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水俣の課題

恵泉女学園大学人文学会講演・2002年
『恵泉アカデミア』第7号(2002年12月)所収

きょうは少し時間の余裕がありますので、ビデオを30分はさんで、お話しできるかと思います。

話は非常に大さいものですから、どういうふうにまとめたらいいかというのは、その場合場合で難しいんですけれども、事は私たち一人ひとりの肉体の問題であり、魂の問題なんですね。これをどうやって配置し、自分がどうやって生きていくかというのは大変困難なことで、きょうは、これから特に若い諸君の課題という意味で、「水俣の課題」という題名にいたしました。

水俣は終わっていません。裁判ですらいまも水俣病関西訴訟というのが続いております。昨年春、ハンセン病の判決とほとんど同時に関西訴訟の大阪高裁判決が出ました。ハンセン病とともに国の責任を認めました。ハンセン病については、なにしろ1996年、いまから8年前まで法がしかれていたわけですがら、国の責任は明確なんですけれども、それでもすぐには認めなかったのが、ついに国はハンセン病問題についての責任を認め、控訴をしませんでした。それをすごい勇断だと言う。その感覚がそもそも問題ですが、これにはお医者さんでもある坂口厚生大臣の功績はずいぶんあると思う。ところが、片方の水俣は認めてない。国の責任はないと言う。そして控訴した。坂口厚生大臣も大変苦しいだろうと思うんですけれども、いま私たちとしては国は上告を取り下げるべきであるという署名運動をやっておりますので、皆さま、またいつか機会があったらお願いいたしたいと思います。

お手元に『水俣病10の知識』というのがあります。奥付を見ますと、水俣病歴史考証館と水俣市立水俣病資料館という、2つの名前が載っておりますね。歴史考証館というのは、水俣病センター相思社という患者運動の支援組織としてつくられたものの中にあります。水俣市立水俣病資料館というのは、歴史は浅いですけれども、水俣市として環境に取り組むという姿勢を明らかにしたあたりから、県も国も一定の協力をしてつくられたものです。そこでの公式のパンフレットがこの『水俣病10の知識』です。公式のパンフレットですから、まあ、当たりさわりのないものですけれども、とりあえず水俣病の全容をつかむには役に立ちます。

「水俣病に向き合うと世界がわかる」という言い方がありますけれども、それは、水俣病は環境に重要なかかわりを持っているということです。この場合の環境というのは、もちろん自然環境もその一部ですけれども、生まれてからの家庭環境、ある国に生まれるという、そういう環境、精神環境、あるいは国家とか政治とか経済とか、十重二十重のいろんな環境の中で私たちは暮らしているわけで、そういう環境すべてを含んでいます。

先ほどご紹介いただいたように、私は人間環境学科で環境論をやっております。その中で特に問題にしてきたのは、大学というところにいますから、学問のあり方、科学技術のあり方で、特に水俣病の経緯の中で医学がどういう役割を果たしたか。これはもうどうしても避けて通れない問題で、そういうところを主に私は追究しています。

まず水俣病というのを大ざっぱにつかむのにはどうしたらいいか。私は66歳で、それよりもお歳を召した方から若い方まで含めて、どこを取り出したら一番いいかということを考えたんですけれども、やはり1959年から1960年、特に水俣病がここで終わったとされている1959年末あたりを中心に、ビデオを見ていただきながら押さえてみたいと思います。

1959(昭和34年)というのは、私が東京大学理科1類に入った年です。病弱でしたので、だいぶ遅れていますけれども、大学1年のとさ、その年に水俣病が終わってしまったという認識は全くなかった。水俣病にかかわりだして一番、トゲみたいに突き刺さっているのは、そのころ水俣病のことを全く思っていなかったということで、それが年とともにだんだんこたえてくるような感じがします。

むしろ関心があったのは1960年の第一次安保闘争で、全学連主流派が国会に飛び込む。国会の中ではなくて国会構内に飛び込むんですけれども、私たちも理科1類2年生のクラスとして決死の覚悟で飛び込んだ。そのことでいまだにそのクラスの同窓会が続いているというようなこともありますが、もつぱら関心は安保条約の改定、岸内閣打倒でした。

しかし、実はこれは水俣病と深く関係していたのです。1960年というのは、石油の消費量が石炭の消費量を初めて上回って逆転する年です。つまり、石油の時代に入ったんですね。そして炭鉱閉鎖が相次ぎます。1960年には三池の大争議というのがあり、これは炭鉱が成り立たなくなっていく最後の闘いのようなものです。そして、いまのチッソが当時は新日本窒素肥科といいましたけれども、千葉県の五井に石油プラントを建てて水俣から撤退するという方針を決めた、そういう年です。軽化学工業への転換、これを安保条約の傘の元でぜひともやり遂げなければいけなかったのです。

昭和31年(1956年)、私が20歳の年ですけれども、この5月に「水俣の新日窒付属病院奇病発生と保健所に届ける」ということが起こります。5月1日、類例のない奇病が発生したということです。この1956年というのは、中野好夫が座談会で言った「もはや戦後ではない」という言葉が「経済白書」のキャッチフレーズに取り入れられた年です。これは講談社の『昭和の記録』ですけれども、この中の第11巻「技術革新」の帯にも「もはや戦後ではない」というのが入っております。昭和31年7月、「経済白書」も「もはや戦後ではない」と宣言して、戦後の復興期に終止符を打った。そして続いて押し寄せた技術革新の波。59年、60年、日本は科学技術立国として本格的に滑り出す。それはまた高度経済成長の始まりでもあって、どうしても安保条約改定が必要だった。そういう中で水俣病が、ある意味では必然かもしれないけれども、出てきたということです。

昭和31年というのは、私たちの感覚では非常に貧しいです。いまでもときどき学生諸君に言うんですけれども、私たちは冬、毛布のようなオーバーを着ていたんです。脂肪がないから寒くてしょうがないから、厚いオーバーを着ていた。そのころの映画を見ると、俳優はみんな痩せこけています。いまの俳優はほっぺたがふくらんでいますから、逆に痩せこけた役をするのは難しいようですね。いまのように脂肪がつけば、毎日風呂に入らなければいけませんが、脂肪がないものですから、あまり風呂に入らなくて済んだ。脂肪がないから風呂には入らなくて済むけれども、とにかく寒くてしょうがないという学生時代だったですね。

日常の生活がそうで、普通の日本人はみんな貧しかったわけですけれども、特に私の場合は、父親が昭和24年に亡くなった。私の父親は昭和電工の関係で、生きていればその後、新潟水俣病の立役者になったかもしれないような人物であります。森コンツェルンの若き郎党として、38歳で昭和電工の総務部長をつとめました。昭和18年には、戦後天皇が初めて訪れた肥料部門の川崎工場の工場長、19年は飛行機をつくるには絶対欠かせないジュラルミンの生産をしていた横浜工場の工場長をやっておりました。その父親が、戦後の財閥解体の中でもまれたあげくに、結核の手後れで昭和24年に死んで、母親が慣れない中で働きだす。6人兄弟だったんですが、そのうちの4人が結核、私は結核と喘息という状態で、大変な時代でした。でも、当時はみんな、多かれ少なかれ、そうだったと思います。

