カルトとかオカルトという言葉が、いま、新聞紙上やメディアで多く載っています。カルトとはセクト、党派のことです。オカルトは、目で見たり、触ることができない出来事を言います。160年代末にノンセクト・ラディカルという言葉が使われました。過激無党派という意味ですが、ラディカルには根を掘るという意味もあり、無党派根ほり派と呼ばれます。わたしもその一員とされましたが、わたし自身も当たるとも遠からじと思っていました。
フリーラジカルは化学用語で、遊離基と言います。他の原子基と結合していない不安定な原子基です。原子基はいくつかの原子が結合して一つの機能をもってているのですが、人間でいうと、一匹狼とか孤立無援とかがあてはまります。そんなにおおげさでなく、徒党ではなく一人で何とか頑張るのだ、というふうに私は思っていました。
脇道にそれました。オカルトは超常現象や神秘体験,奇跡などを意味し、どうしてそのような事がおこるのか、説明できない、わからないことを指して言います。2008年に亡くなったライアル・ワトソンは、動物学者ですが、精力的にオカルトに取り組み、多くの著作を残しました。日本にも来て、相撲の本を書いたり、日本は礼節の国だという印象を述べています。ス-パー・ネイチャア(超自然)という言葉を造語し、その題名の本(1973年)は世界的なベスト・セラーになりました。その後の『生命潮流 – 来るべきものの予感』(工作舎、1982)は生命を潮になぞらえ、「さまざまな力が自然の中でうず巻き、合流して生きた本流となる。この流れが生命潮流の実質」だとしています。序文の最後を次のような文章で終えています。
解答が見つからないといって神秘主義的なまじないや神々に救いを求めたり、絶望したりすることはないと思う。私はかえって矛盾に充ちたわれわれの自然界に対して強い誇りをもつ。昔から疑問のあった問題に対しては、新たな、より有意義な問いかけをする決意を抱き、われわれが神秘に充ちた奥深い宇宙の一部であるということに変わらぬ驚嘆と歓喜を感じるのである。
ちょっと引用が長くなりましたが、わたしの解釈を足すと、なんとこの宇宙や生命はすごいことか、わからないことは当たり前として、その上で問いかけをあくことなく続けよう、と言うのです。『生命潮流』の最初は、ワトソンの『超自然』を読んだヴェニスの父親から手紙が来たという話で始まっています。
五歳の娘が前代未聞のことをやり始めたので一度来て見てほしいというのです。実際に見たのは、その子がいとおしげにテニスボールを手に取って、やわらかくポンと叩くとテニスボールがひっくり返ってしまったことです。ワトソンがナイフでボールを切ってみると、裏側はけば立った黄色の表面でした。切れ目のないボールが一瞬で裏返ったのです。
起こり得ないことが起こる。そのことを目の当たりにする。そのことを何と名付けるか。私たちは奇跡と呼ぶことから抜けられませんが、ワトソンは、それを生命潮流の現れとし、このテニスボールを一種の象徴としました。「生命に対する新しいもうひとつのアプローチの顕現、もう一つのものの見方」なのです。
ワトソンは、無限に伸縮する空洞の球の証明に成功したフランスの数学者を紹介しています。そしてこの数学者が盲目であったことに、「一種の本来の詩的な正義ともいうべきもの」を感じざるを得ないと述べています。言おうとしていることは、物質を構成する極微の素粒子を扱う量子力学では、客観的な観測はできず、観測する人の望み、つまり主観が観測結果になってしまうということを踏まえて、主観の現実化という詩や芸術の世界の現実とのつながりです。
これまで人間が、そして異能の人が表現し、造ってきたものは、実際に居て、あるのです。居るとは場にあることです。場とはいのちの場です。ふつう、事実とは、因果関係がたどれる証拠があって、関わる人と直接の関係がなく存在しているものごとを指します。それはいのちの場のなかでの特殊な小さい領域ではないかと思われます。今年は水木しげるの生誕100年の年です、NHKでも特集が組まれましたが、生誕八十八年記念出版の『屁のような人生』(なんと厚さ4センチ)という漫画が主の本を見ていると、『のんのんばあとオレ』と合わせて、水木しげるが、子どものときから、その世あの世の住民と一緒だったことが伝わってきます。そしてワトソンの言う、いつも不確かなものに触れているコンティンジェントという力を意識していたと思われます。コンティンジェントはワトソンの造語で訳語はありません。