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書評 山本義隆著、『磁力と重力の発見』(みすず書房、2003)
−この膨大な手がかりは日本の何を焙り出したのか−
素人は免許をもたない。しかし素人はただの人であろうか。

図書新聞2661号 2004年1月17日

科学するこの不確かさ、やましさを払拭する不動の支点を求めて、責任ゼロを求めで自他未分の世界から跳ぶ

山本義隆著『磁力と重力の発見』全三巻の真っ白な本を前にして、何か書くだろう、書かねばならないと思ってもう半年になる。いや、書くことは決まっているのだ。ただ、著者がこの本に費やした時間とお金と労力を思うと、それにふさわしく書くにはどうしたらいいだろうと、思いは空転するのである。ソプラノの中丸三千繪が、日本から来たにしては真っ白な声だと評価されたと、ラジオで話していた。日本から来たから真っ白と言うところを、その先生は言い間違えたのだろう。晧々とした真っ白な月、月が私か私が月かと川端康成はノーベル賞講演で述べて自殺した。無定型な明るさをフォルムに盛ろうとして三島由紀夫は自殺した。真っ白な無心、白は素である。素面の素人。素人は免許をもたない。しかし素人はただの人であろうか。

著者は第一巻の冒頭でこの本の執筆は無免許運転に近いとの念を押した。無免許は隠すのがふつうだ。だからあえて無免許を言挙げするのは、免許持ちに対す痛烈な皮内と挑戦でなければならない。しかし著者の気持ちはそういうところにはない。いや、そう言えるかどうか。著者はすでにあっけらかんとそう言えるようになっているのかも知れない。いや、著者の目はひたと、かくも無謀な科学を推し進める人の暗部を、そしてその暗部の合理化の術(免許)を見据え続けているのかも知れない。

暗部には本能がある。「科学する」と言ったのは、近衛内閣の文部大臣としての責任を自殺した橋田邦彦だが、科学することが本能によるものだとしたら、科学することへの迷いは吹っ切れるのだ。あの当時、今から三五年ほど前の、科学を志すことにおいて厳密であろうとした若者のモヤモヤを、今言い表そうとすれば、たぶんこういう言い方になると思われる。もし本能に基づくのであれば、責任は回避できる。

一九六八年日本は公害列島化していた。そしてベトナム戦争は日本のアジアに対する責任を抉出していた。産官学がそのような日本を支える三本柱であった。学の中心は科学技術であり、科学の社会的責任を回避して科学することはできない。科学についての「もろ刃の剣」論はすでに成り立たない様相があった。「もろ刃の剣」とは、科学には悪用される面がある、悪用する者が悪いのだが、その原因をつくった科学にも五〇パーセントの責任はあるという見方である。では科学の善用とは何か、そのように問いを立てると、答はにわかにアイマイになる。そして科学は善悪を超えて知の拡大そのものに意義があるというふうに飛躍する。では誰がその意義を認めているのか。誰がお墨付きを与えているのか。それにもし答えられないとすれば、どうして科学することができるか。

東大闘争の一翼を理系の学生が担い、なんと全共闘議長に若手の素粒子研究大学院生がなったという事情の説明として、以上のような問いが挙げられる。とりあえずは、今科学している教授たちにそのこと聞いてみたい。医学部の一学生の冤罪など、自分たちのしていることに比べれば、ものの数ではないという価値観の根拠を尋ねたい。そしてなんと教授たちは答えられなかった。してみれば自分たちで取り組むしかないではないか。

科学は本能によるとしたのはA・ホワイトヘッドである(『科学と新世界』一九二五)。「まず第一に、広く人々の間に、事物の秩序、とくに自然の秩序の存在に対する本能的な確信がなければ、生きた科学はあり得ないと言うことである。いまわざと本能的と言う言葉を用いた」とホワイトヘッドは言う。この本能的確信は、幾世紀にもわたって自明とされていた信仰から現れたヨーロッパ精神のもつ刻印のことを意味し、エホバの人格的力とギリシア哲学者の合理的精神を併せもつと考えられた神の合理性から湧出しているのである。どのような些事も神は見通して秩序づけている。自然の探求のゆきつくところは合理性に対する信仰の擁護になるほかないのだ。「ここで言っている信仰とは思想の本能的なトーンのことである」とホワイトヘッドは言う。

それに対して、アジアの神はきわめて専断的であるか、あるいは非人格的であるために、人格的存在のもつ理解可能な合理性に対する信頼、すなわち自然の可知性に対する信頼は育たない。「私は、近代科学の発達以前に生まれた科学の可能性に対する信仰が中世神学から無意識のうちに出てきたのだと説明しているのである」。

