返信1:わからないこと(最首悟、2018/7/13)

序列をこえた社会に向けて

手紙をもらいました。いくつもわからないところがあります。わからないといっても、自分で解くしかないものもあります。解釈が複数ありそうなものもあります。さしあたり、返事を用意するにあたって、たしかめないと、書き進められない箇所があります。次の個所がそうです。

「心失者と言われても家族として過ごしてきたのですから情が移るのも当然です。
最首さんの立場は本当に酷な位置にあると思いますが、それを受け入れることもできません。」

「酷な位置」とはどういう意味だろうか。同情にあたいする事情なのだろうか。非難すべき立場なのだろうか。

面会は、これから返書を送るという挨拶と、返事を書くにあたって、たしかめたいことがある、その第一は、この箇所の意味だという、趣旨というか主旨でした。

実際は同行の記者によって、質問がなされましたが、その応えは以下のようでした。

「大学で教え指導する身とあろう者が、年金を食う、IQ20以下の心失者と一緒に暮らすとは、いかにも酷い。」

「IQ20以下」は、わたしの書いたものの関連で得た情報かもしれない、と思いました。それは、J・フレッチャーの「人の基準」の第1項目で、「最小限の知性。スタンフォード・ピネー式知能検査で四〇以下、またはそれと類似したテストで知能指数四〇以下、は人間であるかが疑わしい。二〇以下は人としては通用しない。」(1971)です。

「通用しない」と、どうなるのでしょうか。そういう可能性をもつ人の出生を阻止する、社会から隔離する、合法的な手段で死を与える、というようなことが考えられます。人が体力的に知的に次第に優秀な者になっていく、そのように努める、それにはどうしたらいいか。そのようなテーマを深め、役立つ手段を考え、研究する学問を「優生学」といいます。そして学問といわず、そもそも学問の結果として、あるいは学問のそもそもの下地として、一般の人々が抱く、そのような考えを「優生思想」といいます。

「大学」というエスタブリッシュメント(権威ある体制)は優生学、優生思想の批判も行います。しかし、大学の存立基盤、大学のよってきたる所以は、そもそも優生思想なのだという指摘が大学内外にあります。「選抜」「選良(エリート)」は優生思想に発しているのです。

「障害者」という名前、呼び方も優生思想に発しています。ふつうの社会人ではなく、なんらかの処遇、保護、隔離、介護を要する人です。広義の障害者には、「脳死者」も含まれます。脳死者の心臓は機器によって動かされていますが、脳死者は死体です。ただし脳死は死と決めた限りにおいてです。どうしてそのような規定がなされたかというと、心臓移植によって助かる人がいるからです。このことの連想、類推から、健康な重度の障害者も臓器を提供することで役に立つという考えや、単に死ぬということでも貢献できるという思いも生じるでしょう。

優生思想は本能に近いという人もいます。生存本能です。社会的には、合理的で、現実的、能率的な不適者排除です。「働かざる者食うべからず」は近代社会の鉄則です。日本では20世紀の後半から終わりにかけて、それは別の言い方で表現されました。「情けは人のためならず」です。「情けをかけるとその人のためにならない」という解釈が過半数を超えたのです。

大学は優生思想の上に立っていて、「より高くより速くより強く」を研究し、教え、指導する。その教員が優生思想を批判したり、あまつさえ自分の子どもとはいえ、劣悪者を育てているとは酷くないか。

みんな優生思想を内心でもちながら、社会的には強制不妊などを告発したりして、国家賠償を請求したりする。無能者を保護する、その偽善、矛盾が千兆円の借金となり、社会を行き詰まらせているのだ。

こういう主張は社会の現状に対するプロテスト、抗議でないとはいえません。世迷い言として無視するわけにはいきません。

ではわたしはどうか。本当のところ、わからないのです。そしてわからないからわかりたい、でも一つわかるといくつもわからないことが増えているのに気づく。すると、しまいにはわからないことだらけに成りはしないか。そうです。人にはどんなにしても、決してわからないことがある。そのことが腑に落ちると、人は穏やかなやさしさに包まれるのではないか。そういう営みを「問学」とする。

面会では、わたしは「問学」をやっていると自己紹介しました。

次信以降、人権とか、人ではない人間とか、問題はひろがっていきますが、さしあたりは心失者という人間がいるかどうか、という問題に取り組みます。