『実践障害児教育』 、小学館、2008年7月号 最首悟 「みんないっしょに」とインクルージョンは違う インクルージョンの考えに文句のあるはずはないのだが、物をつかむことをせず自分で食べないのだから他は推して知るべしの娘と暮らしている身としては、モヤモヤする気分も晴れない。そもそもは基本的人権や人格権を踏まえての考えだから、それらの考えが行き渡っているかのように話されると、モヤモヤを通り 越してムシャクシャしてくる。 人(格)権をもとにした民主主義について、中野好夫はその第一条に「意見表明の義務」を挙げた。もちろんイワザルのアンチとして言っているのだが、自己主張する権利についてもくぎをさしていると解される。 権利は正しさの自覚を含んでいて、その自覚には疑いや反省が裏打ちされる。その葛藤を欠いた権利は無邪気で危なく、容易に自分勝手に傾斜する。そのことを中野好夫は戒めている。 善意と純情の犯す悪ほど困ったものはないというのが中野好夫の持論だが、「意見表明の義務」はその関連において主張されているのだ。そしてこれまでのわたしの経験では、義務というと、激しい反発に遭う。 寺田寅彦は「子猫」という随筆で次のように書いた。 「私は猫に対して感ずるような純粋なあたたかい愛情を人間に対していだく事のできないのを残念に思う。そういう事が可能になるためには私は人間より一段高い存在になる必要があるかもしれない。それはとてもできそうもないし、かりにそれができたとした時に私はおそらく超人の孤独と悲哀を感じなければなるまい。凡人の私はやはり子猫でもかわいがって、そして人間は人間として尊敬し親しみ恐れはばかりあるいは憎むよりほかはないかもしれない」一九二三年)。 子猫と人間をこれだけはっきり区別するのは凡人ではないが、純粋で透明な愛は人間のものではないという指摘はうなずける。生まれた子猫を崖から捨てる坂東真砂子も人間と自然をはっきり区別している。両者ともその考えは西欧の超越的人格存在に通じていて、しかもその存在を拒否しているというねじれがある。 インクルージョンに至る考えの歴史には、超越的人格存在が人間に与える愛というものが抜きがたく投影されていて、そして人間と自然は峻別されているのである。 わたしは今までのところ、自然と人間があいまいにつながっていて、神といえば恨みを残して死んだ者で、そのたたりを恐れて鎮める必要があるという風土から抜け切れていない。そういう者として人(格)権がすべての基礎とはいえずに、重度複合障害をもつ娘といっしょに暮らしている。そして「みんないっしょに」とインクルージョンはやはり違うと考えているのである。 |