和光大学人間関係学部紀要・第8号第一分冊 本書はおそるべき本である、ということについては大方の一致を見るのだが、その上にどうしても気にかかる本というような性質をもっている。すでになされた書評のなかで、類書がないとする表現が見られるのだが、それは、たぶんこのひっかかりを言おうとしているのである。 人が、自然というような区切りを設けて、そこで生起する現象をどう説明しようかと格闘する、そのことにこだわってその歴史をたどってみたい人、と言ってみる。そしてその場合に、最初の人と最後の人がリカーシプにつながっているとすると、そういう人が書いた本については、固有な人に対する興味と人間一般に対する興味がグルグルまわって、はなはだ複雑な読後感を残すだろう、というようなことを予感させるという意味で、そういう本は、はなはだ気にかかる本ということになるのである。ずいぶん、もってまわった言い方で気が引ける。すこし説明してみる。 たとえば、著者は科学史というジャンルの仕事に取りかかり始めた頃、大佛次郎の『パリ燃ゆ』を読んだ。そして大きな興奮を覚えて、自分も浩瀚な資料を駆使して、専門家にうむを言わせないような、誰が読んでも面白い本を書きたいと思った(大佛賞受賞挨拶)という。その当時の著者の感想を少し引用してみる。
本書も大著であるが、著者は理論物理学者である。何をもって学者と規定するか、著者は少なくとも科学史家としては無免許運転であることを言挙げしているが、学者であるかどうかは何も言わず、ただ予備校講師であるというのみである。しかし本書では、学者を志しながら、その学者としての要件を執拗に探っていることが、まことに鮮やかに浮かび上がってくる。すなわち自然科学(物理)を志しながら、その志しを支える不動の基盤を、自然科学が成立してゆくときの根幹問題である、瞬間に働く遠隔力(引力、重力)の説明を試みた人びとを丹念に追うことによって、追求し、場合によって自分を自然科学者と規定できるという可能性を、これまた執拗に探っているのである。 したがって読み手としては、磁力を手がかりに、媒介なしに働く遠隔力の説明に取り組む人間群像に引っばられながら、そのモティべ−ションについて、読み手として、もし読み手が学を志しているならば、そういう自己をこれらの人間群像に投影しながら、著者という固有の人間のモティベーションについて思いをはせるという次第になるのだ。 だから学を志し、あるいはすでに学者であるという自負をもっている者が、主観としての自己と歴史的に外化される人間とのリカーシプな関係を本書に読み込まないとしたら、それは阿部謹也の言う、世間という一階と近代社会という二階を器用に住み分けている学者というそしりを受けても仕方なかろう、と本書は厳しくせまっている、とも言えるのである。 本書は、事実と合理に基づく自然科学の根幹概念がいかに非合理なものであるかを指摘している。瞬間(無時間)に作用する媒介なしの遠隔力は、どのようにしてもデカルトの機械論的合理主義からは導かれない。本書の続きは、出るとすれば、いよいよニュートンのプリンキピア(自然の数学的原理)にさしかかるのであるが、ニュートン力学が提示された後も、17世紀の終わりから19世紀にいたるまで、近接力を主張するデカルト合理主義が学として圧倒的に支持されたことが、また活き活きと描写されるだろう。 著者はいわゆる学外者である。学外者が大学の資料を使おうとするといかなる困難に遭遇するか、著者はしみじみ述懐している。そして資料を得るために莫大な私費をつぎ込んだことをたんたんと語る。なぜに著者はそのような人生を送るのであるか。著者は口を閉ざして何も言わないが、合理と人間の進歩の名の下に、地球規模で壮大な生物実験、人体実験を繰り広げている(ダマノスキ)現在の自然科学とそれを取り巻く諸学について、痛切な批判を放っていることに間違いない。その意味で、本書は1936年のフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』と照応する位置を占めるもの、と言ってよいと思われる。 |