ゆっくり ゆるむ ゆったり ゆるぐ・・・・
教育評論2000年4月号
いろんなことが渦巻いて、選択を迫られることが多くなっています。言葉もそうです。この四月から教壇に立たれる皆さんヘ、と躊躇しないで書く時代は終わったようです。例えば二○人くらいの子どもを相手に教壇は要りません。教室や校庭という言葉もどうなんでしょうか。国会で先生と呼ぶことは止めようという動きがありますが、学校の先生はどうでしょうか。少なくとも先生どうしお互いに先生と呼ぶのは止めようという雰囲気はずいぶんあると思います。
ですから、教案をしっかりつくって教壇に立つ先生教育を受けてきたとすれば、自分の先生程度について省みることが必要かと思います。何について自信がないのか、何について不安なのかが問題です。アメリカの二○世紀初頭の医学教育者、ウイリアム・オスラーは「学生を病棟ヘ誘った者」と自らの墓碑銘を指定しました。何よりも患者に学ぶべきだ、とベッドサイド・ティーチング(臨床教育)を創始したのです。それに対してドイツは学と術を修めて髭を生やして患者の前に出るべきだとしました。
教育にたずさわるにあたって、もう少し広く自分を省みることについて、ここでは三つ挙げてみたいと思います。
一つは、責任とは専ら未来にかかわる、ということです。してしまったことには反省と改良しかありません。
一つは、何が大切なのか、それは絶対普遍倫理に基づいているのだろうか。それともとりあえず大切なのか、ということです。
一つは、科学は相対的で不確実な知の体系で、疑う自由によってのみ成り立つということです。このような科学的態度が身についているだろうか。
順番に意・情・知のあり方を省みています。意欲は未来にかかわり、未来がなければ人は何ごともなさないでしょう。未来は自動的にやってくるか。なんと、そうはならなくなってしまったのです。未来をなくさない責任と末来を奪われない意欲が今一体とならねばなりません。
情は<いのち>から発していて、<いのち>の大切さにかかわっています。時代を超えて国を問わず、<いのち>が奪われたとき人は悲しみ嘆きます。<いのち>が燃えるとき興奮し歓喜します。情と倫理をもっと隣り合わせにしなければなりません。
知は頭の容積を取るので、外部頭脳として図書館に納めたとホーキングは言いました。必要に応じて取り出せばいいのです。頭は空っぽにして疑う自由に開放したいと言ったのは、セント・ジエルジ(ビタミンCの発見者)でしたか、知識の増大は偏見の増大と湯川秀樹は言ったそうですが、これもたぶん疑う自由が隅に追いやられるのを警告しています。
わたしも長く「先生」をやってきました。ですから意・情・知のあり方を省みるのは、我がこととしてなのですが、こういうふうな順序でこういうふうに言うにはずいぶん時間がかかりました。「わからない」状態がずっと続きました。そして、言わない・食べない・歩かない子どもを得て、しだいしだいにその五里霧中の霧が光ってくるようになったのです。口幅つたいのですが、本(*)を出しまして、それにサインを求められると「霧が光る」と書きました。星子というのですが、この子と居れば大丈夫と、そのキラキラする乳白色の世界の中で思います。いや、大丈夫と思うから霧が光り始めたのかも知れません。星子は二三歳になりました。
相変わらず、分からないことに変わりないのですが、それなりに整理がついてくることもありますし、作法もすこし身に付きました。例えば、子どもが歩きたいなら歩けばいい、後ろからついて行こう。歩かなければ一緒に居ればいい、というような。これは「子やらい」と言うようですが、大人の未来責任からすると、子どもがあらぬ方に行くのを、そっとさり気なく、ちがう方に向くようにする。そのとき、どの地点、どの時点まで待つのか、そのぎりぎりは子ども一般をどう見るかで違ってくるでしょう。また子ども一人一人で変動するでしょう。でもなるべく待とうとする原則を持つことはできます。
そんな悠長な、現実をどうするのか。まさにそうです。現実は沈みかけている船です。一世帯あたり六○○万円の国債、放射性廃物(捨てられないから廃棄物と言えないと槌田敦は言いました)、環境汚染物質の重みに耐えかねて難破寸前です。あるいは、あなたは子どもたちと辛うじて脱出して救命ボートで漂流している。どうしたらいいのですか。あなたは末来責任を背負って手持ちのもの・ことでこの一日を過ごさねぱならない。できることは限られています。どうしたって、子どもたちの「つぎつきとなりゆくいきおい」に頼るしかないのです。
現実認識が甘いと、どうにかなるはずだと対策に追いまくられたり、不安や心配に駆られ、果ては独裁者を生み出そうとします。現実は辛い、辛すぎて涙が出ます。そうじゃないと言われるなら、あなたはそういう出会いをこれまで避けてきたのです。
泣きつくして、あるいは泣けなくて涙がプールのように溜まれば、明るさがやってきます。けっして、諦めの明るさじゃないです。「明るさはほたるぶくろの中にこそ」(辻桃子)。
わたしは、いささかそのような明るさの中に居るものとして、いや、それも錯覚かもしれないのですが、祈りのような、座右銘のような、子守り唄のような、おまじないをみなさんに贈りたいと思います。
ゆっくり
ゆるむ
ゆったり
ゆるぐ
ゆらぐ
ゆする
ゆさゆさ
ゆうゆう
ゆたか
ゆらゆら
ゆめ
*『星子がいる』最首悟著(世織書房1998)