『昭和の記録』の昭和33年5月の項をごらん下さい。「テレビの受信台数が100万になった」というのが冒頭にあって、次に「本州製紙の黒い水へ東京湾漁民がデモ」と書いてあります。私はそのころ市川に仕んでいたんですけれども、本州製紙の江戸川工場が江戸川へ排水をもろに出して、浦安が汚染された。これは大問題になり、浦安には13漁協ぐらいあったんでしょうか、全漁協が立ち上がって本州製紙に殴り込みをかけた。東京のど真ん中ですから、政府も捨てておけないというので、これをきっかけに水質規制が始まって、次の年の34年12月から滑り出します。ところが、なんとその対象から水俣湾は外されるという、そういう決定がなされます。

当時、水問題で一番すごかったのはやはり製紙の富士市の田子ノ浦だったでしょうか。田子ノ浦は煙による大気汚染もすごかったけれども、水問題もすごかった。水質現制の発端になったこの本州製紙江戸川工場の騒ぎは、さすがに私は江戸川のほとりに住んでいましたので、よく覚えています。ところが、水俣については全くの空白です。それでも政治・経済的には34年夏ごろから水俣病が注目され始め、そして、急転直下、その年の12月30日に患者家庭互助会と新日窒の間で「見舞い金契約」が締結されて、水俣病問題は打開した、もう全部終わりだという事態になります。

そのあたりをちょっとビデオを見ていただきたいと思います。これはNHKの「戦後50年その時日本は」シリーズの第3巻「チッソ水俣工場の技術者たちの告白」というビデオで、大変優れた作品です。この中で、実は技術者たちが自分たちで有機水銀が原因であることをつきとめていたという点と、経済企画庁の水質担当課長だった役人がわかっていて水俣工場の水を止めなかったんだということを告白している場面があります。汲田卓蔵さんという方ですけれども、これは国の責任そのものを吐露した場面で、「私たちは確信犯である」ということを言っている。これはいまも大問題ですけれども、きょうは、水俣病の理解というところに絞って、この1時間番組を30分に縮めてつなげてみましたので、技術者そのものが有機水銀を突き止めていく、その肝心なところはカットしました。またいつか機会がありましたら見ていただくことにして、これから30分、ビデオを見ていたださたいと思います。なお、このビデオに合せた、NHK出版から『戦後50年その時日本は』が出ていますのでその第3巻を参照して下さい。恵泉図事館にあります。

(ビデオ上映)

(ナレーションの紹介)戦後50年、私たちは日本の将来を決定するような幾つかの重要な選択をしてまいりました。そしてその過程で、私たちは明らかに過ちを犯したことがありました。高度経済成長と言われる昭和30年代から40年代にかけて、私たちの暮らしは年々豊かになりました。しかしその陰で、公害もまた、年々確実に広まり続けていたのです。今夜は、世界的に大きな衝撃を与えた公害・水俣病を引さ起こした企業がたどった軌跡を追うことにします。

戦前のチッソは日本最大の化学メーカーとして隆盛を極めていました。植民地・朝鮮で安い労働刀と安い電力を手にして莫大な利益を上げたチッソは、戦後、この水俣で再起を図りました。しかし、その歩みは水俣病によって挫折したのです。一体何がこの控折を招いたのか、私たちはその答えを、あえて企業の内部に求めました。

チッソの技術者たちは水俣病の原因について数多くの研究を重ねていました。その母体となったのは、私の後ろにありますチッソの旧技術部です。技術者たちは水俣病の原因が自分たちの工場排水にあることをほぼ突き止めました。にもかかわらず、その研究がなぜ公害の拡大を食い止めるために活かされなかったのか。

今夜は、企業の内部の人たちが何を考え、どのように行動したのか、あるいはしなかったのか。彼らの告白を聞さながら、企業と公害の関係を見ていきたいと思います。

水俣工場は戦後のある時期、希望に満ちた日々を送っていました。昭和天皇が訪れたこのころ、誰もが戦争で傷ついたチッソの再建を確信していました。

「(昭和天皇の声)困難な点も多々あるでしょうが、重要産業ですから、ますます努力してもらうことを希望します」

画面の左端に立つ太田恒堆さんの姿。

チッソのその後の運命を決定づけたのは、戦前の植民地・朝鮮での成功でした。チッソは朝鮮の労働力を安く使って広大な地形を切り開き、大河の流れをせき止めました。巨大なダムと水力発電所を次々に建設していきました。チッソ興南工場(いまは北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国にある工場です)。朝鮮半島に工場を展開し、総従業員八万人の化学メーカーにのし上がっていきました。通常の三分の一という安い電気を使って生産された肥料・硫安は、莫大な利益をもたらしました。

昭和20年8月8日、ソビエトは日ソ中立条約を破棄、その後朝鮮に侵入しました。事態は一変。チッソは全資産の8割を占めた工場を失いました。

その冬、飢えと寒さで多くの同僚を失ったチッソの技術者たちは、決死の思いで日本へ脱出しました。そして水俣を目指しました。彼らはこの水俣に残された工場で戦前の繁栄を取り戻そうとします。

戦後撮影された水俣工場での記念写真。主力工場があった朝鮮から引き揚げてきた技術者が、水俣生え抜きの人に代わって、このときすでに主要なポストを占めていました。彼らは“進駐軍”と呼ばれました。

このころ、海に異変が起きていました。猫が踊るようにして海に飛び込んだり、カラスが舞い落ちる。そして昭和31年、「経済白書」が「もはや戦後ではない」と宣言した年のことでした。

この年の4月21日、6歳の女の子がチッソ付属病院に担ぎ込まれました。手が利かなく、口もきかなくなる。これまで医師たちが見たことがないような症状でした。病院は5月1日、奇病が発生したことを熊本県に報告しました。水俣病が公式に確認された日でした。

当時、水俣で最も大きかったチッソ付属病院。小島照和医師は次々と担ぎ込まれる患者の治療に追われていきました。

当時、小島さん自身が撮影した8ミリフィルムが残っていました。

「これは何年ぶりぐらいですか」

「これは何年ぶりかねえ。30・・・6年ぐらいに撮ったんだと思うんだけどなあ」

「これは」

「それは、飲み込んでもらったら痙撃起こすんです。かわいそうでしたよ。ぐっと飲み込もう思ても、すっと通らないわけですねえ。これは手の指と鼻とこう結ぶあれですけど、うまくいけませんねえ。これは、手と手と、右左の指先を広げて体の前面で合わせるんですけど、それがうまくできていませんね。それはもうねえ、当時とすれば、治療法もわからなかったし、そらもう、こういう病気を起こす原因もね、はっきりしてなかったし、どっから手つけていいのやら、それもわからなかったし、非常に、医者としての無力さいうんですか、それを相当惑じていましたねえ」

