ふらふらのアマチュア
「動かぬ海」1992年所収
最近の快挙と言ってもいいのが、映画「阿賀に生きる」であった。脳細胞を浸食して行く水俣病という、人間であることの根幹に関わりそうな病いであっても、奪いつくすことのできない「何か」を、映画は見事に描いた。西欧ではそれは「人格」と呼ばれる。例えばV.フランクルは、「人格は決して病気にならない」という。自然治癒力があるから医者は病気を治すことができる、自然治癒力が枯渇すれば医者はどんなにがんばっても病気は治せない、それと同じで病気にならない人格があるから精神科医は精神病を治すことができるのであって、もし人格が病んだら精神科医は何らできない、という信条をフランクルは打ち出した。
私たちはこの人格概念には慣れておらず、理解不能の点もあるので、「何か」をどう表現していいかわからない。ただそれは、多くの場合、「笑い」や「おかしみ」や「かるみ」を通して伝達されるようである。「笑い」は何と言っても人間独自のものだから、そこに人間独自の核みたいなものもひょっと顔をのぞかしているだろう。そしてその核はずーっと何かにつながっていて芒洋としている。例えば、
寒卵のふりをしている<空>一個(折笠美秋)
ここには形をなした無限大や実のある空っぽさや切れている連続性やらがずばりと出されていて、それでいてというかそれだからというか、「おかしさ」の極意みたいになっている。「阿賀に生きる」はそのような「笑い」や「おかしみ」に迫って行った。
ひるがえって我が身を見ると、形になってしまう学問はしたくないという、なんとも異様な思いに次第にとらわれていくようで、毎日がずるっ、ずるっと過ぎて行く。その思いをちょっと書いたのが以下のような文で、風人社から出た「人間の痛み」に載せた「水俣の傷み」の部分である。
学問的厳密さということについて、一言注釈を加えておきたい。これは真を求める学問をする者の倫理であり責任である。何が真であるかは、結局は、歴史が決めてゆくのだが、その道程に少しでも障害物を減らそうということから、学問は公開を義務付けられている。例えばある生物を使った生理作用の実験で新しい特異な結果が得られたら、まず自分で納得の行くまで迫試をする。そして発表する。そのとき他の者が追試を出来るように全てを論文に書き込んでおかなければならない。コツとかオレだけの秘密などということはあってはならないのである。さて、ここに二つの大きな問題が発生する。
一つは、真らしきことに近づく方法である。なんだか難しそうだが、別にそんなことはなく、まず、その時の常識(と思う自分の好み)に合せて自分の取り組む課題を盆栽のように刈り込み整形して単純化することである。何かを真であると言い切ることは元々できないのだが、真とされることを非真であると指摘するのはいともたやすい。いろんな例を挙げて、だから真ですよという、いわゆる掃納法では、1つ真でない例を見つけるだけで営々とした作業は瓦解してしまう。だから穴がないようにモノゴトをうんと単純化する。そうすると学問は複雑怪奇な生の現象から遠ざかって行く。
二つは、国家と企業は秘密をもつということである。しかも法律で守られている。つまり国家利益、企業利益が正当性をもつかぎり秘密は保護される。個人の場合もプライバシーは保護される。したがって対象如何によっては、学問はそれ以上進めない壁にぶつかる可能性が出てくる。その壁を突破したとしても公開はできない場合が生じる。そうすると学問は生の現実から遠ざかって行くことになる。
このように、学問は現実や現象との関わりで本質的に無力な面がある。ところが、一九世紀の半ばから、学問の中の自然科学や技術学はナショナリズムと資本の勃興により、国家と企業の制度的資金的後押しの下に驚異的な発展を遂げた。そこでは迂遠な真よりは直載に力や効用が、直接のあるいはそれとなしの秘密主義の下に追求されたのである。現代のどんな学者もこの大きな枠から逃れられない。逃れるとすれば、学者で飯を喰うことを止めて、アマチュアになる他ないのだ。
医学も自然科学や技術学の一部門であるかぎり、その枠から逃れられない。しかも医学はそれに加えて、個人のプライバシーの保護(守秘義務)にことよせた、密室作業や医薬産業・行政府との癒着が日常的に起り得る分野である。現在議論されている脳死・臓器移植も、根本的には、カルテは患者に所有権があり、それに基づいて医療・判定作業の公開を求めるという主張をめぐる攻防戦といってもよいのである。
少しくだくだしくなっていると思うが、学者が学問的厳密さを守ろうとすれば、現実から離れて行かざるを得ず、しかし研究するにはスポンサーが必要で、そのスポンサーが強引に学者を現実に向かわせ、しかもその上で学問的厳密さを学者に要求するという構図をなんとか説明したいのである。
