「和解」の異常さ

「アサヒグラフ」1996.9所収

水俣病とは何だろう。どうして病いなのだろうか。あらためてそう尋ねてみると、病いにかかったのは、有機水銀中毒の被害にあった人々ではないのではないかという気持ちになる。有機水銀を海に無処理で排出していることを知りながら隠し続けた人たち、行政的対策は該当する法律がないから何もできないと頬かむりし続けた人たち、人類がはじめて出会った類例のない人体被害であるのに早々とその定義を下した人たち、被害者は金目当てのニセ患者が多いとキャンペーンをはった雑誌編集者たち、なかんずく原因は有機水銀であることが判明したとたんその出所を軽々に口にしてはならないと恫喝した通産大臣、みんな精神的に病んでいるとしか言えない。そしてそのような、経営者や官僚や医学者や言論者や政治家を生み出した日本が病んでいるのではないだろうか。

病いは精神と身体の両方ともが関係するけれども、大きく分ければ身体の病いか心の病いかに分けることができる。そのような目で水俣病を見ると、有機水銀の影響を受けた人たちは受有機水銀水俣病を病んだのであり、その他の人々は与有機水銀水俣病にかかったと言えるのである。

今、いわゆる水俣病患者以外を指すその他の人々という言い方をしたが、それは「公害に第三者はない。あるのは被害者か加害者だけなのだ」(宇井純)という言葉を下敷きにしている。日本の経済、社会、政治、文化のリーダーたちのみならず、日本の社会を構成している私たちも水俣病に責任がある。もちろんその責任にはグレードがある。しかしもっとも広い責任も決して軽くないのだ。例えば、水俣病の放置、隠蔽、拡大にかかわった多くの政治家、官僚、学者、技術者は東京大学出身である。そのような大学を厳しく監視し批判し警戒する目を私たちは日常的に養っているだろうか。東大と聞くと半ば揶揄し半ば文句なしに頭がよいとした、かっての学歴主義を未だにひきずっていないだろうか。

水俣病は広義には日本の、そして私たちの病いでもある。その病いをしっかり見つめ、そこからの回復を図らねば、狭義の水俣病を病んだ人々はほんとうの意味で癒されないのである。

犯罪は悪である。しかし犯罪を犯した者は病んでいるとみなすことができる場合が多い。病んでいることは、悪と言うよりはバランスを失した異常状態である。水俣病はある時点まで公害かも知れないが、それ以降はっきりとした犯罪である。国家もふくむ組織犯罪であることはまちがいない。しかし、では犯罪者は誰かと問うと、事態はとたんに錯綜しはじめるし、犯罪者を特定し、法によって有罪にしても被害者の気は晴れない。

やはり関わった人間が異常であり、その延長上に位置する私たちも異常であり、その異常を自覚し、バランスを回復することが責任を取ると言うことの意味だとしなければいけない。例えば「日本人はみんな喜んで戦争し、他国を侵略した」(加賀乙彦、朝日新聞96.7.17)と指摘される日本人は異常である。中央公害対策本部設置を閣議決定する前日、「公害が発生したからと言って経済成長をゆるめるわけにはいかない」(朝日新聞、1970.7.30)と言明した佐藤首相は異常である。

水俣病40年の歴史でとりわけ異常と目される事態のいくつかを抽出して、その事態の克服が現在なされていないとすれば、水俣病は終わりようがないこと、少なくとも忘れてはいけないことを確認したいと思う。

第一の異常さは、チッソが敗戦によって資産の八割を占める朝鮮チッソ興南工場を失い、水俣工場を唯一の拠点として再建を図る際に、植民地支配の労務管理を持ち込んだことである。朝鮮での労務管理の中には水俣病と酷似する興南病の発生が含まれていた。戦争の継続という点では、エイズウイルス汚染非加熱製剤売りつくしのミドリ十字も同じで、七三一部隊の戦略方針をそのまま受け継いでいるとみなされる。ここには国家の命運を担うとした新興コンツエルンの思想が流れている。チッソは水俣漁協との協約で「平時、非常時にかかわらず国家に枢要の企業」と自らを位置づけている。第二水俣病を引き起こした昭和電工も新興財閥で、チッソとともに天皇家と縁戚関係になった幹部を擁する。