原因も治療の方法もわからないまま、患者は次々と死んでいきました。

小島さんは患者の発生した地域を見て回りました。患者のほとんどが、魚を食べる機会が多い漁民とその家族でした。何かに魚が汚染されているのではないか。

「水俣の河口の地図見たら、片方は漁村ですけれども、こっち側に工場があるからね、まずやっぱし、誰が見ても、ね、その工場が疑われるんじやないかと。工場にね。という気は、やっぱしぼくら、持ちましたね」

入り組んだ水俣湾の北側に、チッソ水俣工場がありました。患者が発生していた漁村は、工場排水が流されていた水俣湾を囲むように点在していました。チッソ・アセトアルデヒド工場の排水は、当時水俣湾の付け根の百間という排水日から海に流されていました。

異変に気がついたのは漁民たちでした。工場長のもとで秘書役をしていた太田恒雄さんは、漁民にせき立てられ、排水口周辺の様子をつぶさに見ました。太田さんが見たのは、潮が引いた干潮のときでした。赤茶色の排水は異臭を放ち、へドロがたまった湾内では魚が死に、貝が口を開けていました。

「ちっさい小魚が死んでてね、それから小さな貝がこう開いていると。そういうのを見せられました」

「太田さんはそれを見られて、どう思われましたか」

「いやあ、これはねえ、こんな状態になっとるという感じは全くありませんでした。これは大変なあれだなあちゅう印象は待ちました」

直ちに太田さんは工場に戻りました。そして、自分の眼で目撃した海の異変を工場長に伝えます。

当時、チッソの工場長は3500人を超す従業員の頂点に立っていました。そして工場長は、市民の半数がチッソに関係する企業城下町にとって大きな存在でした。

当時、工場で配られていた水俣工場新聞。

「チッソはドル箱・市の税全の半分はチッソが納めている」

地元市民との座談会。

「ギリシャの神殿を仰ぎ見るようだ。工場はお城で、その従業員は士族で、われわれ平民は近づきにくい感じです」

水俣に君臨する工場長に、引き揚げ者の西田榮一氏が就任していました。西田工場長はひそかに釣り舟を仕立てて湾内を視察し、太田さんにこう言います。

「『太田君、君の言うようなことはなかったぞ』『そら満潮のとき行ったって、そらないでしょう』と、私はそのとき言いました」

工場は排水をこの小さな水俣湾に流し続けました。

ところが、この秋、突然アセトアルデヒドの排水口を変更したのです。チッソは排水口を、工場を挟んで南側の水俣湾から、逆に北側の水俣川河口に変更しました。排水は広い海に流れ込み、潮流に乗っていきました。この後、水俣病の被害は不知火海全域に広がっていったのです。

昭和30年代、生活は大きく変わりました。安くて丈夫な化学繊維や、軽くて使いやすいガス器具、冷蔵庫などの電化製品、大量消費の時代が幕を開けたのです。石油化学コンビナートが次々に建設され、高度成長の牽引車となっていきます。

ところがチッソは、石油ではなく、電気をもとにした戦前からのやり方にこだわります。チッソは石油化学に対抗して、ビニールの加工に使われる独自の製品を増産していきます。

「扇に日の丸」、伝統のマークをつけたチッソのオクタノールです。この生産には、あのアセトアルデヒドが必要でした。オクタノールは、設備の設計に当たった由佐秀雄さんも驚くほどの勢いで市場を独占していきました。

昭和34年夏、事態は一気に社会問題に発展しました。漁民たちは生活の糧を絶たれると工場正門前に座り込み、排水の停止を求めました。店先には「水俣湾で捕れた魚は売っていない」という張り紙が並びました。

きっかけは7月、熊本大学が有機水銀説を発表し、大きな反響を呼んだことにありました。熊本大学がまとめた見解。

「水俣病の原因は、有機水銀に汚染された魚を食べたことによる中毒だと見られる」。

工場への疑いは強まりました。八月に開かれた県議会で、チッソは強硬に反論しました。

「原因はいろいろと考えられる。大切なことは実証することだ。声を大にして言いたい。なぜ戦後、水俣湾だけに限って、有機水銀が不可解な病気を起こす原因となり得たのだろうか」

ところが、このとき、有機水銀説が正しいと確信していた一人の技術者がいたのです。工場技術部塩出忠次さんでした。

しかしこのころ、チッソ付属病院では別の角度からひそかに核心に迫る実験が行われていました。「猫台帳」。病院が行った838匹の猫の実験の記録です。この中で、400号と番号をふられた猫に、アセトアルデヒドの排水を直接飲ませる実験が行われていたのです。後に“水俣病隠し”と非難される「猫400号」実験です。

チッソ付属病院の小島医師は動物実験の担当でした。昭和34年夏のある日、自分が知らないところでこの400号実験が行われていたことを知りました。病院長の細川医師が行った実験でした。海水が本当に水俣病の原因かどうかを見極めるには、これが最も早い方法だと考えたのです。

「朝行って、あいさつしますねえ、飼育係の人と。そしてこの日誌を見て、どんなかとか、いろいろと診ます。そしたら、『400号』と書いて、『かかり排水』とだけ書いてあるんですね。だからぁ、これはどうしたんかと聞いたんです」。

7月21日に排水を飲ませ始めてから2カ月半経った10月7日、猫400号は異様な症状を示しました。

「朝めしやった後にすぐ、猫は痙攣起こして、ピョンピョン飛び出したからね、ず−っと様子見ておりましたら、やっぱり失調。よたよたするわけですね。あと、やっぱりふるいがあるわけだ。振顫。それがはっきり出たし、元気はないし、それから痙攣が来ましてね。一回来ましたか」

400号の症状は水俣病によく似ていました。細川医師と小島医師はアセトアルデヒドの排水への疑いを強めました。

漁民たちから工場排水を止めてほしいという訴えが出ていました。昭和34年11月2日、不知火海沿岸の漁民2000人が工場に乱入します。チッソの水俣病研究の拠点だった工場技術部は破壊されました。そして西田工場長も傷を負いました。

この騒ぎがきっかけとなって、漁協を除く水俣の28団体が熊本県知事に対し、逆に工場排水を止めないよう、こぞって陳情したのです。「チッソの操業が止まれば、死活問題になる」。漁民たちは孤立しました。

