参考資料「覚えていない」ということの持つ意味

若尾直材・「動かぬ海」1991年所収

普段は、いかに酒を飲むかということが、主要な課題(?)となっているところもある不知火グループだが、たまにはちゃんと勉強している時もあり、今年は「関西訴訟」の裁判記録を読む、ということになっている。

その最初として、水俣病公式発見当時の水俣保健所長・伊藤蓮雄氏の証言記録をぼくが担当者として報告したのだが、その内容は、現在、保健所に勤務している者としてはなかなか複雑な感情を抱かせられるものだった。

伊藤氏の証言は、公判2回分、コピーにして約13ぺージにわたるもので、部分的には非常に興味深い内容を含んでいる。しかし全体のトーンとしては「行政が(公衆衛生行政末端の保健所が)いかに何もしなかったか」「行政がいかに患者を放置し続けたか」ということが、延々と語られる形になっている。証人から発せられる「覚えていない」「知らない」「わからない」「記憶にない」「やらなかった」等々の言葉は、当時の(今もあまり変らないかも知れないが)行政の姿勢を明確に映しだしている。

少なくとも全く打つ手がなかった訳ではない。患者の発生を止めることはできなかったにしても最小限にする方策はなかった訳ではない。それは、証言でも明らかにされているような食品衛生法の適用による漁獲禁止の措置であったり、患者発生地区での一斉検診であったり、毛髪水銀調査の結果を受けての健康診断であっただろう。しかし、それらの方策は見事なまでに行われなかった。行政の側の「覚えていない」「知らない」という言葉の彼方に消えてしまったのである。

(原告側代理人)三六年三月二三日、「水俣病患者審査協議会、不知火海沿岸住民の毛髪水銀量について検討」と書いてますが、当時、もちろん委員もしておられましたね。

(証人)はい。

(原告側代理人)どういう協議をされましたか。

(証人)覚えておりませんね。

(原告側代理人)先程は、緊急に健康診断をすることになってるんですが、どなたか委員が行かれて診断しておられましたか。

(証人)それも覚えておりません。

(原告側代理人)六二歳の920ppmの女性は、その後どういうふうになったかご存じですか。

(証人)知りません。

(原告側代理人)昭和四二年に全く認定も治療も受けずrに老衰ということで死亡していますが、全然覚えておられませんか。

(証人)覚えておりません。

書き写していて、いいかげんうんざりしてきたのだが、これは行政の怠慢、無責任とかいうレベルのものではなくて、一種の犯罪ではないだろうか。行政が何か責任を追求されて、「覚えていない」「知らない」で話がすんでしまったら、それは行政の意味をなさない。

ここで我が身をふりかえると、ぼくも地方自治体という行政機関の一員として賃金を得て生活をしている。ぼくの職制上の身分は一事務員だから、行政機関の責任ある立場で権限を有する者ではないけれども、もし行政機関の構造的な権力性や犯罪性が迫及されるとするなら、その責任の一端は免れることはできないだろう。そんな意味で、当時の行政の側にいた人で数少ない共感できる発言をしていたのは、「水俣テレビ記録を見る会」で見た「埋れた報告・熊本県公文書の語る水俣病」の中の守住憲明氏だった。彼は、当時の熊本県衛生課長だったのだがインタビューに答えてこう語ったのだ。「行政の中にいるのにはほとほとあいそが尽きました」。


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