「まるごと」

予備校教師の会「教育を考える」シンポジウム(2001.5.27)

私の第一の原点は60年安保の6月15日の国会構内突入、第二は30年前の全共闘、第三は末娘の星子の誕生です。

全共闘は一口で言えば、「何でも異議あり」。とにかく認めたくない。「われ反抗する。ゆえにわれ有り」とまでいうかどうかは別として、そういう思いで学生達はいろんな行動をした。丸山真男が、「全共闘はファッショもナチスもやらなかったことをした」と言いましたが、ファッショといえば軍部、ナチスやファッショを超えた「極悪」はあり得ないと思うので、おそらく丸山真男は自分が理解できない新しいことが東大ではじまったと言いたかったんでしょう。私のような当事者、当事者のような私は、そのあと自分が何か新しいことをやったのだろうかと、ずっとそれを探ってるようなところがあります。

そして私にとって、第三の原点といえるものが「星子が居る」(世織書房から出した本の題名でもありますが)ということ。私は娘である彼女のそばにいると一番安心する。いろんなところを駆け回っているようなものの、私の気分は星子のそばにじっといるという感じです。居ざるをえないというか。星子は25歳になります。さすがに「見ない」とは言いにくく「目が見えない」と言うほかないのですが、あとは「しゃべらない」「手に取らない」「歩かない」などという意志があるんじゃないかと思うほどです。

それで30年たってあらためて思うことは、「寝て、食って、子どもをつくって、暇を見つけて遊ぶ」という命題です。名づけて「素生活」。「素うどん」の「素」です。「暇を見つけて」というところに切ない「労働」がこもっている。「人間は働きかける存在である」すなわち「労働は人間の本質である」というのが近代であり、ホモ・ファーベル(作る人)と規定されるけれど、教育改革の根本の議論で一番問題になるのは、この「人間は働きかける存在」なのか、それとも「寝て食って子どもをつくって、それ以外は遊ぶ」のか、そのあたりにあると思います。

「素生活」はどうしたって「生きもの性」が勝ってくる。生きものはまず第一に子どもをつくる。第二に体を維持し、修理する。つまり「食う」ことです。第三に生物学用語では被刺激反応、これは「FF」というとわかりやすい、敵と出あったら闘うか逃げるか(ファイトとフライト)、瞬時にきめることです。この「生き物性」に「遊び」がしのびこんできて、そして人間に至って特化する。「遊び」は人間の専売特許ではありません。その点、プラトンの、人間は神の遊び道具、から始めるホイジンガの「ホモ・ルーデンス」は「遊び」を他の生きものから奪って人間だけのものにしているきらいがあります。

生きものは、基本的に食えれば寝そべっている。ライオンの雄がその象徴です。犬は満腹でも好奇心で嗅ぎ回るようになる。人間はその延長上に位置しますが、「衣食足りて礼節を知る」というのは、ちょっと欲張りだろうと思います。「衣食足りて畳の上で横になる」。これはある風土での理想です。足りないから働いている。今、「食えて何かそのほかにやらなきゃならないわけ」と、高校生、大学生たちが言う。非常にまともなんだろうと思います。そのまともさをわからずにただ、「勉強せよ」と迫る。「勉強せよ」という根本は、人間は何かに働きかけていく能動的な存在で、勉強だってそうなんだというというが近代西欧の規定でしょう。それをきちんという先生がいないもんだから、生徒はうっとおしくて仕方がない。近代西欧の規定からでないとしたら、国家主義か資本の論理でしょう。それで生徒に本気に迫れますか。迫れるならそれはそれで首尾は立っている。

それにしても「衣食足りて横になる」ことが曲りなりにも実現できている時代ってすごい。南の貧困を背景にしているにしても。若者達が250円で牛丼食える。65円でハンバーガーが食える。こんな理想的な時代はないんじゃないですか。それなのにどうしてがんばんなきゃいけないのか。「どうもカネもうけ以外は考えられない」とか、子ども達は言わないけどそう思っているところがある。なんかウサンクサイと。「ゆとり教育」なんて、ゴマかしてあの手この手で自分たちを勉強させようとしてるんじゃないか。そう勘ぐってるわけです。そういう子どもたち、若者に「食って横になれる」のが最良なんだと、堂々と言うことが、いま大事なんだと思う。横になってはいられない、どうせ起き上がってそこらへんを嗅ぎ回りはじめるさ、なんて余分なことは言わなくていい。

横になれることが最良というのは切ない。そこに理念はない。理念をもたらす枠組みがない。だからこそ、関心は人間に向いて人間どうし関係を大事にしようという「こみこみの生き方」がクローズアップされてくる。「こみこみ」とは、ちょっと練れていない言い方ですが、ごみごみに通じ、誰も彼もまぜる、まぜるとは子ども用語で仲間に入れるという意味ですが、みんなまぜて、他者と私が解け合って、つまり「まるごとで生きていく」存在なんだということを表したい。