12月30日。患者団体との間に、いわゆる「見舞い金契約」が結ばれます。西田工場長が調印しました。チッソはここでも、工場排水が水俣病の原因だとは認めませんでした。

水俣病による死者への見舞い金は30万円でした。そして契約には、「これから先、工場が原因とわかっても、新たな補償金の要求は一切しない」と明記。後の裁判で公序良俗に違反するとされたこの条項を、患者はのまされました。

このころになっても、国は水俣病と工場排水の関係について明確な結論を出していませんでした。国の権限で工場排水を止めようとする動きもありませんでした。昭和35年に設置された原因を究明するための国の協議会も、4回の会合を開いただけで、1年で消滅してしまいます。宙に浮く原因究明。一部の省庁からは、とにかく工場排水を一たん止めて、原因を詳しく調べたらどうかという意見も出ました。

汲田卓蔵さんは当時、経済企画庁で水質規制を担当。水俣病対策の原案をつくる立場にありました。

「水産庁は止めるという議論はありましたよ。だけど、その他の、まあわれわれの課内の中でもね、止められないんじやないかと。だから、その止めないで最善の方法しかないんじゃないかという議論もありましたね。ま、あの当時、人が亡くなったからすぐ止めると言われても、ぼくら止められなかったな。そら命は、ねえ、日本の工場の1つや2つじやないってことはわかるけどね。う−ん・・・。ぼくは・・・、止められなかったね、はっきり言って」

昭和35年、西田工場長は本社に転勤が決まり、水俣を去ろうとしていました。池田内閣が登場し、日本が本格的な高度経済成長に突入していく年でした。

昭和40年、新潟水俣病が発生しました。昭和電王のアセトアルデヒド工場の排水が原因でした。水俣の悲劇は繰り返されました。国も企業も、工場排水を止めなかったのです。

「やっぱり、高度成長期の真っ最中というか、はしりぐらいな、追い越せ追いつけの時代だったわけですよね。だから、まあ産業性善説ですよ。産業性善説。時代がそういう時代だった。だから、その時代に負けてね、それを担当する役人がね、何もしなかったじやないかと言われれば、もう謝るしかない。謝るしかない。ある程度わかっててやってんだから、なんて言うのかなあ、確信犯だなあ、ある意味では。ぼくは確信犯だと思うね、これは。いろんなこと言われると困るけど」と汲田卓蔵元経済企画庁水質規制課長。

昭和40年、高度経済成長は公害をさらに深刻化させます。工場や自動車による大気汚染は被害を全国に広げ、公害摘発の声が高まりました。

昭和45年のNHKの世論調査では、高度成長に否定的な人が肯定的な人を初めて上回りました。

「(佐藤栄作元首相の声)私は、本物の生活の基調を、福祉なくして成長なし。福祉なくして成長なしという理念に求めたいと考えております」

昭和34年の見舞い金契約の後、黙って被害に耐えてきた水俣の人たちも、ようやく裁判を起こします。

昭和四八年、判決はチッソの全面敗訴でした。

公式確認から一七年、企業が頭を下げた瞬間でした。

熊本地方裁判所の判決文。「地域住民は工場からどんな排水が流されているのかわからない。工場は住民の生命、健康に対して、安全確保の義務を負うべきである」。

かつて有機水銀に最もひどく汚染された海は埋め立て地に変わりました。企業の壁を超えられなかった技術者たち。その陰で犠牲となった命と健康。高度成長に酔いしれていく、一時期の日本の姿でした。

(ビデオ上映終了)

かいつまんでごらんいただいたんですけれども、昭和34年というのが一番のピークで、この中でもいろんなことが出ています。そのあたりのことを少しお話しします。昭和34年、熊本大学医学部が「原因は有機水銀」というのにやっとたどり着いた。これもなかなかたどり着かなかったんですね。というのは、水銀は非常に貴重な重金属で、高いんです。医学部としても、そういう高い水銀が流出するわけがないと思っていたわけですね。で、ほかの重金属をいろいろ調べて、その中でいろんなのが候補になるんですけれども、特にマンガン中毒というのが、演技的な症状を示すという、うそをついているような症状が見られる。水俣病がそうだとされたので、マンガンが非常に疑われる。でも、だんだん絞られていって有機水銀にたどり着いて、11月の12日にいよいよ東京でその会合が行われて、政府答申ということになるわけです。

主催は厚生省で、食品衛生調査会の特別部会で、熊大医学部としては、これをもって厚生省・政府に了承してもらって、いよいよ研究費がつくだろうと思ったわけですね。そしたら、その前日の11月11日、前もっての説明会で、通産省が強烈に反発するわけです。熊大医学部に罵詈雑言をあびせて、全部覆す。その中には、「熊大なんてのは駅弁大学、大したことはない。チッソの技術部のほう、あるいは九大のほうが上だ」とか、研究の信用を落とすならなんでも使うわけです。

客観的に言っても、その当時のチッソの技術部は九大より上回っていた。その中で実は有機水銀を突き止める。正確には結晶化するのは36年ですけれども、その前にも、もう大体はわかっている。それを隠す。通産省は全く工場を肩代りして、というよりは国の政策で、熊大医学部を徹底的にやっつける。

ちょっとそこのところをNHKの別のビデオで見ていただきます。

(ビデオ上映)

翌日の12日に、同じ(日比谷の)松本楼で厚生省の食品衛生調査会が開かれる。そして、長い論議の後で、有機水銀説がようやく答申ということに決まる。徳臣先生の日記によりますと、会議が終わったときは、すでに夕闇が濃く垂れていて、表に報道陣が詰めかけているというので、先生たちは松本楼の炊事場から裏庭に出て、林の中を落ち葉を踏みながら走り去っていったと書かれています。答申には有機水銀ということが書かれているんですが、しかし、注目の工場排水との関係には全く触れていません。そして、これがその後の水俣病問題の展開に影を落とし、しかも、そのうえ、食中毒部会はこの日、解散させられてしまうということになります。

(ビデオ上映終了)

ということで、いま11日の場面がなかったですけれども、11日、12日と続いて、「ある種有機水銀である。それを魚を食べることにより摂取」という答申をもって、この特別調査会は解散させられた。熊大医学部としては唖然とする。これからというときに、どうして解散するのか。そして翌日の政府の会合で、池田勇人通産大臣が「有機水銀の出所は軽々に言及すべきではない」と釘をさす。これでほぼ終わりです。11月13日で政府の態度がはっきり出た。

調査は熊大医学部に反論するためにも、通産省が主となって、ビデオにありました35年からの各省庁協議会というのが開かれる。学問的には東大の医学部の田宮委員会が、「熊大医学部とは達うんだ」ということで、頼りにされるのですが、1年で立ち消えになる。このへんの内部事情は、お話しすると非常に長いことになりますので、割愛します。

