政府解決案をめぐって

「週間金曜日」1995.10.27所収(「これまでと変わらぬ詐術的解決案・医療行政に値せず」)

水俣病が私たちに迫っている問題は、科学技術文明は人類を幸せにするか、という最も大きな問題から、朝どうやって起き上がるかに始まる今日一日の暮しの工夫にいたるまで、レベルを異にして無数にある。

そのうちの最も処理しやすい問題が解決したとしても、それは水俣病問題の解決とは、けっして言えない。まして解決という意味すら定かでないレベルの問題について、私たちが何を学び未来への礎石とするか、ということを考えると、水俣病の全面解決などというキャッチフレーズを、スローガンとしても掲げてはいけないのである。

今回の政府与党が提示する解決案は、もっとも容易な、解決しやすい範疇に属する。ただしそれを、出発の一歩とせずに、最終の全面解決案と称するなら、被害者が、怒りと涙にあふれた苦衷によって、その案を受け入れたとしても、水俣病という巨大な問題に対して、今までと同じパターンの詐術的対策がなされたと認識するほかはない。

今回の解決案をもっとも容易な範疇とあえて言う根拠は、行政と医学は違うという誰にでもわかる違いを、認める気になりさえすれば、それはいとも簡単なことだ、ということをめぐる案だからである。

しかし、この簡単なことに行政は40年間踏み切れなかった。そして今回の解決案でもそのことがスパッと出ているわけではない。かろうじて、水俣病の診断はふつうの医師がやってもいいという項目に表れているだけである。ただし、このことの持つ意味は巨大なのだ。

行政とはソーシャル・サービスである。中でも福祉面において、そのことは直接的に意識される。困った人がいれば、とにかく生活できるようにする。病気であれば医療が受けられるようにする。生活保護や健康保険制度や老人年金などはこうしたサービスの代表だろう。そしてサービスということが近代市民社会の原理にのっとって理解され、常識化すれば、その上地方自治がしっかり根付けば、その運用はいくらでもしなやかになれる。

しかし行政が使える費用には限りがある。ある部門に配分される費用は、社会のあり方によって変動する。しかしどのように配分額が大きくなっても、費用が有限であることに変りない。水俣病のような、身体と暮しにわたって多数の人々が病気になり困窮したとき、行政の初動方針は、まずできるかぎりのサービスであるべきだが、その際、限りある費用という問題が直ちについてまわる。

それゆえ行政は、日常の生活ができるかどうかを判断の基準にして、生活が曲がりなりにもできる世帯には、今はこれしかお金がなく働けず動けない世帯に回すから、ここは一つ何とか生活して下さい、生活できなくなったときは必ず手当しますから、と詫びるのである。医療上の大まかな判断が必要と言うなら、地域のお医者さんに相談して、行政がフレキシブルな基準を設定しなければならない。

以上のような福祉行政のあり方は、環境庁企画調整局長の地位にあり、北川環境庁長官の水俣訪問にあたって自殺した、山内豊徳著の『福祉の国のアリス』(八重岳書房)に見られる彼の持論を、敷衍したものである。彼は日本の福祉は「国家が配分する幸福」であってソーシャル・サービスではないと痛烈に批判している。

一方、水俣病のような原因不明かつ激越な病気について、行政は医学的解明を督促し支援しなければならない。(1)伝染性かどうか、(2)原因は何か、(3)住民分布はどうか、(4)後遺症はどうなるか、(5)新しい病気の場合、病像の教科書的確立、がその主たる課題である。漁業停止や企業がからむ際の操業停止は、別の範疇に入る。医学面では(4)が長期に渡り、少なくとも患者と呼ばれる存在が居なくなるまでは確定しないことに留意しなければならない。

しかし、水俣病について、日本の医療医学行政は全く行政に値しなかったし、今でもそうである。加害企業チッソの強硬な態度と共犯して、生活困窮の線引を水俣病であるかどうかの医学的線引に置き換えたことが、そもそもの行政放棄のルビコンだったのだ。医学者もまた総じて科学者に値しなかった。

自分たちは、医学上の厳密な線引を指向するだけであって、救済するかどうかの判断は行政にあるというポーズをとりながら、内実は企業−国家共同の意志を取り入れた。この態度は、第2次世界大戦中の「科学に国境はないが科学者には祖国がある」というものより悖ることを声を大にして言わねばならない。科学をいい加減にして原爆は造れないのだ。もし医学を科学とするなら、病像を追い続けて、それまでの常識に反する症状があれば逐一記載し続け新疾患の定義を確立しようと努めるだろう。

原田正純氏は、病像の争いなどはないのだと力説する(『裁かれるのは誰か』世織書房)。あるとすれば、それは新疾患の解明の途上における議論にすぎないし、もともとそのような議論はなかった。それは初期の1966(昭和41)年の日本内科学会で決着がついているのだと原田氏は言う。

すなわち新潟水俣病が表在性の知覚(感覚)障害が頻発すことの議論をめぐって、熊本大徳臣教授は、「(この症状は)われわれが経験した水俣病と同一である。毛髪中、尿中水銀量が正常の数倍に達し、わずかに知覚障害を伴うだけといった症例を如何に取り扱うか問題である。この問題は補償問題が起こった際に水俣病志願者が出現したので、過去においてわれわれはハンター・ラッセル症候群を基準にすることで処理した」と述べた。

感覚障害だけの水俣病があること、しかも補償額が膨大になる予想から、これを水俣病から外した、ということが原田氏の言う病像の争いなどなく水俣病像については決着がついていたという意味である。

権威ある医学者が行政に参加して住民の福祉に関する線引を決定することはあるだろう。しかしその決定は、少なくとも医学とは全面的に一致しないことを表明するのが、基本的義務である。水俣病の権威と称する医学者たちは自分たちの水俣病の定義は純粋に医学的だと強弁し続けた。企業と行政がそうするように仕向け、その強弁を利用し続けた。

その結果、グレー水俣病が出現し、それは水俣病でないとしたまま、最終解決を図りたいと行政首脳が言う。

このことをもって、水俣病問題がこれから軽んぜられたり忘れられるようなことが、もし起こるなら、行政は父権主義的施し的態度を払拭できないし、医学は科学になれないだろう。そのことが私たちをどんな災厄に陥れるか、しかもそれは地球規模の災厄につながる可能性があるということを、今私たちの常識にしたいと考える。


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