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能「不知火」奉納水俣公演に寄せて
−本源から発せられる光−
すべてが病んでいる中で

朝日新聞(夕刊)2004年6月5日 関西版

終わりようのない水俣病が歳月を刻んでゆく。新学期、また、勤務する和光大と恵泉女学園大の授業で、土木典昭監督の「水俣病その20年」(1976年)を見る時間をもった。もう何十回見ただろうか。時間は滞り重く固く凝っている。迫る被害者、迫られる社長、記録に収められた人々はほとんど亡くなった。しかしはたして死に切れたのだろうかと思う。

53年の水俣病公式第一号患者発症以来50年6カ月、最高裁は7月5日、国と熊本県の法的責任を初めて認めた「水俣病関西訴訟」上告審の口頭弁論を開く。熊本県水俣市の水俣病患者たちがつくる「本願の会」は8月28日、水俣湾の水銀の埋め立て地で、石牟礼道子の能「不知火」を奉納する。

この二つの催しはいかにも対照的に見える。しかしブツブツに切れた時間を取り返し、緩やかに、どこまでもつながってゆく時間に身をひたしたいという、水俣病の人たちの切なさの表れ、ということでは、ニつにして一つである。

こんなにも身を苛む不調が水俣病かどうか、その決着がつかない限り時問は止まっている。その思いは、今水俣で認定申請をしている人たちも同じである。患者の中には、水俣病が国の戦後の復興に不可欠な犠牲であるとしたら、水俣病を引き受ける、ただし死者も 死んでゆく自分の魂も国として鎮めてほしい、という区切りを思う人たちもいるのだ。

海辺の人たちはとくに自然に溶け込む意識が強い。海底の穴に閉じこもる生き物も果てしなく海につながり、そして穴の底はまた三千世界に開かれている。人々はそういう生き物にも自分を重ね合わせる。その海辺の人たちの水俣病に病む心情を描こうとして、石牟礼道子は「天の病む」と言った。

地は海につながり、海は空につながる。そのはてしのない連なりの中に、人は致し方なくもろもろの区切りを入れて暮らしてきた。そのなかに望んだ区切りがないとは言わない。しかし明らかに強いられた区切りもあるのだ。

殺生にかかわる生業は仏教上は罪とされ、漁民は転業を勧められた歴史もあった。浦人は年貢上も生活上も別の目で見られた。そして水俣の漁民の多くは、その上に、天草や沖縄からの流れ者として区切られ、しまもん、すだれもんとも言われたのである。

しかし差別が、もっとも耐え難くなるのは、その区切りが区切りであって区切りでないかのように扱われることである。ハンセン病元患者と名乗り続けることにそのことが如実に表されている。ハンセン病は治ったのだから、患者ではないし元患者もおかしいと行政や識者は言う。元患者とあえて区切り続けるそのこと自体が、有形無形の差別に立ち向かい、その差別をなくそうとする運動なのだ。

水俣病かどうかはっきりしてもらいたいという人の気持ちも同じように切ない。その背後には一万人を迎えるグレー水俣病という区切りによって見舞金をもらい、それ以後水俣病にかかわることを封じられた人々がいる。そしてさらにその背後には申請もしないで苦しみ亡くなっていった同じくらいの数の人たちがいる。死者は死者として区切られず滞っている。

はるかにつらなる時空すべてが病んでしまったのではないか。その中にあって、正義のために人を殺すことから始まり、国のために水俣病の定義を狭めることから、自分を健常と見なすことまで、人々はみな病んでいるのではないだろうか。

祈るべき天と思えど天の病む

救いはないと石牟礼道子は言っているかのようである。その血の吐くような思いにどこまで近つけるのか。その惑いの中で、ふと凝りが解けそうになる。すべてが、天まで病む中で、どうして病んでいるという意識がやってくるのだろうか。それは病む私が意識しそうにないことである。では誰の意識なのだろうか。わからない。わからないのに、ぼーっと明かりがさしこむかのようである。

ひょっとすると、すべては病むという意識は本来の、本源の区切りから発せられているのかもしれない。それは光であり、いのちなのかもしれない。たぶん、能「不知火」はこのようにして生み出され、このようにして奉納されるのだと思う。その現場に私も学生と共に加わる予定にしている。

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