返信4:化け物のような人について(最首悟、2018/10/13)

序列をこえた社会に向けて

化け物、妖怪は実際には存在しません。二人の人がいて、その一人が「あそこに化け物がいる」と叫んだとします。すると、もう一人が「どこに? 何も見えないけど」という。

では、最初の一人は嘘をいったのかというと、そうではありません。投影された心象といいますが、心に生じた像とか、目を閉じたときに見える像が、外に移行して、そこに確かに見えたのです。心象はその人が過ごしてきた人生や体験から出てくるので、他の人と共有することができません。それで他の人にはまず見えない、ということになるのです。もっとも手をつないで輪になって念ずると、UFOがみんなに見えるということで、話は複雑ですが。

土葬の墓地での火の玉のような、それが物理・化学現象であれば、それは共通に見ることができますが、それに尾ひれをつけるのは人の想像力によります。

化け物のような人は人です。怪物についてはあの人は怪物だといったりします。すごい能力の持ち主についていいます。野球では怪腕といったりします。怪人という言い方もあります。

化け物の場合は、あの人は化け物だとまず言いません。化け物のようだとか、化け物のような人だと言います。

どのような人かというと、火傷を負ったり、病気や怪我、事故などによる容貌や容姿が変わったり、欠損したりした人です。

どうしてそのようになったか、その原因をたどると、とても化け物のようだと思ったり、口にすることはできなくなります。それで、化け物のようだと口走ったりするのは子どもだ、という通念が生じます。子どもは自分の発する言葉が、いかに相手を傷つけるかについて思いが回らないのだ、というのです。それはそうなのだろうと思います。でも、囃し立てるとなると、相手の反応が起きるのを、それがどのような反応であるかを問わず、面白がる、ということはあると思います。

子どものすることなすことは、みんな大人の真似なのだといわれます。そうだとして、その上で、大人は子どもの性質を受け継いでいるともいいます。あるいは人の本性の根幹部分はずっと保持されるともいいます。

その根幹の一つとして、好奇心が挙げられます。好奇心は変化と連動しています。「ゴドーを待ちながら」という戯曲があります。いずれ触れる機会があると思いますが、そのゴドーを変化に替えて「変化を待ちながら」過ごすのが人である、といえそうです。何かちょっとしたことでも笑うのは赤ちゃんの特性ですが、それは感性の瑞々しさの表れなのだといわれます。

子どもは変化を待ち、変化を求め、そして変化を起こそうとします。漠然とした好奇心を一つの具体的な疑問にしようとするのだともいえます。「なぜ?」が独立すると、面白いゲームの一つとして、親にたいする執拗な問いかけが始まったりします。親は音を上げて「神様の思し召しだ」とか「いい加減にしろ」とか「自分で考えろ」とか怒鳴ります。大事なゲームです。小学校の算数の時間などで、「わかりましたか」と先生にいわれて、「はーい」と答えながら、わかっていないんだけど、とつぶやくのと同じくらい大事なことです。

箸が転んでも笑う年頃といいますが、赤ちゃんからハイティーンまで、なんであれ変化が起こることが好ましい、それで待つばかりでなく、変化を仕掛けてゆく。いたずらもその一つですが、なかには、子どもは残酷だと規定されるような振る舞いもあります。また変化が起こるまで仕掛け続けるということも起こります。いじめはその最たる振る舞いです。

ただ子どもの残酷さには、あざけりや蔑みの気持ちは基本的にありません。アリを平気でつぶしてまわるというのも、動かなくなる変化への興味が主で、殺しまわっているわけではないのです。では大人の場合はどうでしょうか。次回の返信では、嘲笑や蔑みの前段階の、不快だとか、報いだとかいう、気持ちや考えについて述べたいと思います。