G・ステントはどう言うか。客観性の概念こそが科学に関する西洋の概念に固有のもので「東洋の見解は西洋で“科学”_と見なされていることと本当のところ両立しないと信じる」という(『<真理>と悟り』一九八一)。東洋には客観性が欠けている。なぜなら客観性は実在の対象世界自然を創造した神が自分の姿に似せて、理性ある人間をつくったというところにしか基盤を持たないからである。「もちろん多くの現代西洋科学者たちは自分たちを無神論者だと言い張るだろうが、これら“無神論者”と自称する人々の大半は自分たちの言っていることがわかっていない。彼らは基本的に有神論的世界像の継承者ある」とステントは言う。客観性か揺らいでしまった現代科学は、あくまでも厳密な客観性に立った近代科学から生まれたのだ。

この文脈に巻き込まれれば東洋の孤島の一若者が科学することかできるのか煩悶せざるを得ない。長岡半太郎をその例に挙げることができる。長岡半太郎は科学する資質・資格が自分にあるかどうか一年をかけて考えることにした。その結果の科学することへの旅立ちについて、分明でないところがある。しかし一九六〇年代終わりの時代における科学することの、例えば唐木順三遺稿に見られる、責任問題はなかったことは確かだ。

ホワイトヘッドやステントの科学のあり方でいえば、科学の責任は超越的存在に向けられる、あるいは超越的存在にある。リンゴの果実を食した罪は恥ずかしさなどの価値判断をもったことにあるのであり、価値判断を神に預けた知の探求はむしろミッションとして位置づけられる。単純粗雑に言えば、人間に対して、純科学は責任ゼロ、応用科学は責任五〇パーセント、技術は責任一〇〇パーセントということになる。

科学することの不確かさ、やましさを払拭する不動の支点を求めて、責任ゼロを求めて自他未分の世界から跳ぶ。しかしどうしたら跳べるといえるのだ。山本義隆は一九六八年の六月、潜伏先からキリスト者であり、宗教哲学者である九大教授滝沢克己に宛てて手紙を出した。それは「朝月ジャーナル」を介して滝沢克己に届き、滝沢克己の返事があり、そしてやりとりがもう一回続いた。世にいう「山本−滝沢往復書簡」(「朝日ジャーナル」一九六八・六・二九号、七・六号)である。

滝沢克己は九大に建設中の電算センターに墜落した米軍ファントム機の処理をめぐって、大学当局と学生双方にアッピールし、六九年一月と四月に研究室で断食を行っていた。アッピールの一節、「もともと無一物のただの人として徹底的に考えれば、問題解決の真実の道は、やがては必ず開示されてくるはずです」。

山本義隆はどうしたら「ただの人」になれるのかと端的に問うた。えいやっと思い切ることが必要ではないかと尋ねた。「ただの人」に不動の支点に立つキリスト者を重ねて見たのである。滝沢克己の答えも簡明だった。スルリとなるのです。このスルリを滝沢克己はうまずたゆまず説いた。何の覚悟も要しないこと、何の力もいらないこと、それなのにどうして跳ばねばならぬと決意したりするのだろう、山本ほどの理知的青年にどうしてこのスルリが分からないのか、もどかしい。絶対をめぐってどうしようもない開きがあった。山本義隆は、否定に否定を重ねて「ただの人」へというおぼろげな道筋を示して往復書簡は終わった。

J・ホーガンは、科学者に対するインタビュー集の『科学の終焉』(一九九六)で、このスルリ、身に染みついた絶対、の片鱗を極めつけの相対主義者ファイヤアーベントからも引き出している。問うことにのみ確かさを見るJ・ウイーラーにしても「万物の奥底にあるものは、答でなく質問なのだ。我々が物事の最も深い奥底、宇宙の遥か果てに目を凝らすとき最後に目に映るのは」というように絶対が出てきてしまう。最後に目に映るのは、自分自身を振り返ってみている白分自身の困惑した顔であるにせよ、それはやはり絶対の言い換えなのだ。

長谷川真理子は、毎日新聞科学環境部による『理系白書』の書評(「サンデー毎日」〇三・八・一七)で、日本には優れた科学者がいるのに、科学の文化はないと慨嘆した。ホワイトヘッドが個々の科学者でなくヨーロッパ精神を問題にしたように、山本義隆も日本的な土壌を問題にしているのだ。そして絶対が身に染みたヨーロッパでも、そのことからストレートに科学が登場してきたわけではないことを手がかりに、白分も日本も焙り出したいのだ。

それにしても、この膨大な全三巻の手がかりは日本の何を焙り出したのか。読者として私はその作業に取り組まねばならない。

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