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闘いのエネルギーを
所美都子『わが愛と叛逆 遺稿■ある東大女子生徒と―青春の群像』
、前衛社、1969年3月号、序文

最首悟

 一九六八年一月二十九日、私たちは東大ベトナム反戦会議の赤旗を、所美都子の柩に静かにかけて送り出した。二十九年の短い生涯を閉じた、彼女の葬儀の日である。

 その日、東大医学部学生、研修生は、「登録医制度」反対、青医連との研修協約締結要求をかかげて無期限ストライキに入った。

 その日から一年、私たちは闘ってきた。催涙弾の直撃による失明、頭骸骨折、催涙液による全身火傷、機動隊の残虐なリンチ。重傷者七十六名を含む四百名の負傷者、八百七十四名の逮捕者を出しながら、なお私たちは闘っている。

 学問とは、研究とは、学生とは、研究者とは、自由とは、人間の尊厳とは、無数の問いを反芻しながら、私たちは進みつづける。反権力・反戦闘争の連続線上で、私たちは私たちの全てを東大闘争にたたきこむ。

 今こそ私たちは所美都子を懐しむ。

 およそ人間らしさといえるものは全て丸出しにして、痛がったり、笑ったり、愚痴をこぼしたり、自慢をしたりしながら、奇妙ないい方だが、彼女もまた一歩も退かずに私たちとともに闘っているにちがいない。そう思えてならない。


 一九六六年九月―固定化してしまった、個人と反戦運動組織の関係をダイナミックなものにするためには、個人の側から主体的に行動の論理を創っていかねばならない―東大ベトナム反戦会議の設立。この第一回会合で所さんは陽気に歌うようにしゃべりまくった。率直にいって、これはまた少しつき合いきれんなあ、おばさんだか童女だかもわからんしなあ―というのが彼女にたいする印象だった。

 「若々しい顔で、両頬にわずかに上気した赤味がさしていた。笑うと前歯の一本欠けたのが見えた。短い無雑作な髪、丸い顔、そしてとりわけよく動く眼元」仲間の一人は、こう言いている。

 四方八方にのばした触手がそれぞれいつも生き生きと動いている。定式化されたもの、枠づけされたもの、秩序化されたものに対する本能的ともいえる反撥を核にして、そのまわりを人間の善きもの、弱きものが何重にもとりまいている。

 所美都子をだんだんと知るようになり、そしてそれ以上知ることが途切れた点で、彼女の像を表現しようとすると、このようなものになってしまう。その像は、ときには嘆声を発する硬さから、やりきれない軟かさまで様々と変化する。孤独や非情や教条に徹することによってしか自己を守ることができない人は、彼女の無防備な無定形の世界の強靭さをついに理解できなかったようだ。

                ×

 ――婦人研究者の会で彼女はつぎのように語っている。

 「研究費が手に入った。さあ、女の子を雇って、ばりばり研究をしてやるぞ」
 研究主任は張りきっている。
 そこまでは私達も文句をいうまい。
 その“女の子”が低賃金労働者の別名であることにも――。
 「しかし先生、研究費を使い終ったとき、その女の子はどうするんです?」
 「どこかよそのところを探してやるさ。どうしてもなかったら、お嫁にいってもらえばいいや」
 先生はご存知ない。その女の子がその研究にもつ情熱も、お嫁に行って彼女の青春に終止符をうつことに対する不安も、

 自然科学研究者への志向と研究生活の中から<自然科学>との絶縁が、育ってゆく。シモーヌヴェイユが高群逸枝が……。

 彼女がついに研究室を出る決意をした。これについて私たちは大変なことだと、羨望やうしろめたさをこめて考える。ややこしい論理のなかに名誉やら、人類の福祉や惰性をしのばせながら、私たちは自分の背負った、逃げこむことのできる殼をすてきれない。ヤドカリは、より良い殼があるときを別にして、決して裸にはならないという。毎日が、「大変だったのよ」という事象で埋っている彼女にとって、この私たちの大変事は、残念ながら私たちの価値基準からすると、正当な扱いをうけない。

 <彼女は、少しの難問しかないことを予感して多様な生き方をおのずと生きたんでしょうな>耳触りのよい、もっともらしい言葉で彼女の死が片づけられる。

 私たちは、この言葉にたいし、抗議したいと思う。

 私たちはそれを行動によって示しつづけるだろう。続けねばならないのである。逃げこめる殼はすべてうち砕いて、私たちは一歩でも進み出るだろう。所美都子の生き方に、私たちが近似してゆくなら、所美都子を声高に語ったり、美化したりしなくてよいと思う。そういうことが、彼女にたいする“はなむけ”には少しもならないからである。

 死者を懐しむことによって、闘いのエネルギーが与えられるなら、それは最上の死であり、いいかえれば死者ではない。

  一九六九年一月二十九日              (東大教養学部生物学教室・助手)

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