心失者という、すなわち、心を失った人という人はいないのではないか、について書きました。そして、では、「心失者のような人」とはどういう人か、考えてみる、ということになりました。
ところが、心失者は、〈はじめ、「化け者」と呼んでいた〉のだが、それでは〈遺族を傷つけるという配慮から考えた言葉〉だということで、「心失者のような人」について考える前に、「化け者」について考える必要が生じました。
「者」を「もの」と読む場合は一般的な人を指します。「しゃ」と読む場合は、特定の人の意味になります。「物」は「もの」と読んでも、「ぶつ」と読んでも、意味する範囲はひろく、例えば「人物」は人なのですが、「鉱物」や「好物」、あるいは「食べ物」は明らかに人ではありません。
では「ばけもの」はどう書くでしょうか。「化け物」であって「化け者」とは書きません。ただ、「化け物」の「物」はいろいろな「もの」であって、「者であって者ではない」という複雑なニュアンスも抱えることにもなります。
化け物は人の場合、理不尽な扱いを受けて死んだり、すさまじい殺され方をした人が恨みや憤怒の気持ちを表し伝えたい、ということで出現する変化(へんげ)の姿を言います。姿だけではなく、触れられて、その冷たさにぞっとする場合もあります。姿は実体がない場合があり、例えば影がそうです。影は実体・本体が動けばそのように動くものです。 ところが、本体は動かないのに影が動くということを、人は想像したりするのです。「旅の夜風」という、映画(「愛染かつら」1938)の主題歌(西条八十作詞)があります。その歌詞に「男柳がなに泣くものか/風に揺れるは影ばかり」とあります。そのように言わざるを得ない、あるいは、そのように言い表したい人の気持ちというのがあるのです。西城八十は映画の主人公の男の心情をそのように思いやったのです。
化け物や幽霊はすべての人に見えるわけではありません。身に覚えのある人に姿を現すのです。「身に覚え」のなかには、化け物や幽霊が頼る、期待する事柄も入っています。つまり、直接危害を加えた人のほかに、仇を討ってほしい、恨みをはらしてほしい、と頼める人にも姿を見せるのです。
化け物には妖怪が含まれます。妖怪となるとお化けと言います。水木しげるは、妖怪は千種類という説を唱えました。愛嬌のある妖怪、お化けも多く、子どもたちを対象とする妖怪ウオッチでは、悪さをする妖怪はいません。
すこしばかり化け物について述べました。生きている人を化け物とはふつうは言いません。そして化け物を殺すという言い方は失当です。あてはまりません。化け物はそもそも殺せないのです。実体ではないのですから。怪物はどうでしょう。怪物とは人を指して言う場合、常人ではない優れた能力を持つ人のことを言います。
「心失者」という人はいませんが、「心失者のような人」という言い方は可能です。それと同じく、「化け物」という人はいませんが、「化け物のような人」はいるかもしれません。それは、ある人を指して、「心失者」と言い、「化け物」とする人の心の投影だからです。
ファイヒンガーという哲学者が1911年に著した『かのようにの哲学』という本があります。森鴎外は早くも1912年に、その考えを紹介し、援用しようとした『かのように』という短編を書きました。事実や事実から抽出した法則は、すべて人が考え出した虚構だというのです。事実は、事実と目されることにどれだけ多くの人々の同意があるか、によって成立するのです。
次回は「化け物であるかのような人」とはどんな人か、そのような人がいるという考えに、どれくらいの、どのような同意があるのかについて述べたいと思います。