それで11月11、12、13日と政府の態度が決まって、いよいよ最後、これはもう見舞い金契約で決着をつけようということになります。患者が必死の思いで、それがどんなに大変なことだったが想像にあまりありますが、その当時、21名の患者数で、死者への償いとして300万円要求しました。それに対して、「死者30万円」というのが回答でした。

ただ、これがどういう値段かというのは非常に難しいです。公序良俗に反すると言われたのは、もう、チッソが自分に原因があるとわかっていて、「その後新しく証拠が見出されて工場に責任があるとしても、一切の補償には応じない」と入れたことであって、「30万円」というのがどういう値段かというのは、にわかには言えないところがあります。直感的に言えば、「これ、人間の値段?」ということになるのですが、そのことをちょっと話します。

どういう値段だったかというと、昭和34年の4月、上級試験合格者の公務員初任給が1万200円です。私が東大の助手になったのが昭和42年です。私は修士出で、博士課程中退ですけれども、初任給が2万5000円。ちょうどこのぐらいでしたね。そうしますと、昭和34年に1万円とすると、ほぼ年収が21万円。それに3カ月ぐらいの賞与というのがつくにしても、30万円というのは2年分ぐらい。これはやっぱり、ひどすぎる。ただし東京感覚で言えばということもある。

この表は日雇い労働者の賃金で、若い人は知らないでしょうが、当時ニコヨンと言ってたんですね。ニコヨンというのは、昭和24年、一日の日雇い労働の賃金が240円なんです。昭和35年あたりは490円。昭和60年(1985年)になりますと、7800円になっている。日給が500円とすると、25日働くことができれば1万2000円ぐらいです。

これは床屋です。昭和35年(1960年)あたり、150円か160円という値段ですね。いまは、いろいろ差がありますけど、3000円ぐらいはするんでしょうか。そばのもり、かけ、昭和34年、35年が大体35円です。

ただ、水俣というと、その中心部をのぞくと現金が今のようには動いていないのです。漁村は特にそうです。それがご30万円のおカネを手にするとなると、それはやはり相当な価値になります。ちなみに、一律の国民皆健康保険制度というのは34年からです。31年、32年、33年というのは、医者においそれと行けない。結局熊大医学部に学用患者としてただで入れてもらうしかなかった。もっとも医者は高いといっても、おカネを持っていったわけじやない。ですから「30万円」というのは、それは安いことは安いんですけれども、私たちが考えるほどのばかにした値段というわけではないということを頭に入れてもらいたいと思います。

1968年政府が水俣病を公害認定したときに、厚生省は補償処理をしなければならなくなって、委員会をつくります。この委員に東大の精神医学の笠松章さんが入り、「命というものは値段がつかない。それだけ貴重なんである」ということを言うんですね。

「命は地球より重い」という言葉が有名になりましたが、これは、1968年(昭和43年)の9月、公害認定の発表をした担当大臣の園田直さんが言った言葉です。園田さんは天草で中学校の先生をしていた人です。それを受けて「命は計られない」ということを厚生省の判断として東大の笠松さんが言ったんです。

「命に値段をつけること自体、許されない」。しかし、つけざるを得ない。つけるとしたら、交通事故の補償体系を採用するしかないということになる。交通事故の体系というのは、年収に応じて払う。それから将来予想収入を加味する。ですから、交通事故体系では、お医者さんと弁護士が一番多くもらう、男の子と女の子の場合は男の子が多くもらうというふうになる。漁民の年収というのは、自分たちが税金も払わないことまで含めて、ほんとに微々たるものですから、そこではじき出されてきた値段というのは、すさまじく安い。冒頭「命は値段をつけられない貴重なものである」と始まって、最後は唖然とするような答申になって、さすがに厚生省から、任せてくれと言われて応じた一任派と言われる患者たちも、「これはあ・・・」と思った。

そういうこともありますが、昭和34年の話に戻りますと、12月30日の見舞い金契約というのがなされて、これで水俣病問題は終わる。それから、もう排水を出しませんということをアッピールすることになる。それが通産省指導でやられたサーキュレーター、浄化設備です。サーキュレーターというのは循環するという意味ですね。排水を循環させて毒物を取って、そしてきれいにした水を流しますというんです。これが昭和35年の1月に稼働し始めます。その稼働式で社長がその水を飲んでみせるというパフォーマンスをやって、それを新開がでかでかと報道する。ところが、実はその水は普通の水道水だったという、まあよくやってくれると思うようなことをやります。

この装置を受け持ったのが荏原インフィルコという東京の浄化設備会社で、その筆頭責任者の技術者は、東大工学部の講師を勤め、その後愛媛大学の工学部へ行った方で、20年後に証言するんです。「その稼働式には部下が参加したけれども、部下の報告を聞いて、私は開いた口がふさがりませんでした」。開いた口を開けたまま、黙っていたわけですね(笑)。

その当時の技術は、水の中から粗っぽい浮遊物を取るだけなのであって、有機水銀のような毒物なんか絶対に取れない。それは通産省も承知である。ただただ水を見た目に少しきれいにするだけで、とても飲めませんよという話をする。そしてさらに追い打ちをかけるようにして、有機水銀を含んでいるアセトアルデヒド工程から出た排水の経路が実はそのサーキュレーターにつながっていなかった(笑)。なんということでしょう。もともとつなげていない。国の責任はないとどこを押したら言えるのでしょう。

その事態が昭和43年の5月まで、正式にはその1年前までですけれども、続きます。このアセトアルデヒドをつくった排水を流している状態が完全に終わりました。石炭からカーバイトをつくって、アセトアルデヒドをつくって云々という方式が完全にストップしたのです。それも日本全国で最後にストップしたんです。チッソ水俣工場を最後にして、全部スクラップが終わった。チッソ水俣工場の役割は終わって、千葉県の五井の石油プラントへ移ります。

43年5月にチッソ水俣工場でアセトアルデヒド生産が終わったのと、厚生省が43年9月に「水俣病は実はチッソが原因だった」と発表したというのは、どうしたって関係があると思われるでしょう。「それは誤解、勘繰りだ」と言うに決まっているけれども、使えるだけ使って使いつぶして全部終わってから、「水俣病はチッソが原因」と発表したのです。

34年にふたをしてしまってから43年までの問に、アセトアルデヒドは盛大に生産量を伸ばして、その結果原田正純さんの言い方によれば、不知火海一円、20万人は汚染されたのです。ところが水俣病患者数は、昭和34年当時21人。そして、昭和37年に原田正純さんが発見した胎児性水俣病−これもお母さんたちの言葉によってヒントを与えられるわけですけれども、その患者が16人認定される。患者数はそれで終わった。水俣病というのは、21人プラス胎児性患者で認定患者総数105人で終わりなんです。これはいくらなんでも犯罪としか言いようがない。

その間に政府は、水質規制は経済企画庁が元締めですが、汲田卓蔵さんが言っているように、「もう確信犯である。止められるわけがない」とする。その止められないわけというのは、やはり日本国家、あるいは私たちの生活そのものにあったのです。

