月刊「遊歩人」2009年6月号所収 最首悟 ひとり芝居「天の魚」は、砂田明によって、一九八〇年二月浅草木馬亭において、勧進 興行の初演がなされた。以後一九九三年に砂田明が亡くなるまで、勧進興行は五五六回に及んだ。水俣病の最多発地の水俣市袋に生類合祀の乙女塚を建立する勧進であった。その初発の心を砂田明は次のように記した。 「六〇年代末、学園紛争を通して全共闘がつきつけた『自己否定の論理』を、当時学校講師としてわが子ほどにも年の違う若者相手に演劇を教えていた私は、我が身へつきつけられた刃と感じました。そのあとの出口さがし、悩み、迷い、妄動する時期がなかったら、私は水俣病に向き合えなかったと思っています。――真の劇は、あらゆる粉飾をはぎとられた人物が死ぬよりつらい生のただ中に在ってどう行動するかを見るものです。――私たちはオイディプースたりうるでしょうか。――私はオイディプースのもはや王ではない。うしろ姿に、「自己否定―回帰―出立」という人間的自立の原型をみようとしているのです。」(『祖さまの郷土 水俣から』講談社、一九七五) 「死ぬよりつらい生のただ中」がずしんと堪える。「天の魚」は二〇〇六年「水俣・和光大学展」で、弟子の川島宏知によって再演が試みられ、模索しながら、今回は岡村春彦の演出で、東大駒場寮跡地の駒場小空間で五月一三〜一五日に三回演じられた。「天の魚」は、口を大きくあけた仮面をつけて行われる。今回はその口が大きくなり始め、入り口として出口として存在感を際立たせてくるように思われた。一人息子は水俣病になり、孫は胎児性水俣病、その母は家を出て行った。自らも水俣病を病みながら、一家を背負って、死ぬに死ねない老漁夫が、訪ねた石牟礼道子に、姐さん、姐さんと呼びかけながら、縷々心情を語ってゆく。観ているうちに次第に大きくあいた口から〈いのち〉が噴き出されてくるようであり、覗き込むと茫漠たる虚空がそこにあるかのようである。 空空たれば 漠漠たれぱ 口あけている 生きたい生きたいという凝心を文字にしたような析笠美秋の句である(『君なら蝶に』立風書房、一九八六)。東京新聞のデスクをつとめ、筋萎縮性側索硬化症で体の動きを奪われた。もう一つの絶唱。 見えざれば霧の中では霧を見る 霧は〈いのち〉の分有である。分有とは〈いのち〉の働きと姿を言う。〈いのち〉は見 えず、空々漠々の世界にも充満する。分有は偶有ともいえ、原子分子から石ころ、水滴、山川草木、波がしらまで、生きとし生ける偶有なのだ。天もそうである。 祈るべき天とおもえど天の病む 石牟礼道子句集『天』(穴井太編、一九八六)の粋となる句で、「死におくれ死におくれして彼岸花」と「三界の火宅も秋ぞ霧の道」に前後をはさまれている。〈いのち〉はすべてを抱え、分有・偶有の前身後身は気配たちとしてそこらじゅうを埋めている。分有・偶有の華やぎ、愛しさから哀しみ、悲惨の極まで、一つ一つないがしろにはできない。一方でそれは誕生から死までの〈いのち〉の短い相であることの弁えや、分有としての「いのち」をかける大事があるやなしや、思いを深めることがうながされているのだ。 今回の、「天の魚」駒場公演の企画運営の代表を務めるにあたって、もろもろの思いや歴史が渦巻くのだが、その最奥には〈いのち〉がすべて、すべてが〈いのち〉がほのかに灯っているような気がしている。一九五九年暮れ、私は駒場寮に入った。それは水俣病の第一の幕引きが行われる時と重なっていたが、私にはついぞ水俣病は頭になかった。一九六八年巨大墳墓の石蓋がついに開いて、埋め込まれていた水俣病罹災者が行動し始めた。その時、私は助手という身分で、駒場構内の第八本館に学生七五名と閉じこもっていた。東大教養学部は「一般教育」を掲げる新制大学のシンボルであり、専門学部と一線を画し対抗する存在であった。旧制一高から、その鼻もちならない気風も受け継いだ駒場寮は、鼻つまみ的匂いをまき散らしながらも、「一般教育」の内実を支えたといってもよい。「一般教育」はその推進者であった上原専禄の言に見られるごとく、その中心において、侵略戦争の反省を込めて、〈いのち〉観と〈いのち〉感覚を養おうとした。「マッチ擦る つかのまの海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや」。一九九一年「一般教育」は廃止され、二〇〇一年駒場寮は、五七〇名の警備員と教職員が学生を追い出し、打ち壊された。 今年は水俣病第三の幕引きが策されている。駒場寮跡地での「天の魚」はひとしお、止 むに止まれぬ「いのち」を吐き出した。 |