣病が登場しているのである。ここに到って、市井氏は優生学的社会生物学的新マルサス的主張を公害について行なうための、ある詐術的な論文を書いたのではないかという疑いがどうしようもなくモヤモヤと漂い出すのである。調査団討議の席上での、色川氏の市井氏に対する「あなたは転向した」という発言は忘れがたいが、それは「歴史の進歩とは何か」の主張からあまりにかけはなれているという指摘であった。前置きで述べた六、七項の立場を市井氏はいつ捨てたのだろう。

ひかえて結論を述べる。

価値禁欲的な人間淘汰という詭弁を弄して公害を疫病や自然災害と同列に扱い、よって公害被害者の苦しみをアイマイ化させ、公害による人口の安定化という自分の立てた愚にもつかぬ命題を自分で否定する、市井論文の趣旨は撤回されるべきである。