昭和45年、いわゆる公害国会で公害規制の14本の法案を一挙に通します。ところが、これは色川大吉さんの編集した『昭和の記録』ですけれども、その中で経団連会長の石坂泰三さんは、「お江戸の中に80年住んでいるが、公害なんて感じたことはない。公害のために死んだ者はないよ。産業を潰しても公害を防げというのはおかしい。どちらを選ぶかといえば、ぼくは産業を選ぶ」と言っている。「それにしても、最近の公害はひど過きるとは思いませんか」「ちっとも思わない」。これは昭和45年(1970年)8月18日づけ毎日新聞インタビューに対する元経団連会長石坂泰三氏の答えです。ビデオの中で「福祉なくして成長なし」と言っていた佐藤元首相も、同年7月30日づけの朝日新聞によると、全国都道府県議長会で、「公害が発生したからといって、経済成長をゆるめるわけにはいかない」と言明している。「公害問題についての世論が空前の高まりを見せようとしていたときに、日本の政財界のトップの認識がこの程度だったのである」と色川大吉さんは書いています。

水俣病が埋もれてしまった原因としてもう一つお話ししなければいけないのは、安賃闘争という大争議です。「石炭産業から石油産業ヘ」というので、チッソ水俣工場は使い潰し、五井工場への転換をはかる、その間の対策として、3年間賃金を据え置くという方針が会社から出ます。

チッソ水俣工場というのは、合化労連の中の精鋭労働組合だった。合化労連は総評の中の精鋭で、太田薫の指揮のもとに戦闘的な労働組合でしたから、62年(昭和37年)4月から一年弱にわたる無期限ストライキとロックアウトという未曾有の闘争に入ります。これは三池の後を受けた大争議で、三池の大争議も労組側が負けるわけですけれども、これも結局は負ける。技術部の若手の有機水銀を突き止めた人たちもこの中に加わって闘争するのですけれども、これで水俣の地域は真っ二つに分かれてしまう。この戦聞的労働組合は全く干乾しにされて、新しい第二組合が主力になる。もちろん主力は東京から来た人たちですけれども、地域の中で二つに分かれて反目し合う。これは根深くて、水俣では水俣病によるいろいろな傷の深さより、この安賃闘争による傷の深さのほうがすごい。これも結局は経済成長の中、技術革新の中の一こまと片づけられるでしょうが、地域にくらす人々にとっては非常に大きな意味を持っています。

レジユメを見ていただきます。一番から五番まで書いてみました。第一は「水俣病は平時の戦争によってもたらされた」。この見方は大事だと思います。

新興財閥というのは国家と結んだ企業で、軍部の関東軍と結びついて海外へ進出していく。野口コンツェルンというのがチッソで、森コンツェルンというのが昭和電王ですが、それぞれ皇室と関係を持つように働きかけて、「国家に枢要な企業」と自分を位置づけるわけです。チッソも契約書の中で自ら「国家に枢要な企業である」と言っています。戦後も、さっきのビデオにありましたように、昭和電工川崎工場の肥料部門、次いでチッソの水俣工場の肥料部門と激励に行った天皇から「重要な産業ですから」と言われて、みんな奮い立つわけです。戦前からの続きで、戦後も相変わらず「国家に枢要な企業」と位置づけた。だから、「おまえたちは我慢しろ」というのが漁業組合との契約書の中にも出てくるわけです。

普通の戦争が終わった後、待ち構えているのは経済復興ですけれども、それは「平時の戦争」のはじまりだった。平時の戦争もやはり国家絡みであって、手段を選ばない。平時の戦争とは経済戦争で、市場化と市場独占を図ろうとする。いまの南北問題というのは、北の国々が南の国々に、急速なスピードで市場経済をおしつけようとして、その国のあり方が破壊されていく様ですね。戦争破壊と回じです。市場化というのは、現金によって生活が成り立つようになるということです。

水俣の漁村地帯は、昭和30年代まで、現金はあまり動いていない暮しをしてきた。歴史的にいっても、漁村というのはあまり現金が動かない。魚はなかなか売れない。貧窮をきわめる。実はここに漁村に対する根深い差別が存して、水俣が水俣病をきっかけにしてその差別を露わにすることになります。

さっき水俣川河口の写真が出てきましたけれども、そこに舟津という集落があって、沖縄の糸満漁民の集落です。ここはよそとコミュニケーションがない。水俣のど真ん中です。工場の幹部たちは陣内というところに住んでいるんですが、陣内から百間港というのはほんのわずかな距離です。けれど、それは無限の距離を持っていて、工場長秘書室の太田恒雄さんは百間港へ行きましたけれども、普通はやってこない。工場幹部には全然縁がないところです。それ以上に縁がないところが舟津で、舟津と水俣とは無限の距離を持っていると言えます。

水俣病被害の舞台になったのは主として漁村です。基本的に漁村という差別を受けているのに加え、天草差別があります。天領天草は罪人の島なので、そこからの出身者はまず差別される。天草、沖縄、それから、なんと驚かれるでしょうけど、平家の落人部落という漁村がある。これも差別の対象で、ここから患者が出て、その集落はその患者を連れ戻すんです。水俣病をここから出したらおしまいだというので、チッソ付属病院から患者を担いでいってしまう。そして、「自分のところには水俣病はない」というわけです。

私が一つのフィールドにした、まだ報告が出せない、鶴木山という古い集落がありますけれども、ここは「一人も水俣病患者を出さない」と決意した集落です。その采配を振るった網元とずーっと付き合ったのですが、その網元も亡くなりました。私が死なないうちに報告が出せるかどうかと思っているんですけれども、「一人も水俣病患者を出すまい。おカネが動いていない暮しに、ある一人が3000万なんていうおカネをもらったら、どうしようもない」というのがその老網元の意識なんです。

漁民は普通は現金がないから、ちょっとした現金にも、ものすごい執着がある。しかし、身につかないからすぐ使ってしまう。現金が入ってきたらろくなことにならん。家庭から集落から破壊される。そのためには、水俣病は隠したほうが村の平和のためだというんです。

補償金問題で同じようなことになったのには、三里塚から原発立地から、幾らでも例があります。原発はまた漁村が多いですから。水俣でも、ぽんと補償金が来たために、あっという間に人間関係がむちやくちやになった例がいっぱいあるわけです。だから、「水俣病隠し」ということについて、単純に「なんということを」とは言えないんですけれども、それにしてもそれは、そもそもひどい話です。

