心ない言葉とは。つれない言葉、態度を連想します。つれないとは冷淡、無情という意味ですが、もともとは連れがないという意味で、関係がない、変わりないということのようです。芭蕉の「あかあかと日はつれなくも秋の風」を思い出します。変わらず無情にもと思われる酷夏にも秋がしのびよっているのです。
もうひとつ、心のこもっていない言葉という意味では、その場の事情にかかわりなく、機械的にいう、マニュアルどおりの言葉というのがあります。
その場の判断ができない人、空気が読めない人を無神経な人と言ったりします。でも神経がないわけではないのです。それとおなじで、心ないといっても心がないわけではありません。では心がないということはないのか、というと急に話が複雑になってきます。それは、人間以外のものに心はあるかと思う時からはじまります。
「心失」は心を失う、心が失われる、という意味かと思われますが、そういう言葉はなく、たぶん新語です。では失心はどうか。ふつうは失神といい、失心はまちがって使われた可能性があり、まず使われません。失神とは、正気が一時的に失われた状態で、脳神経に支障をきたしたことで起こります。
脳神経は意思疎通にかかわって、表現手段の役割を担います。脳神経のはたらきがほとんどなくなる段階では、表現は単純になり、ひそかな、ほのかなサインになります。おむつを替えるとき、ひそかにお尻がもちあがる、問いかけられてまぶたがほんのすこし動いた、顔色がほのかに赤くなった。これらのサインは接する人ほとんどがうけとることができます。そして、お尻が持ち上がる気配がしたとなると、見過ごす人が出てきてきます。
さらに、何のサインもない、気配もない状態で、心が通じるということが起こります。それは錯覚で、思い過ごしや願望にすぎないという見方もあります。それはあるさ、と人は思います。でもそれだけじゃない、と人は思います。人と書きましたが、これは支えあう二人の形を表した字で、人の単位は二人ではないかと思わせる字なのです。
もう一つ、同じ場にいることが大事という意味をもつ、人間という言い方があります。場という考えはむずかしいのですが、引力が伝わるということを考えると少しわかったかのような気持ちになります。物どうしに互いに働く引力はどんなに離れていても瞬時に伝わります。それは場を通じて力が働くからです。それと同じように、心は場を通じて通い合うとすると、心は通じ合うという直観に一つの説明を与えることになります。
お互いに人間だと思う人が二人居て、一方の人が表現手段をまったく断たれたとき、もう一方の人が心に感じることのなかに、相手の思いが混じっていて、交じっていてといった方が適切だと思いますが、しかもそのことを意識しないで、自分の思いとして、ああ、この人はいま抱きしめてほしいと思っている、などと思う事態が起こるのです。いや、起こらないとは限りません。
人間は表現手段を100パーセント失われても、それで心がなくなったとは言い切れないのです。ただ、心が離れた、離脱したという意味で心がなくなったという場合があります。「心」という漢字は心臓の形象ですが、和語の「こころ」の始まりは、胸のあたりを指していう「ここのところ」だという説があります。死ぬと心は離れていくというのも根強い考えですが、いつ離れるかというとはっきりしません。さらにそこから先は、いろいろな説があります。大いなる心へ還っていくというのも一つの見方です。
結論的にまとめると、心失者という人、人間はいません。心失者のような人という言い方は可能です。ではどのような人か、ということを次に考えたいと思います。