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NHK教育テレビ 視点・論点 「全共闘と価値紊乱」04.8.17放送

(かっこ内は時間オーバーで放送では話さなかった箇所)

大学の教授をやっています。私にとって、成り行きというほかないという感慨になります。まだ魅力のある自由な和光大学ということを別にして、教授はたいへん緊張を要する身分でもあるのです。

若い皆さんはまさかと思うでしょうけれど、私が学生だった1960年代のはじめ、教授の中には二人きりで会うとなると身の震えるような怖さを感じる教授がいました。そういう雰囲気が漂っていたのです。それがほんとうに学問の権威によるものなのかどうか、震えながら考えていました。

いま考える言葉で言いますと、五つのしこうということになります。漢字で、至高を指向して志向し、試行と思考をつくすということです。超越的な有無を言わせない光や要請がなければあらゆる批判を越えて学問はできないのではないかという疑問です。

(原発のある新潟柏崎のあるおばあちゃんが「みなアインシュタインが悪い」と叫んだという話があります。何十万人も殺し地球を破滅しかねない武器や合成物質を学問は生み出しているのです。よほどの覚悟がなければできない営みです。

1960年の第一次安保条約の改定で私たちは一途に反対しました。その時の大学の態度が問題だとして1962年大学管理法が出されそうになりました。大学は大学の自治から学生の自治を切り離すことで妥協しました。私もその時処分されました。何のための学問か、疑問は深まるを得ませんでした。)

1968年東大医学部で研修医制度をめぐる学生の運動で大量処分が行われその中に無実の学生が含まれるという事件が起こります。東大全学評議会がその処分を認めたのです。ちょうどそのときマンモス大学の日大で23億円の不正経理が明るみに出ました。素朴な正義感から両大学のいろいろな学部で学生たちは次々にストライキに入って行きました。そして大学とは何か、学問とは何かを教授たちに尋ねる事態になりました。なんと教授たちは答えられなかった。

私は東大教養学部の生物教室の助手になって2年目でした。32歳です。助手は教授会メンバーではありません。そして学生でもなく職員とも一線を画される身分です。でも学生には教授会サイドに見えます。そのようなヌエ的な存在として、発せられた疑問に、私はたぶんに余儀なく学生の側に立つという答えを出しました。若者たちのわだかまっていたイライラが一挙に吹き出てきました。アジアに対する日本の戦争責任もその大きな1つです。ベトナム戦争に日本はアメリカに加担して、そしてその傘の下で高度経済成長を目指す、それでいいのか。しかも科学技術の粋を凝らしたアメリカ軍はベトナム解放戦線に勝てない。近代科学文明社会はどこに向かっているんだろう。

学生たちはそういう思いをよく言葉にできたわけではありません。その分際限のないおしゃべりと落書きで大学は埋め尽くされました。

(あれかこれかでもなく、あれもこれでもなく、あれでもないこれでもないのです。)

すべてに異議を申し立て、バリケードを組んで閉じこもり、中で漫画を読みギターを弾き寝転がっていたのです。身をもって、働かざる者食うべからず、勉強せざる者就職すべからずの規範に対抗し、土俵から滑り落ちようとしました。カウンターカルチャー、サブカルチャーの芽が渦巻き、未来は見えなかった。思想的に価値は相対化され入り交じり、まさに価値の紊乱が起きました。

分かっていたのはこれは世界的動向なのだと言うことであり、大学の権威は地に落ちたということです。しかし紊乱から1つの方向性、1つの価値が見えて来るというわけにはなりません。高度経済成長イコール公害列島化した日本で、学生たちの中には大学にもどらず、三里塚や水俣をはじめ地域に出かけて行く者がでました。

私も方向が見いだせず、それゆえにといいますか、人間を離れた超越的なものに縛られたいという思いは強くなってゆきました。そして1976年重度の複合障害をもつ娘を得ました。

まさに転機でした。星に子と書いて星子というのですが、この娘は人生の目的意義など超えて悠然と生きるように思えました。人に理解されない孤独などものともしないのです。

今お話しできることですが、やはり70年代は1つのルネッサンスであり、それは今でも続いているということです。明治維新の舶来崇拝、脱亜入欧を軍部にからめとられ、敗戦後ふたたび民主主義礼賛、米国追随、西欧に追いつくというふうに繰り返しながら、どうしようもなく泥沼に入って行く。

もっと日本の古層からの再出発はないのかという惑いが渦巻いているということです。その古層、古い意識に政治学者の丸山真男は晩年「つぎつぎとなりゆくいきおい」という言葉を与えました。そして日本語に主語がない、三人称がなく二人称しかないという哲学者森有正や小説家の片岡義男の言葉が響き続け、阿部謹也さんは日本はあいかわらず世間だと言います。

わたし自身はこうした中で「連帯を求めて孤立を恐れず」という意味が新しくなって行きました。つぎつぎと成り行く世界は開かれた世界です。それゆえに絶対的な同一性が保証されず、未来もまた約束されていないのです。それに対して閉じた世界は絶対的な基準、すなわち同一性が展開し多様性となる世界です。未来もまた一つのゴールに向かってゆきます。

私はこの閉じた世界に理屈の上で入りたいのに、身は開かれた世界にいるのです。そして気づいたのです。どうしようもなく一人一人違うから連帯を求め、人との絆を結びたいのだ、ということです。普遍性という保証がないから、人間関係は細やかになるのだ、ということです。その土台は、ふれる―なぜる―さする―こするという肉感、そして性の営みにまでつながる、世話することの情感だ、ということです。

この情に何のためにという問いはいりません。それはるかに次の世代を生み出し交代するという大いなる事実を展望するにすぎません。そしてそれがすべてだ、それが希望だという気がします。

わたしはいま大学で、生命・身体・環境・地域を世話することの情に結びつける話をしています。(それは緊張を強いられる仕事です。大学は一般的に、閉じた世界で絶対的高みを目指すかのようでありながら、すべてはお金に換算され、それが物質文明を推し進める意欲・動機を保証する、という場になっているからです。)

いまは、70年代の世界的な価値紊乱を若者がおしすすめながら、収益こそがすべてを動かすという価値が支配的であるように見えます。しかしことはもっと大きい、価値紊乱の底にあるものに言葉をあたえなくてはと思います。

中原中也の「ゆきてかへらぬ」という詩の一節をもって終わります。
目的もない僕ながら 希望は胸に高鳴ってゐた

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