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茅野寛志くんへ 怒り・執念・焦燥・絶望
「6・15 死者との対話」
『アサヒグラフ』朝日新聞社19690620号

最首悟

 茅野さん。

 あなたが死んだことについて、ぼくは小骨が喉につき剌さっているような感じから抜けきれないでいます。安保の年の八月、ブントの中がガタガタで、あなたはいよいよ忙しく、また喘息がそれに比例して、ひどくなってゆくのに対して、ぼくはプレドニンを使うようにしばらく前から薦めていました。

 けれど、あなたはなかなか使わなかった。一つにはプレドニンが大変高かったことと、結核再発の危険性への考慮があったためですが、何よりも喘息持ちには、それぞれの習慣やきまりがあり、プレドニンがそのなかに入っていなかったからです。

 アドレナリンやメジ・ヘラーや坐薬の使用量がすでに限界にきているのに、プレドニンを使わないことにイライラしていたぼくは、ある晩とうとう強引に、のませた。翌日あなたは日記にこう書いた。

 「(昭和三十五年)八月十二日風強し。一日中ねて過す。プレドニンが効いて、大分楽になった。のんびりと本を読む。姫岡の自己金融論が否定された。その欠点の一つは、実証性の欠如。他に認識論的穴はないか?」

 それからあなたは三池にいくんだと言い出しました。この体じゃなあ、三池はあきらめるよといっていたのを忘れて。

 いや忘れてというより、少しでもよくなれば三池へ行くことは自明のことだったのです。もちろん、決定にあなたが加わっていたからですが、あなたはこう書いています。

 「八月二十五日、午後T・L(戦術会議)。三池動貝について徹底的な討論。全力投入を決める。夜、学S(東京都学校細胞代表者会議)総会に出て、強力な政治局、書記局グループと本郷を相手に徹夜で激論し、ついに反対案を通させる。責任は重いが、東C(注・東大数養学部)の連中は自信を持った。愉快だった」

 結果として、おくれて三池にゆき、三池から帰りついたとたん、あなたは死にました。プレドニンのせいではないのですが、それでもなまじっかのませたばかりに、というぼくのおもいはどうしても去らないのです。

  孤独な喘息との闘い

 茅野さん、みじかい交友でしたが、あなたとぼくは、まずお互いに喘息であるということで結びついていたと思います。

 喘息は不思議な病気です、一人一人性質がちがいますし、自分で経験的に築きあげてきた喘息の処置の仕方も千差万別です。そして背中をたたいて介抱してくれる人に対してさえ、内心ではお前がいるために部屋の酸素がうばわれていると、憎悪の念を持つ病気です。

 もし喘息患者同盟という組織をつくったとしても、喘息ということでは結びついているが、一人一人は全くの孤独であるというようなものになるでしょう。

 二人で、有名人の名をあげて、あれも喘息だ、これも喘息だ、と列挙したことかありましたね。そのとき、ゲバラの名は出てきませんでした。ゲバラが喘息だということをあなたも多分知らなかったためでしょう。

 あなたの遺稿集を出すとき、ぼくたちはずいぶん議論しました。特に日記を公開することについて。

 ぼくは、最初の自家出版のあとがきに、「安保闘争を背景として、闘病・学生運動・学問を、両立どころか三立させようと最後まで頑張った一人の学生をただ知ってもらいたいのだ」

 と、書きました。

 闘病をまず第一にもってきたことに、駒場の三年目の主目標をあなたの遺橋集を出すことにおいたぼくの執念らしきものがこめられています。

 宮原昭夫さんは、まえがきで、 「この日記のまことの内容は、実は寄せては返す波のようにさいげんもなく反復される同じ記事、つまり発作の記事の果しない連なりの主旋律をバックにして、はじめて理解されるのだ」

