事実に強くて弱い人間を育てる
「文部科学省への手紙」『教育評論』2003.3月
「事実」をぬさにして教育は考えられませんが、「事実」論議が一筋縄でゆかないことも事実です。「ゆとり教育」と「総合学習」と「学力低下」も「事実」をめぐって起こってきていると思います。「事実」について、一致点を確認し、それを増やしてゆくことが今教育に携わる者に求められていると思います。
「事実」は食べ物になぞらえると、主食にあたります。主食だけでは食事になりません。給合を考えると当然です。しかし給食はコッペパンがあるたけでありがたかった時代もあります。主食はできるだけはやくかっこむ、丸呑みにしなければいけないときがあります。戦場や火事場では特にそうです。でもゆっくりと噛みしめて味わいたいときもあります。1936(昭和11)年生まれで国民学校をかすめた私にとっては、銀シャリはそのようなものとして夢の中にありました。
「事実」を丸呑みにする、吟味しながらゆっくり咀嚼する、どちらも必要ですが、その必要は時代や環境と密接不可分な「私」の要求によるものです。そしてなんと主食はいらない、スナックでいいという子どもたちも現れるのです。「馬を池に達れてゆくことはできるが水を歓ませることはできない」と言います。同じように、食事について言い古されたことがあります。親がちゃんと食べなさいと叱ると、子どもがどうしてと訊く。食べないと大きくなれないから、大きくならないと働けないから、働けないと食べられないからと問答が続いて、子どもが言います。「じゃあ、いいんだ、ぼくは食べたくないんだから」。「事実」を丸呑みするのはのっぴきならない事情があるからです。そういう事情がなくなれば、そして私たちはそういう事情がなくなるように努力しているのですが、「事実」はおのずからゆっくり味わいながら摂取されるはずです。
別の言い方をすると、教育によって、「事実に強い人間」を育てるのか、「事実に弱い人間」を育てるのか、それとも「事実に強く弱い人間」なのか、という問いになります。「事実に強い」とは、事実をより多く、よりよく知っていることです。そして事実にたじろがないことです。そして場合によって、事実をものともしない、事実をしりぞける態度です。「事実に弱い」とは、事実に甘い、事実が好きで事実にはかなわない、事実には屈服する態度です。科学的な態度とは前者で、信念の面で宗教的な心に通じます。しかし、安穏に日々を暮らすためには後者が必要です。事実を無視したり事実を束ねる規則を破ったらとんでもない危険が待ち構えているからです。でも明日はいつも危険をおかせと呼びかけています。
「事実」を食ベさせるのは、状況によってとんでもなくむずかしいことであリ、その上で「事実に強くて弱い人間」にどう育てるかの課題が待ちかまえている、ということを共通の認識にしたいと願っています。