ARCHIVE

石牟礼さん さようなら

2018/2/15
最首悟

石牟礼さん逝く。ことばにならない思いと、ことばになる思いと、ことばにしたくない思いと。ことばになる思いとは、安倍首相の「水俣病は克服した」に対する怒りである。2013年熊本市で開かれた「水銀に関する水俣条約外交会議 」での発言である。「福島原発(炉心溶融)はアンダーコントロール」の発言とともに許せない。

ことばにしたくない思いとは、「許せない」と言ったからには、まず、少なくとも、それに伴う「何かすること」を表明する責任が生じているはずで、では何をするのか、何をしてきたかというと、忸怩たる思いや言い訳ということになってしまう、そういうことは書きたくない、書いたって恥の上塗りだということである。すでに呉智英から「職業的恥知らず」と言われて、それに乗って生きてきたので、いまさら、恥の上塗りではないのだが。

そもそもが、「許せない」と言えた義理か、ということがある。水俣病には被害者か、加害者しかない、第三者とか、無関係だと思う者は加害者なのだ、という趣旨の、宇井純の痛烈な言葉を浴びざるを得ないとすれば、私は加害者なのだ。庶民と知識人という対比で言えば、私は本を読み文章を書く知識人であり、自然科学研究者でもあった。自立とは大衆(庶民との同・異)の原像を日々取り込むことだ(吉本隆明)もついに消化できなかった。

1980年代半ば、「不知火グループ」(映画「阿賀に生きる」の佐藤真による命名)が発足した。勤め人や主婦や学生や研究者が、いわゆる最首研究室(東京大学教養学部)に集まり、「水俣なんて知らない(不知)グループ」と自らも揶揄するような、水俣病における自分の立ち位置を問う支援グループであった。年に一回出す会報の名前を「動かぬ海」とした。石牟礼さんの「海はまだ光り」(『思想の科学』86年6月号)から、出典を添えて無断借用した。

 田舎と都会のありようは、おおよそ百年くらい離間し、容易につながらぬ亀裂をつくったと云ってさしつかえなさそうである。……離間と亀裂を、知識人と庶民の間のこととしてとらえてもよいのではあるまいか。双方の最後衛地、動かぬ海という原郷が私のテーマなのだ。たとえ致死的な毒を注入されたとしても、動くことのできない原郷とは、文明にとって何なのだろうか。

庶民と知識人の双方の最後衛地としての「動かぬ海」が、致死的な毒を注入されても、そのままそこに居て、そして天につながり、

 祈るべき天と思えど天の病む

なのである。

動こうとしても動けない「動かぬ海」の苦悩はどれほどのものか。庶民の苦悩、知識人の苦悩と分けて、庶民の苦悩には知識人の苦悩は入る余地がないとして、しかし、知識人の苦悩には、庶民の苦悩が大きく割り込んでいる、いや、割り込まねばならぬ、とされても、さて、私は苦悩する柄か、苦悩できるのかが問題なのであった。佐藤真は死んだ。それが不慮の死なのか、発作による死なのか、苦悩の死なのか。

 人間にとって、世界を意識することは、すなわち苦しむことである。苦悩とは、経験的にいっても、可能性という点からいっても、人間の存在の不完全性を意識することである。現実世界における人間の生は不完全な生であり、したがって、人間が現実の世界における自らの生を意識するということは苦悩につながる。そして、科学的知識もまた概念的抽象化という方法によって、われわれが生を意識する過程として苦悩につながるのである。
 ハンス・J・モーゲンソー『人間にとって科学とは何か』(神谷不二監訳、講談社現代新書1975年)

神、完全性を思い定めた苦悩である。不完全であることの苦悩は私にはない。しかしなのか、しかもなのか、私は「君はクリスチャンに決まっている」というフレーズを抱えて生きている。先生と呼ぶ人を最低一人は持たなければいけない。そういうふうにして、私は西村秀夫さん(亡くなるまで最首塾に来られた)を先生としている。その先生が私に言った言葉である。言われたから先生としているのか、先生の言葉だから、払いのけられないのか。

水俣支援とは。その問いをめぐって、「動かぬ海」への道のりとして、私は「石の上にも三十年」という滑稽さを東大駒場の部屋で過ごし、縋るようにして、娘の星子のそばに40年居着いて来た。そして心情は、石牟礼さんの世界に登場する神々の一人、おろおろ神に託した。

 何の解決もできないという点では(悶え神と)同じなのだが、身を持て余して右往左往して、いい加減やめたらと言いたくなるのがおろおろ神である。悶え神はやっぱり世の苦しみを引き受けている。おろおろ神はそもそも苦しみを引き受けるどころか、苦しみの程度もわからなくてサレきまわっているのだ。サレくとは漂う、うろつくという意味である。オロオロとは心情的だけでなく、心情が身の動きに出てきて、じっとしていることができない。事態をどうするのかと、事態はどうなっているのかが絡み合って、オロオロしてしまう。
 最首悟「おろおろ神」『「痞」という病いからの』(どうぶつ社2010年)

 運動らしきものの起こってくる時に立ちあい、そのような、魂たちのいるところになんとかいざり寄るべく、かかわりうるかぎ力の人間関係の核の中に、わたくしはしどろもどろの秘かな志を織りこみ埋めこみ、護摩を焚くかわりに、ことばを焚いてきた。  ことばが立ち昇らなくなると、自分を焚いた。
 石牟礼道子「じぶんを焚く」(『展望』1971年7月号)

引用するだけでもおそろしい。そして、この文を見ることのない庶民と、この文を見ても生活を変えない知識人の間の中間層ということを思う。何か大変と思っても、その大変さを突き止めて、深めてゆくことをしようとして、もどかしくも足踏みし惑う中間層である。追い打ちをかけるように、石牟礼さんは書く。

 狂えばかの祖母のごとく縁先よりけり落とさるるならんかわれも
 この祖母も祖母の怨恨の元凶であった祖父の臨終もわたしが看取り、暫くするとこんどは弟が、精神病院から帰ってすぐに、汽車にひかれて死んだ。私の家系には狂死が多いのである。
 後年、凄惨きわまる図絵が繰り広げられる水俣病事件史の中をゆくことになった。その経過の中で窮死した父を含めて、このものたちの微笑に、わたくしは導かれていた。その生と死をふたたび生き直しながら、自分の中に狂気の持続があることを、むしろ救いにも
感じていた。
 石牟礼道子「あとがき」『潮の日録 石牟礼道子初期散文』(葦書房1974年)

昨年、和田周の演劇論の「賛」を書いているとき、ひょっと「別れが消えた」と書いた。生死の境目がはっきりしなくなった、という情態である。「さようなら」が、原義の「さようであれば」になったということか。

石牟礼さん さようなら

もどる