大体、アマチュアになってしまったのだが、アマチュアだけではフラフラしている様子が出ないので、そのへんを書こうとすると、以下のようになる。これは婦人公輪(92年6月号)に載せたものの部分。
上の空、あきっぽさ、間ぬけ、気紛れ、浮気などは、もし男に闘いの本能があるなどとするなら、その危険性を削ぐために自然が男に与えた属性なのである。そのことをきちんと意識化すれば、永久に一毛のミスも許されない管理を必要とする原発などは、とても怖くて造ることなどできなかっただろう。
「星子は死ぬわよ」という思いや、思いが持続していく場を大切にする二つめは、したがって、わたしがふらふらしていることという、なんだか表現しにくいテーゼになる。なんだ結局は自己弁護かという内心の声がするので気がひけるが、ふらふらとは、あえて言えば、あれこれいろいろと手を出して、うまく行っているんだかいないんだか、どっちとも取れるような両義的な生き方をすることである。本人は一生懸命やっているつもりなのになんとも<男>の風上にはならない。
今はPKO反対とFHSづくりが主観的一生懸命の取り組みである。前者は、もともと一人という単独性を職業倫理としてもつ教師が、PKO法案という政治課題に共同で取り組むにはどうしたらいいかという関心である。それにはちゃんとした教師とは認知されず、しかも一匹狼という意識だけは旺盛な予備校教師が呼びかけたらどうか、という提案が予備校でアルバイトをしているわたしにもやってきたので、急に興奮した。
星子の母親に相談すると、「前代未聞、おもしろいわよ、しっかりやったら」と言う。なんだかすっかり読まれている感じだが、お墨付きにはかわりないので、たいへんよろしい。一回目は四百名以上集ってびっくりした。二回目はデモやらおしゃべりやら、パーフォーマンスやら、いろいろ欲張ってみたい。今回は「教師がよびかける・PKO法案に反対する・いろんな人たちが集る・会」という長ったらしい名前が新機軸である。PKO反対とは、根本的には戦争が好きな男たちに政治はまかせておけないということなのである。
第二のFHSは、決まらない名前に仮りにつけてある略称で、FHGでもなんでもよいのである。この問、VHSはどうなりましたと聞かれた。Fはフリー、Hはホットで、Sはスペースのつもり、「それぞれ生き生きと暮す街を」というような意味である。ハンデをもつ人が働く喫茶店や商店が少しずつ増えている。作業所も単調かつ集中力のいる下請内職からの脱皮を模索している所が多い。もう一つ見逃せないのが、単機能化を進めるお役所仕事に抗する動きである。そもそもハンデをもつ人を一カ所に集める発想が異常であるが、その発想は必ずさらなる細分に通じるのである。
例えば養護学校というところに子どもを囲い込む、すると肢体不自由とか知恵遅れそれぞれの養護学校ができる、すると重い軽いの学級編成が行われるようになる。人間の教育というにはあまりに異様である。もっとも際限なく分けて行くのは、近代科学の作業原理で教育も科学的となるとどうしても細分化が起こる。しかし、多様な丸ごと人間がごちゃごちゃと暮していることが圧倒的だから、教育作業現場では細分化が必要だった、ということを忘れてはならない。
もし暮しの場が細分化され機能化されてきたら、教育の場でこそ人間統合を図らないと人間はいなくなってしまう。お役所仕事に今とうてい期待できないとしたら、わたしたちはごちゃごちゃといろんな人が混じって暮す場や学校を、自分たちで造り出す必要がある。
滝谷美佐保さんが主催する所沢のバクの会は、ごちゃごちゃというイメージにふさわしく、老いも若きもハンデをもつ子も登校拒否の子も自閉症的育年も、遊びたい子も勉強したい子も、遠くからも近くからもいろいろいっぱい集ってくる。人間の整形されないエネルギーが場に渦巻いているようで、たいへんなつかしい。
FHSはそういう現状に、ある一つネット・ワークを与えてみた試み、運動である。ハンデをもつ子の母子の群を土台に据えて、別々に暮しながら、出版社や商店や喫茶店や農場や作業場やその他もろもろをハンデのあるなしに関係なく、年齢に関係なく、その人それぞれの持ち分でやっていきたい、そして中心となる場にバクの会のようなカオス・スペースを置いてみたい。
いずれにしてもふらふら流ともいうべき流儀だか自然だかで進んでいくだろうから、展望はないのだが、相鉄沿線で活動しはしめたセオリ・グループ(世を織る、ネット・ワークという意味)がFHS的であることは、こういう考え方が共鳴していく可能性を示している。
5月30日、水俣病歴史考証館の東京移動展のやるかどうかの会議があった。やるんなら移動展をこえて「水俣の世界、世界の水俣」を挑戦的にやるべしという土本さんのかけ声で、どうやら話は大きくなりそうだが、フラフラ流ででっかいことができたらいいと思う。