環境はどこも切れない「まるごと」のものです。人間もどこも切れない「まるごと」。人間は人間なのです。西欧近代は、しかし、環境も人間も要素還元的に、容赦なく切り分けてきた。それが総合につながる道だというオメデタサが、まさに20世紀だった。切り分けることは「まるごと」から遠ざかるだけだというのが、全共闘なるものがはらんだ直感であり、その30年前の原点を、今の子どもたちはもっと切実に共有しているのではないか。私には「星子がいる」と言いました。いや、星子はでんとそこに居るのです。そのさまは、ほんとにまるごといるとしか言いようがない。目が見えないという部分を取り出しても星子はそこには居ないようです。

日教祖が新学習指導要領に対して『ここが問題。さてどうする』という4冊(小中高と障害児教育)の本を出しました。理科教育、高校理科教育が私のレパートリーです。きっかけの一つは日教組の全国教研で「科学を学ばないと人間になれない」というような発言がされていたからです。ポイントは1、科学技術の批判・反省はいつどこで誰がやるのか。2、科学技術には不可能なことがある。3、あらゆることが絡みあい織りなされている。4、物と道具の再使用・長期使用。5、ソストエネルギーパスへ。6、総合学習を中心に―総合的な学習の時間はその一環、の6点です。

これは日教組、日教組カリキュラム委員会の名で出されて公式のものですが、私としては、全国の日教組教員、30万人に向けて発したメッセージのつもりです。このなかで私は「ゆとり」ではなくて「ゆるみ」教育を提唱している。文部省の統制をはじめ、あらゆる統制をはずそうという方向の「ゆるみ」。文部省のゆとり教育に真っ向から対立しているわけではなく、文部省が躍起になって否定する「ゆるみ」を逆手にとって、ほんとうの意味での「ゆとりは何か」ということをもっと追求しようということです。

かつてマッカーサーがアメリカに帰って、西欧文明のわれわれを45歳とすると、日本人は12才であるといった。だから日本人には可能性があると、マッカーサーは言い添えていますが、マッカーサー熱は急速に冷めて千鳥が淵に建設予定だった記念館は中止になった。でも結局50年経って、日本は12才のまま。だけど「西欧文明」という枕をはずせば12才じゃない。そこが大事なのです。「個人として自立せよ」とか「個性を大事にせよ」とかずっと言ってきたけど、その結果みんなイライラしている。個人という考えは重い。坂口ふみは「日本の西欧理解は「西欧」が千年にわたるキリスト教共同体という体験を持ち、なおその痕跡を多くとどめているというあまりに自明の事実を、奇妙に無視し続けているように思われる。フロイトにならって、そこに何か隠された動機を疑いたくなるほどである」(『〈個〉の誕生―キリスト教教理をつくった人びと』)と言っている。「脱亜入欧」とか「和魂洋才」の軽軽しさ、それを押し付けるところにイライラはつのってきているのだろうと思う。イライラの噴出しにあわてて保安処分に走っても事態は悪化するばかりです。現場にいささか関わっているものとしては、それはもうどうしたらいいのかわからないぐらい深刻さがある。それに比べたら学力低下なんて問題じゃない。そうしたなかでこれからおそらくキーワードになるのは、個人とか自立とか人間の尊厳とか、そういうことがほとんど意味のないような文化・文明ということだと思う。

例えば「ものづくし」という考え方がある。古くインドに始まります。動物なら動物をどんどん書いていく。野菜なら野菜をずっと書いていく。十人十色、「こういうがある」と言っているだけじゃなく、それで一なる何かを示したいのです。一なるものは直接は言えないのです。浮かび上がらせるだけです。インドの古代思想や仏教から日本人が吸収したような、そういうものの見方が私たち日本列島人に根付いていることが大事です。一なるものに依拠しない。一なるもので争わない。

「衣食足って、ああ、横になれる」というのは、常に働きかけるよりは、必要に応じて働き、あとは「融けこむ」、つまり「遊ぶ」わけです。一体化していく。人と人が解けあうのもそうだし、自然とも溶けあいたい。どこかで神様や仏様になってしまうような、そのスタイルが私たちの根本にあることに気づくことが大事です。

鶴見俊輔の「水空両生」という考えをこの間教わりました。水の中に住んでボッと飛びあがって空から眺める。臨機応変、繰り返すと、どこに住んでいるのか分からなくなると解釈しておきます。私はと言えば、やはり水の中にいるのだけれども、無国籍みたいな娘のそばに居る。人間に分類されるのも危ないぐらいの子と一緒にいて、そして周りじゅう濃密な日本なんですね。いたたまれず空に飛び出す。でも空だっていたたまれない。居所がない感じになる。結局は濃密なこの日本につぶされないためには、日本列島人が養ってきたところに降りて行くしかない。日本列島人のよさが分からなければ生きて行けないのです。

結局は、前近代、反近代じゃないかと批判を受けるけれど、私としては未来を見ているつもりです。コンベンショナル(今行われている)からオルタナティブ(代替え)へ、オルタナティブからインテグラティブ(統合)へ、そしてホリスティック(まるごと)なものの見方、生き方を展望したい。人間の認識は12歳どころか、まことに幼稚で、古代に垣間見えた「まるごと」を今把握することができない。それははるか先のことです。今は、そこに誰もアプローチできていないけど、目指したい。目指すしかないと思っています。


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