漁村差別という中に、市場化されていない、極端に言うと国民化されていない漁民に対して、国民化されて一番苦痛を引き受けてきた農民が許せないとすることがあります。農民は、生かさず殺さず、税金を取られ続けてきた。漁村は定収入がないですから、ほとんどそれを免れてきた。流通が発達しなければ、幾ら大漁になっても何にもならない。フロンというのが行き渡って、発泡スチロールと冷凍設備ができなければ、魚は流通しない。それなしに流通するのは干物だけです。

私は房総の漁村で育ちました。転地療法で母方の小湊というところへ行って、そこで育ちましたけれども、友たちはみんな漁民の子で、差別されているというのが非常にわかる。夏目漱石の小説を読んでも如実にわかりますが、漁民について人間並みの扱いじやないようなことが、言葉の端々にひょっひょっと出てきます。水俣でもそうです。そこへ市場化という波が押し寄せてくるという話でもあるわけですね。

この平時の戦争というのはいまも続いています。平時の戦争と普通の戦争との区別はそう簡単につくものではないですね。確かにハンチントンの言うように、「21世紀の戦争は宗教戦争になる。民族の独立、誇りというものを踏まえた宗教的な戦争で、20世紀のような植民地獲得戦争ではない」というものの、やはり戦争は市場化と市場独占をめぐって行われることに変わりはないと思います。特に日本は戦後、そういう〃戦場〃になった。そして、水俣はその一番の被害の地である。その意味では、広島、長崎と同じ意味の被害を受けていると言ってもいい。もちろん沖縄は外せません。この平時の戦争、市場化と市場独占、資本主義と国家と科学技術が結びついて三位一体となったこの戦争をどう防いでいくのかというのが、平和問題の中心になると思います。水俣病というのはその意味で終わっていません。

二番目が「水俣病は科学技術の厳密さ、実証性が逆用されて拡大した」という問題です。原因究明に当たって会社側が言ったのは「厳密な証明、実証性、科学性」です。科学というのは、一たんそういうふうに便われると、幾らでも狭く解釈して使えます。つまり、「この証明には不備があるじゃないか。猫一匹じゃだめだ」と言われれば、それまでなんですね。有機水銀が結晶化されて取り出されても、だめなんです。きょうのビデオでは省いてしまいましたけれども、工場技術者が37年に有機水銀の結晶化を得て上司に報告したとき、「そうか、そりゃそうだ」と大して驚かれなかったので、私のほうが驚きましたと、その技術者は言っている。上司は「それはそうだろう。問題は、それが排水として海に出ていって、魚の体に入っていって、その魚が人間の口に入って、人間が確かにそのことによって発病したという証拠がなきやだめだ」と言うのです。「それが科学というものだ。有機水銀が出たからといって、それで責任があるとは言えない」、科学というのはそういうふうに使われるわけです。

科学者の責任問題でもそうです。「私の専門はこれで、そのほかのことについては私は素人と同じなので、一切言えません」というわけです。専門性という領域は幾らでも狭くできます。専門のところは、じゃあほんとに責任を取ってくれるかというと、そこがまたそうでないところも問題なんですけれどもね。

猫もそうです。「猫一匹じやあ、そういうのは証拠にならんよ」というわけです。猫一匹じやだめだというので、猫九匹の発症まで待っていくんですけれども、その時点でその後の猫実験は禁じてしまう。

一番の問題は、医学が水俣病を定義したことです。会社も行政も、水俣病についてどう扱っていいかわからない。これは科学に任せなきやいけない。医学にお任せすべきで、医学の権威によって解決してほしいとして、医学がそれを引き受けるわけです。その結果、「水俣病」を非常に狭く定義して、その後一貫して、「これは厳密な科学だ」ということを言い続けるわけです。

おかしいでしょう。水仮病の定義というのは、ある歴史が終わらなくてはできない。始まったばかりのときに、水俣病の定義などできるわけがない。この項の二番目に挙げた、「疫学は状況証拠として退けられた」というのが狭い科学の解釈を表わしています。疫学というのは統計学です。水俣はほかの地域と違うということを疫学的に位置づける。そして患者の配置図から言えば、チッソ水俣工場しか出所はないということを示す。これは人々の常識でもあった。それを認めない。つまり、犯罪での人権擁護を逆用して、「これは直接的な証拠ではない。状況証拠だ」として状況証拠は採用しないことになるわけです。

その疫学まで含めて、いまの水俣病像というのは、まず確実に言えるのは感覚症状で、末梢神経が中枢神経と連動して感覚障害を起こしている、これだけは言える。生活ができるかできないかというのはさておいて、他の地に見られない感覚障害が症状としてあるというのが水俣病です。ところが医学は早々とハンター・ラッセル症候群というのを用いて、急性水俣病、激症型の水俣病をもって「水俣病」と定義して、そのほかは水俣病ではないとした。それは明らかに医学ではない。これは行政が下すべき判断を肩代わりしたものになっている。

行政というのは、社会的福祉予算は限界がありますから、ある生活困窮が出てきたときに、どこで救済の線引きするか決めなければいけない。それは科学的な判断を参照しながら決めるんですけれども、あくまで行政判断です。それから漏れた人には、「症状が重くなって生活できなくなったら何とかしますから、とにかくいまは、つらいだろうけど、働き続けてください」というのが行政のあり方です。実はこういう行政のあり方を模索した一人の官僚が、環境庁の局長として水俣病の対策にあたり、新しい福祉のあり方の官僚として嘱望されながら、自殺してしまいます。とにかく有限の費用ですから、救い切れない人たちについては謝り統けるほかないわけですが、その判断基華はあくまで生活困窮度です。

それに対して医学は違う。水俣病という人類がはじめて体験する病気を見極めなければいけない。ところが、水俣病の定義を引き受けた東大医学部の判断は行政判断と区別できず、「国の現状として、これだけの患者数を認めたら国は破産してしまう。国のいまの経済復興、高度経済成長の波はストップさせられてしまう」という考え方から、「厳密な医学として、あなたは水俣病じゃない」と言い続けてきた。それが、2600人の認定患者のほかに、1万名のグレー水俣病を出してしまった。グレー水俣病という名付けを医学は恥ずべきです。

その人たちを一律260万円で手を打とうと言ったのが村山総理大臣です。水俣病40年苦渋の決断というので、平成8年、一時金一人260万円で妥結したのですが、この260万円というのは昭和34年の30万円より安い。昭和34年の見舞い金契約では、死者30万円、生存患者年金成人10万円でしたけれども、260万円というのは当時の10万円より安いと思います。死者ではありませんけれども、みんな水俣病で苦しんできた人たちです。

医学はもろにそのことに責任があります。特に東大医学部は。その中に、立派な人格者で、新潟水俣病を発見した椿忠雄さんという方もいます。この方は「水俣病」を非常に狭く定義した人で、そのほかは一切、行政としては補償の対象にしないということを決めた原因をつくります。

