書評「アイデンティティと共生の哲学」(花崎皐平著・筑摩書房1993年/平凡社ライブラリー2001年)

「情況」1993.10月号所収

花崎皐平さんの「アイデンティティと共生の哲学」はびっしり考えなくてはいけないことがつまっていて、ざっと読みながら、ここは帰ってこなくてはなあ、とチェックしていると、そのあまりの多さに読後ボーッとしてしまう。それはすべて「ピープルになる」準備作業として必要なのだが、じゃあ、どこから始めようか、となるとちょっと手がつかない感じがある。

花崎さんとは、1991年に大阪の「水俣91 in 大阪」にご一緒して、その人柄にふれている。「いいかげん」ではない人である。この本も当然ながら「いいかげん」ではない。

「いいかげん」でないとは、どうしようもなく論理の力で攻めてくる剛さと、どうしようもなく善である毅さがあると思われるが、花崎さんは後者がまさってきているようだ。わたしはかつて花崎さんの本に、もうすこし学者ぶりを捨てたら、などと評した。このたびは、まことに勝手な言い分だが、善すぎるんじゃないかなあ、という思いがする。どうしてそう思うのか、まず状況設定を少し述べてみる。

大海のどまんなかか、砂漠のまっただなかで、数十人のヒトがいる。言語交通可能だが無宗教だとしよう。そして自分たち以外にヒトはいないということがわかっているとする。まあ、あといろんな条件をつけなくてはいけないのだろうが、あいまいにしておくとして、さてここでは、性・年齢・体力・能力の差はどのようにヒトとヒトの関係に及んでくるのだろうか。そしてこの集団はどのような終わりを遂げるのだろうか。

体力、能力にまさる者が最後に一人残り死んでゆくというのが、一つの解である。この系譜には、弱肉強食とか、生存本能とか、万人の万人に対する闘いとか、権力の発生、階級、人の排除、差別などが属している。そして極限状態での人肉摂取など、類似の現象は歴史に山ほど見られるということがこの系譜を支えている。

しかしはたしてそうだろうか。おそろく決定的に見落していることがある。

それは希望である。強者が生き残るのは、やはり他にヒトが存在し、それらとの合流が万に一つだろうが億に一つだろうが可能性としてあるという状況設定なのだろうと思われる。力の原理は生き残り可能性なのである。そして成員が生き残リたいという希望がなければ権力は発生しないし、維持できないし、結果としての一人の生き残りという事態もないんじゃないだろうか。希望はおそろしい。

さて、このような人間集団に、生きることさえまったく人まかせにして、頼り切っているヒトが一人いるとしたらどうなるのだろうか。赤ん坊はその候補である。老人もその候補である。知恵おくれで自ら意思表示しない、加えて目が見えない、身体が動かせないなどというヒトもその候補である。この集団の生存可能性が短期に限定されていて、その先の希望がゼロのとき、こういう百パーセント無力、百パーセント依存のヒトに対して成員はどのような反応を示すのであろうか。このような集団では、基本的に体力・能力の差は問題にならない。生存可能性の限られた場では、体力・能力の人聞的差などは役に立たない。にもかかわらず能力ほとんどゼロのヒトを抱えたら、能力の差に応じて、ヒトはいやおうなく序列化されて、能力のプラス差分だけ、ヒトはむしゃくしゃしながら、頼り切っているヒトの生存を分け持たなくてはいけなくなるのではないか。もちろん能力と言っても種々さまざまである。数十人では同じ比較できるほどの能力を持ち合せることは期特できない。するとこの無力なるヒトの生存にヒトはそれぞれ別分野の能力において等しく関わるという事態も発生する。ある特定の能力ということでは、ヒトは対等ではないし、無力なる者への関わり方もちがってくる。

いずれにしても、程度の差はあれ、能力のある者は、むしゃくしゃしながら、いらいらしながら、自分になまじっかの能力があることをぼやきながら引き受ける。なぜこの無力なる、ベタッと負ぶさっている者を切り捨てられないのだ、なぜ切り捨てる強さがオレにないのだとぶつくさ愚痴をこぼす。そこに思うにまかせぬ人間、宗教をはらんでしまう人間なる存在が誕生しているのではないか。おそらくこの時点で、弱さは強さに逆転している。百パーセントの無力さは絶対的強さにひっくり返って成員に向ってくる。なまじっかの強さは弱さにひっくりかえっている。

この場で成立しているのはからまりあった三つの条件である。1.ヒトはヒトから生まれヒトにケアされるという点で平等である。2.ヒトはある一種の能力において対等であることはない。3.ヒトは絶対的無力を引き受けることによって絶対的強さを生みだす。

わたしは花崎さんの本を読みながら、自分の状況と絡ませて、平等、非対等、無への逆転帰依という状況設定が出てくるのを体験したのであるが、能力あるものがしょうがねえなあと悪態をつきながら無力な者にぬかずく、というみっともない転換は、花崎さんにはないなあと思った次第である。

花崎さんは、「歴史的で感性的な存在としての人間の、非合理ではあるが、事実存在する意識とそれに基づく行為の次元を捨象してはいけない」と言うし、人間は、「心理的・精神的に『こわれもの』であり、とくに心が柔らかいうちに受けた傷は一生残る」のであり、傷つきやすさへの鈍感さ、鈍感でいられるような条件づけをなくさなきゃいけないと言う。ヒトがヒトであるがゆえの唯一住、有限性、脆弱性、多様性(エスニシティ)、相互依存住、傷みと闇と(矛盾をどうしようにない)取り乱しをとりあげ、共生はそんな簡単なことではないと説く。花崎さんの人間像に共感できるところは多々ある。わたしは花崎さんにいっぱい教わり、大いに考えなければいけないと思う。でもなんだか、花崎さんの「善きこと」と、自分のぶつくさ引き受けていることと短気な全否定への誘惑(とそれができないくやしさ)との間にどうしてもフィルムが挟まっているような気がする。

花崎さんは最後にピープルネスを新造語として打ち出す。これは目指すのである。それは第一に「三人称のわたし」を見出すこと、人間は痛みやすく壊れやすい点で同じということを発見する。第二に循環する自然に範を求めたスピリチュアリティをもつ。第三に無主・無縁の人間中心主義に立つことである。第四に人生の弦をピンと張って生きることである。

ピープルであろうと決意し、宣言するピープルネスはまことに善きことで、しかし次第に透明に美しくなった。わたしはその分、なんだか悪たれをつく天邪鬼のほうに振れてしまう。まったき無力な存在がいなかったら、手足をもぎ、目をえぐり、舌をひっこぬき、耳に油を注いででも、そのような存在をつくり、それにひれ伏しながら、そのひれ伏す自分に嫌気がさすような、人間の歴史での宗教のあり方や、人間の生き方がなかったんだろうか。人間が結局は共同存在的な刻印を打たれるにいたった、くりかえしおこっただろう極限的状況の原記憶を人間は無意識の中にもっていないのだろうか。

「20世紀はじめのスローガンは進歩だった。20世紀末の叫びは生存ということだ。つぎの世紀からのよびかけは希望である」。これは花崎さんも策定にかかわった「水俣宣言」の出だしである。わたしはテンポが早すぎるような気がする。力の原理と希望を切り離すにはあまりに拙速なのではないだろうか。極限状況をふたたびかいくぐらないと、新しい世紀はこないのではないだうか。

わたしはふだんはノーテンキな楽観を唱えているけれど。花崎さんの本を読むとにわかに恐ろしげなことがやってきてしまうような、それはやっぱり花崎さんの本の価値だろうか。


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