 と、書き、ぼくの気持を表現してくれました。ちなみに宮原さんの小説家としての地歩も、いまや定まりました。

 でも茅野さん、ぼくは自明として書いた、そしてあなたにも当然、自明としてあった学生運動と学問の両立が、現在まさに問題とされ、大学で、あなたには想像もできないだろう激しい闘争がおこっています。

“明るい地獄”の状況

 あなたは三十二年の冬、「指導者の中には、自分達が学生の上にたつものであるとの意識が強く、自分も学生であることを十分にわきまえていない人がいるのではないか」

 また別のところで「学生の本分は勉強にある」と書いています。

 前者の指摘は、現在ますます意味をおびてきていますが、そこでいわれた学生という存在が、後者とのつながりにおいて、規定され、完結しています。学生の本分、学問する意義、真理の追求は、私たちの設問のラチ外にあり、それはすなわち、それらが日本資本主義構造のなかにかたく組みこまれてはいなかったことを意味します。

 その後の日本資本主義の動向は、安保条約改定以後、池田政府の高度成長政策として、教育と科学技術政策に特に力点がおかれ、ほぼ十年たった現在、大学は資本主義社会を支える重要な構造の一つとなりました。

 学問といい、真理の追求といい、お釈迦さまの掌の上の孫悟空でしかなく、いくら走りまわっても、「すべてこの世は明るい地獄」的な状況をおびてきました。学問といわず、反体制運動そのものが、存在することによって、日本資本主義の潤滑油と化しているのです。

 学生たちは、この状況を突破しようと、いま悪戦苦闘しています。そして悪戦苦闘の場が大学であることは、必然です。当分、闘争が勉強であり、闘争が研究である状態が続くでしょう。

 あの当時のくるみ会(駒場寮で結核予後の者が入る)のぼくらの部屋の最年少者が、博士課程三年になり、安田講堂にたてこもって逮捕されるという事態は、ほんとうをいって十全に把握しきれるものではありません。やっている本人が、ぼくも含めて、心のどこかで驚いているようなところがあるのです。

 でも、安保条約改訂をどうしても阻止しなければとぼくらが国会にとびこんでいった時も、同じだったろうと思います。

 茅野さん、ぼくは、自分でやっていることに自分が驚く、そのような人間というものを何とかしてつかみたい。理性と狂気、神性と獣性などとオツにかまえている問題ではないと思います。

 あなたは、砂川、勤評、警戦法と続くなかで、ゆっくりゆっくり歩き、共産党と共産主義者同盟を丹念に冷静に比較してブントに入り、ブント崩壊期にあくまで実践行動を主張しつづけた。ぼくみたいに、オルグされ、入らないことの理由が探せないのにイラ立って、ヤケクソにエイッと入ったら、ブントは崩壊していたのとはちがいます。

言葉のない日記の意味を

 あなたが生きていたら、どのように行動し、どのような問題意識をもつだろうか、とときどき考えます。ただあなたが〈学問〉に専念している像だけは、どうしても思い浮びません。あなたの日記で最も迫力のある部分は、六月十五日からの言葉のない一週間です。

 「六月十五日 国会突入、十六日午前三時過帰寮。六月十六日国会デモ。六月七七日 国会デモ。六月十八日 国会包囲座り込み、泊り込み。六月十九日午前国会デモ。零時、安保参院自然承認。六月二十日 国会デモ。六月二十一日 スト支援、東京機関区泊り込み、友好的。六月二十二日四時(午前)品川を出て帰校、国会デモ」

 あなたと共に行動した一人として、樺さんのことさえ書いていないこの部分に、ぼくたちの怒りも、悲哀も、憎悪も、執念も、諦念も、焦燥も、疲労も、絶望もみんな書いてあるような気がするのです。

 エセ前衛は、教訓を学べ、などといとも簡単に言い、その舌の根のかわかないうちに過去をふりすてますが、あなたも生きていればそうするであろうように、ぽくは、この原体験にまだまだかかずりあわねばならないと思っています。

 (東大教養学部生物学科助手)

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