自分のことは自分がいちばん知っている、と誰しもそう思います。お前は自分で自分のことがわかっていない、この親がいちばんわかっているのだ、と言われるとカチンときます。まして先生や上司、大人に言われると、反発は強くなりましょう。どうしてそう思うのでしょうか。ひとつには秘密ということがあります。鶴見俊輔という有数の知識人は、「わたしの秘密は神にも知られない」と言いました。神はお見通しという、相当に強い通念に立ち向かう、というか、複雑多様な個人の唯一無二性を言いたかったのかもしれません。
ひとに知られない秘密があるとして、では、わたしが知らないわたしの秘密はあるのでしょうか。もうすこし広げて、わたしが知らないわたしについての記憶というのはあるのでしょうか。ある、ということが示されました。
ぺンフィールドという脳神経外科医が1933年、てんかんの治療の開頭手術の際に、女性患者の脳に電極を当てて、電流刺激をしました。すると、あ、川のほとりで男の人と会っています、と言いました。別の箇所を刺激すると、今度は、ああ、「田園」が聞こえると言いました。前者は、家族がそういうことが実際にあったと証言しました。後者はベートーベンの第六交響楽ですが、多くの人が、ああ、と思う主旋律が聞こえたのでしょうか。トスカニーニという指揮者は、頭の中の総譜にしたがって指揮をする、と言ったそうですが、オーケストラの音が全部頭の中で聞こえてタクトを振る指揮者もいるかもしれません。
ペンフィールドの試みは、自分では全く覚えていない記憶が、何らかの手段やきっかけで蘇ることを示しています。すると、わたしたちの脳には、見たり聞いたりしたことがすべて記録されているのかもしれない、という考えも生まれてきます。そしてさらに、記憶はそのような記録のほんの一部ではなのか、という思いも生じてきます。わたしたちの意識は、五感で感じ受け取る現在の外界の情報と記憶が組み合わさっていますが、意識に浮上してくる記憶はほんの少しなのではないか、ということです。
わたしたちは、夢を見ます。うなされたりします。金縛りにあうということもあります。フロイトは夢をいろいろと調べて、わたしたちの意識は氷山の一角だとしました。海面に表れている氷山は全体のごく一部分なのです。つまり、私たちの意識は、どこか深いところ、深層にある膨大な無意識のほんのすこしが表層に浮上してきたのだ、というのです。そして無意識が人を支配していること、無意識は思い出したくない嫌な記憶を押し込めたものだとしたのです。フロイトに続くユングは、無意識は個人の押し隠した意識だけでなく、人に共通の太古からの歴史的な集合的な堆積もあるとしました。
わたしたちが考えたり行動したりするおおもとの根拠は、わたし特有の無意識と、わたしの育った風土がかかわる無意識、さらには人類一般の無意識に基づくというのです。この考えにわたしたちはどれくらい愕然とするでしょうか。一応の答えでは、わたしたち日本列島人はあまりびっくりしません。しかし西欧人となると、大変なショックだったといわれます。ダーウィンの進化論(1859)は、類人猿と人類の連続性を指摘して、身震いするほどの衝撃を西欧人に与え、いまでもその考えの拒否が続いてます。フロイトの無意識の支配の指摘はそれに続く大きなショックでした。
西欧では、自分について、理性的な尊厳ある自律(自立)した個人という考えが、普遍的な絶対神への信仰のもとで、人は神の似姿という考えとともに、確立してきました。明晰で理性的な自己、なにものにもとらわれず合理的な判断ができる個人という、その規定が崩れたのです。
21世紀の今、無意識の問題は続いています。続いているというよりは、いっそう大きくなっているといってよいと思われます。それはわたしたちの判断や決定に際して、不安や心配やためらいを大切にして、時間をかけてそれらの思いに向き合うということをせずに、自分の思いとは切れた、事実に基づいた客観的合理的な科学的判断を重んじ、頼ろうとするからです。振り返ると、権力や権威に左右されずに自律的な個人を育ててゆくことが、科学という営みを推進してゆく大きな原動力でした。しかし、無意識の支配ということが登場してくると、個人という概念は大きく揺らいで、その立て直しのために、今度は科学の支配に身をゆだねるという事態が起きた、といえます。
そして、知は力である科学は技術と結びつき、さらにお金という力と結びついて、強大な非情な力となって、人を支配するようになったのです。権力というと、いくら非道でもなにか人間くさいところがあると思いますが、科学やお金の力となると透明で憎むなどという余地がないようです。それが今、いちばんの問題です。次回は客観という見方について述べます。