このこととの関わりで、水俣病が「もはや戦後ではない」と謳った1956(昭和31)年に大発生した異常さを第二に挙げなければならない。「もはや戦後ではない」とは、大東亜戦争遂行の思想や政治経済構造から決別した新生日本の幕開けだったのか、それとも戦争の痛手から立ち直った日本帝国の再生を意味したのであろうか。いずれにしても直接には、天皇家存続と引き替えに沖縄を切り捨てた上で(アメリカ公文書館資料)、日本全体が朝鮮戦争の後方支援基地として特需景気で潤ったことが、この宣言につながったのである。そしてチッソ水俣工場は労働災害発生率では有数の工場だった。塩化ビニルプラントの試行と建設を同時に行う無謀さとともにその原料となるアセトアルデヒドの大増産が行われた。それと平行して一万トン級の船を横付けするための水俣湾の浚渫が大々的に始まった。水俣の人々は、革新の総評合化労連の水俣工場労働組合も含めて、工場災害での身近な人の死を嘆きながら、双手を挙げてこの事態を歓迎した。人口の三%を占めるにすぎない零細漁民の運命など、人々の眼中になかった。そして水俣病はこの零細漁民に集中した。

第三の異常、それも最大の異常さは、水俣病は患者数八十数名をもって、1960年に終焉したことである。このことは以後行政の内部で常識になった。患者の届け出がなくなったことをもって、それがチッソ城下町の、そして漁村集落のそれぞれ死活をかけた抑圧によるものであったことを毛頭考えずに、水俣病終焉説を打ち出した熊本大医学部教授徳臣晴比古論文もその常識を裏打ちした。しかし事の真相は水俣病はこの年に終わらねばならなかったということにある。どうしてそうなのか。その解明こそが日本の政・産・官・学の癒着構造を明らかにし、日本のバランスを回復する根治療法につながる。逆に言えばこの解明をなおざりにしたからこそ今日のエイズ問題があり、プルトニウム問題があり、さらには世界から孤立する恐れのあるゴミ焼却―ダイオキシン大量発生放置の問題があるのである。

水俣病終焉の必然性は、一言で言えば、水俣病が日本の技術立国の妨げになるからである。石炭から石油への転換を迫られるエネルギー政策、自前の軽化学工業のゼロからの育成、そしてそのために石炭化学工業設備をフル操業してスクラップ化すること、それの達成にあたって水俣病の処理済みでなければならなかった。それは水俣病が伝染病ではないこと、その原因は石炭化学工業のアセトアルデヒド生成の過程で発生する有機水銀であることが判明した時点での至上命令になった。

熊本大研究班が水俣病は海水中のある種の有機水銀が原因と答申したのが、1959年の11月であった。研究班はこれから研究費が加算されて水俣病の発生機序の解明に向かう意気込みだった。ところが答申が終わったとたん調査部会は即日解散となり、翌日池田通産大臣は有機水銀の出どころについて軽々に発言してはならないとした。園田厚生大臣が有機水銀はチッソ水俣工場が流したと声明したのは、9年後の1968年9月である。 池田通産大臣の発言以降、熊本大をのぞく原因究明の研究は尻つぼみとなる一方、チッソ水俣病工場の排水設備の完成(有機水銀排出路はこの設備を通らなかった)と患者への見舞金契約(後に裁判で無効)が59年暮れから60年初頭にかけてばたばたと進み、有機水銀対策と患者補償が終わり、かくして水俣病は終焉したのである。全国のアセトアルデヒド設備はスクラップに向けて稼働し続け、チッソは大増産を続けた。この事態こそが被害者数万名におよぶ水俣病をつくりだし、1965年の昭和電工による新潟阿賀野川第二水俣病を引き起こしたのである。石炭化学アセトアルデヒド設備のスクラップ化は1968年5月チッソを最後として終了した。園田厚生大臣の発言の日付を振り返って欲しい。

これらの間に因果関係はないとするのは異常である。国に水俣病の放置・拡大責任はないとするのはもはや異常を通り越している。

第四の異常は、人類がはじめて遭遇した疾患について、医学が早々と水俣病の定義を打ち出し、それに合わない症状は水俣病でないとしたことである。水俣病のどのような症状を行政の救済対象にするかは、行政の裁量事項であり、税金が有限であるかぎり線引きは避けられない。しかしそれはあくまで、健康悪化や生活困窮に応じた線引きであって、軽い人には当面は我慢してもらうのである。企業補償はそういうわけにはいかない。いずれにしても医学が関わってくることに変わりない。しかし医学が科学である以上、これは水俣病ではないと断定することはできない。疫学的に水俣病の危険性があり、現時点ではこのような症状を呈していると言えるのみである。それを医学は断定した。その結果が水俣病ではない水俣病類似の一万名を越えるグレイ水俣病の人々を生み出した。このことに関わった高名な医学者たちはすべて異常である。

以上をまとめて言うならば、国の責任はなくあなたは水俣病ではないが、それほどしつこく言うならば、260万円を国が肩代わりして払いましょうという、水俣病40年目の本年の和解こそが異常なのである。

私たちは少なくともそのことを忘れないようにしよう。そして忘れないための努力を続けよう。そのことが日本の異常を回復させる出発点であることを銘記したいと思う。 


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