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それでも壁をたたきつづけねばならぬ
山崎修太君推薦のことばとして

1962(選挙ビラ)

最首悟

 学生運動の沈滞とは何か。混乱とは何か。それはわれわれ学生の責任なのか。断じて否! 学生運動の指導者という、世にも単純でロマンチックな志向をもって革命ごっこにふける連中が、乱痴気さわぎのなかで自らいい、その浮かれたさまをみて 世の文化人どもがいっているだけだ。そこにはわれわれは徹頭徹尾不在である。あるのは勝手につくりあげられたマボロシの学生のみ。

 われわれは学生運動の沈滞ということすらいいやしない。とたちまちピエロがシャシャリ出て、だから君たちはねむっているというんだよ、目を覚ませよ。冗談をいうなってんだ。俺たちは寒けがするほど醒めてらあ。自分のつけている無表情な仮面は、最終的な態度決定だ。これをさして政治的無関心とバトウされようと毛筋一本動かない。

 われわれは、きりたった絶壁のわずかな道を歩いている。たんたんとしたハイウエイを行進しているつもりで、希望にみちてポンとはねあがって叫ぶ、”労働者はたたかえ!”。とたんに足を踏みすべらせてあわてて岩角にしがみつく。落ちる勇気など絶対にない。しかも、しがみつきながら消え入りたい自己嫌悪がある。それが学生だ!

 警官が学生を猛烈にぶんなぐるとき、何も支配階級の暴力装置の一員としてぶんなぐっているんじゃない。学生という存在、ぬくぬくと生活している存在に対する憎悪だ。労働者の場合も同様である。かしこぶって労働者の中に入って、”ともに斗おう”。労働者の学生に対する本質的な憎悪の念すら気がつかぬめでたさ。「革命的労働者はわれわれをうけいれる」。何たるたわごと! そんなたわごとを堂々といえるほどわれわれは鉄面皮じゃない。へっぴり腰でいつでも逃げだせる用意をしながら、労働者は斗えというときの穴に入りたい気持ちはまさにここからくるのだ。

 アルルカンいわく、それはおかどちがいだ。学生運動は学生の利益を守るためにあるのです。大いに結構。だが動かないぜ。せいぜい守ってくれ。学生がなりたってゆかないような不利益を支配者が出すものか。

 こんなことを何時間続けていってもヽことだ。それを半年、一年続けると完全な無表情の仮面が完成するんだ。が、その下にあるのは、グロテスクなドロドロした苦汁である。それを政治的無関心だとか幼な子よと呼びかける連中のノッペリした面の皮をひんむいてやりたい。ひきむしったら、インクの芳香とともに、8ポの活字がウンカのごとく、飛び出したり、七色のシャボンダマがポアポアでてくるだろう。そのように素直な希有な存在は、はっきりわれわれとは無縁だ。陳列棚の上にでものっかっていれば、いつでも羨望の念をまじえながら、じろじろとその精神構造がみられるというわけだ。われわれは全くの袋小路のなかにいる。どうしようもない状態だ。では、何故発言するか。どうして自己表現しようとするのか。完全な沈黙からぬけだそうとするのか。

 われわれが「牢獄と一体になっていることをやめて、牢獄のなかにいること」を意識してしまったからだ。牢獄と一体でいる限り何と幸福であったろう。牢獄字体がもがくなんてことはあり得ぬからだ。しかしいったん個々別々の牢獄のなかに自分が身をおいていることを気づいたら、壁をたたきつづける意外に道はないのだ。どんなに休み休みであろうとも。出るためにたたくのではない。個室に入れられた各人は一緒にたたいたらどんな事態がおこるかさえ知らぬ。カクリされた者に組織論などない。ただたたくのだ。疲れはてねこんでも、またいつのまにかたたきだしているんだ。たたかざるを得ないんだ。

 ここには、結果を予想できない、純粋な行動だけがある。それ以外はすべて欺瞞である。空想にふけることも、じっとしていることも、すべて牢獄から誰かがいつか出してくれるという期待の形態である。そこにとどまれぬ何かがある。理論でも感情でもない何かがある。それによってわれわれはたたきつづける。指導者と指導者、われわれは共通の言葉のいかにとぼしいかを自覚する。しかし、最後のコミュニケーションはいまだ存続する。それはすべての幻想をすてた、たたきつづけるという行動である。統一の真の意義、ぎりぎりの線まで下がった統一はここにしかありえない。

 慢心の力をもって壁をたたきつづけよ!

 このいみにおいて、山崎君を前におしだすのである。

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