人間という言い方はたいへんおかしいです。どうしてあいだという間がついているのだろう。空間や時間、そして続いて世間というときは、ああ、ひろがりだと思います。人間も人のひろがりなのだろうか。人間はもともと「じんかん」と読んで、人の棲む場所を意味しました。人間至る処青山有りといったお坊さんがいます。人が住むところにはどこでも骨を埋めるお墓をつくる場所はある、だから大いに故郷を出て活躍すべきだ、という意味です。
織田信長が好きだったという謡曲の「敦盛」に「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」というサワリがあります。ここでは人間は人生、人世の意味で、この世に生きている間という意味です。人間がはっきり人の意味で使われるようになったのは、江戸時代に入ってからといわれます。辞典を見ると、井原西鶴の用例などが出てきます。
では人間という言い方が人口に膾炙したか、人々が使うようになったかというと、そうでもないようです。むしろ、明治になって、欧米の本がさかんに翻訳されるようになり、その際に、マンやピープルの訳語として人間を使ったという実情があります。ちなみにマンは男であり、かつ人を意味します。人を代表するのは男なのです。人類はマンカインドです。それはおかしいと女性が声を上げ始めたのは1960年代後半になります。
マンを人という意味だと受けとめる。それは妥当かというと、やはり無理があります。でも人間と訳すと、無理はさらに広がると言わざるをえません。明治期に脱亜入欧を掲げ、昭和に入って鬼畜米英、英語禁止にまで暴走し、敗戦を経て、規範、制度に近代欧米の概念や文化を大きく取り入れるという推移の中で、その無理はさらに深まっているのではないか、という懸念があります。特にアメリカの文化、生活スタイルの取入れは際立っていますが、さすがに、銃の保持となると、踏み切ってはいません。。
マン、ヒューマンは男文化を表し、個人と絶対神ゴッドが最も大事な意味を持っています。何かをしでかしてしまったとき、生き抜いてその責任を負うことは、倫理の根幹だと言えます。神から責任を問われ応えることをリスポンシビリティと言います。原義は応答です。責任とは応答責任なのです。
裁判での宣誓は聖書に手をかけて行います。今は拒否できますが、拒否すると、この人は、嘘をつくと永劫にわたる苦しみ、罰を受けるという恐怖の感覚はないのだなあ、という印象を持たれます。良心にかけて嘘はつきませんというだけでは、人は追い込まれると嘘をついてしまう、という思いが下地にあると言えます。古くは「目には目を、歯に歯を」という戒律もありました。やられたら応分の仕返しをしないと許されないという、力を振るう、あるいは振るわねばならい男という考えが下地にあります
死んで責任を取る、お詫びする、という道はないのです。ゴッドに与えられた命を自分で断つ自殺は許されないのです。人は命を全うして、生を閉じて、世界の終末において、救われるという説示をもつ宗教では、自殺という行為は救いへの道を自ら閉ざすことになるのです。
欧米語で、人を指す語を人間と訳すのは不適当ではないかという話から、ゴッドの話になってきましたが、日本でのキリスト教の宣教過程で、デウス(ゴッド)を神と訳したのはまずかったという重い反省が関係者にあります。絶対とか普遍とか万物の創造主という考えが日本の神にはないからです。絶対は永遠を意味し、普遍は不変です。そこから同一性とか一者性という考えが生まれました。同一性は英語でアイデンティティと言います。
日本でも、この言葉は、自己同一性として、よく使われるようになってきました。自分のことを自我とか自己というのですが、自我や自己は首尾一貫性を保って変わることはないと見なすのです。そのことをバックボーンがあると言ったりします。一本筋が通っているのです。それに対して、これから触れていくことになりますが、日本人は首尾一貫せず、ナマコのようだと言ったりします。ナマコには背骨がないのです。昨日イエスと言ったのに今日はノーという、それでは信用されないという見方です。
アイデンティティにもどると、絶対神ゴッドが人を創ったとき、ゴッド自身になぞらえて創ったとされ、それゆえに人は神の似姿であると言います。似姿の核心は、ゴッドの永遠に不変の同一性が人に埋め込まれたという点にあります。このアイデンティティこそが人の尊厳の証なのです。もう一つ、人格というパーソナリティがあります。これもゴッドから与えられたものです。
人間という言い方の特異性について、まだ触れるところまでいきませんでした。次回もこの続きを書きます。