みんな一人ひとり、立派な人なんです。けれど、全体として見ると、巻き込まれてしまう。科学技術は独自の強さをもたず結局は負けてしまう。そこに、チッソ水俣病院で猫実験をやって原因を突き止めていった細川一さんというお医者さんの苦渋とか、いろんな人の苦渋が出てくるわけです。

負けるだけならまだいいです。東京工業大学の清浦雷作という教授がいて、この人は人格的に立派とは言えそうにないのですが、熊大医学部に対して真っ向から反論して、「漁民は腐った魚を食べて水俣病になった」と言う。「おれたちが腐った魚食うわけがない」と、漁民からすごく恨まれた人ですけれども、こういうほんとにお里が知れるような、うそで固めたようなほうが、まだ罪が軽いんです。科学の本質にからんで、科学の厳密さや実証性というのを逆用して使う科学技術者のほうが、はるかに罪は重いです。その中でも東大医学部が一番罪が重い。

三番目は「水俣病は人の健康、地球の健康を不可逆的に悪化させた」ということです。このごろ、ガイア仮説以来、地球の健康という概念が広まってきました。ガイアというのは、地球を一つの人格と見て、ギリシャの女神の名前をかりてきたわけですが、ガイアから見ると、人間はガンなんじやないかというふうになる。

人間は不可逆的に地球を悪化させている。水俣病がそれであるし、それに続くダイオキシシを代表とする環境ホルモンは不可逆的に人の健康、地球の健康を冒しています。放射線障害もそうです。ダイオキシンをはじめとする環境ホルモンというのは、すさまじい化学物質の氾濫の中で起こっていることですね。放射線障害は、核戦争と、原子力から電気を得るということによって起こってくるものです。この二つがこのままでいいはずがない。

四番目は「水俣病は新しい被害者、加害者を生み出した」。宇井純さんは「公害に第三者はいない。被害者か、加害者だ」と言いました。ところが、事態はそうではなかった。みんな被害者でありながら、加害者である。そして、加害者でありつつ、被害者なんだということになってきて、一人ひとりに襲いかかってくる。具体的にはおカネもかかってくる。PPP(Poluters Pays Principle=汚染者負担原理)というのは企業にかぶせた原理ですが、チッソはもう自分のところでは払い切れません。それで、熊本県債を発行して、それをチッソが借りて払い続けるということになります。2600人の補償金はそういうふうにして払う。熊本県債は売れなければ発行しても意味がない。売れることを保証してくれと国に迫って、国と国が指定した銀行が全部買い上げています。それを何回もやっている。そしてそれは税金なわけです。汚染を出した企業者が払うべきということが、結局国民一人ひとりにツケが回ってさているわけです。それはいまの国債問題も全く同じですけれども、大規模な被害となったとたんに、PPPはもう成り立ちません。企業が負担できるわけがない。

アメリカというのは特別な国で、たばこを吸い続けたために私はガンになったというので、この間、3兆円の損害賠償判決がたばこ会社に下されましたけれども、すごい余力があるという感じです。水俣病患者に払うおカネはとてもそんな大きなおカネではありませんけれども、チッソはまるっきり返すつもりはありません。というよりは、国は必死になってチッソが倒産しないようにつなぎ止めた。倒産してしまえば終わりです。PPPは消えてしまいますから、そうなると国がもろに引き受けることになる。しかし、国は責任がないとしているから引き受けるわけにはいかない。引き受けないとすれば、これは社会的不安の醸成につながりますから、いくらなんでも放っておくわけにいかない・・・というので、どうしても一企業が補償全を払い続けているという体裁が必要です。チッソをつなぎ止めることが、国の責任を回避する最大の手段でもあります。したがって、チッソについては地方行政の問題として熊本県が世話をすることになって、熊本県は間接的に国を当てにして県債を発行するという、そういう処理の仕方をしている。結局私たち一人ひとりが水俣病の後始末を金銭的に受け持っているということです。世界規模の汚染や、あるいはチェルノブイリのような国家そのものの事業であれば、余計に後始末に困ります。

五番目は「水俣病は科学技術・市場文明の危険性を明らかにした」です。いま私たちが直面しているのは余りの不均衡で、アンバランスが激し過ぎる。そのバランスを失しているところで正義の問題を打ち出してきても、アメリカは世界的な賛同を得ないでしょう。そもそもいま抱えている問題は、余りにも南北の不均衡があることで、アメリカのものすごい富の集中をなんとかしない恨り、世界は安定しない。それから流通が大規模過ぎます。市場経済としては流通を大規模化するしか生きる道はないわけですけれども、市場経済のとどまるところのない勢いがウイルスの流通まで含んできてしまった。エイズがそうです。西ナイルウイルスもそうです。これからどんどん新しいウイルスが流通に乗ることが考えられる。そのことも含んで、これはなんとかしなければならない。

一番の問題は、市場経済というのはあくまで、最終的には個人が責任を持つ原理ということです。おれのせいじゃないということは言えないように追い込まれてくる。アメリカはその典型で、貧乏であることは自分に責任がある。一般に人は絶えず責任を追られ、追い立てられていく。精神的なストレスは非常に増して、それに子どもも巻き込まれていると思います。学校の教育問題の根幹にはこれがある。その中では、子どもが持っている「学ぶ意欲」自体が侵されてしまうわけです。

科学技術のあり方、市場文明の危険性というのを、水俣病は余すところなく、否応なくはっきりさせた。それをぼくらがどう受けとめるかというのが21世紀の課題になっています。特に自然科学や技術を担当している者には大きな課題です。田中耕一さんのように、「私はただただ好きで真面目にやっております」という問題ではないんですね。田中耕一さんをけなしているわけではないです。素朴で、すばらしい方だけれども、科学技術の問題は、もうそういうふうなことに流されることはできないところに来ています。

最後に、これは『終わりなき水俣・本願の会』の季刊紙「魂うつれ」です。主催者は水俣病申請運動の先頭になって闘ってきた緒方正人さんです。この方は実は申請も下ろしてしまって、自分一人で闘うと宣言しました。私もこの会員です。この緒方正人さんの根本は「チッソは私であった」という認識です。

「チッソは私であった」というのは非常に衝撃的です。彼は漁民で、自分がやはり魚を殺して生きてきたということをどういうふうに受けとめるのかという、そこのところまで行ってそこから出発している。いままでの運動というのはどうしても、「無辜の民が権力から圧迫を受けて被害を被った」と言いがちですが、そうじやないんだと彼は言うわけです。「被害者でありつつ、加害者である。加害者でありつつ、被害者である」という水俣病の困難さが見事にこの言で表わされています。私たちが培わなければいけない倫理のあり方がここにあります。私の一つの専門は障害者のケア論ですけれども、この水俣病の究極の倫理と絡めて、ケアの倫理あるいはボランティアの倫理ということを追求していきたいと思っております。

駆け足でしたけれども、ご静聴、どうもありがとうございました。

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