「人の話も聞かないで」とか「人の気持ちも知らないで」と言います。この場合、「人」はそう言った自分を指します。一般的な人ではなく、具体的です。そしてそう言った相手も具体的な一人の人です。いま二人が面と向い合っていて、相手の態度が、自分の話していることを聞いてもいないようだと感じて、怒ったのです。あるいは、この私の気持ちを察してくれない相手の鈍感さを責めるとともに、自分の気持ちの足りなさを嘆いている含みもありましょう。
ところが「人間の話も聞かないで」とは言いません。同様に「あの人はね」と言いますが、「あの人間はね」とは言いません。「あの人間はね」というと、気安いうわさ話しというわけにはいかなくなります。人は一人を指すことも、人々を意味することも、人一般を言うこともできます。それに比べると、人間という言い方は、一人を指して言うことができないという特徴があります。
そうすると、人数でいえば、二人以上ということになり、単位ではありませんが基準ということでは二人で、孤立した人、孤人という言い方はあるものの、孤人間はいないのです。関係というと、二つのものやことの関係が基です。ですから人間関係の基準は二人の人関係です。
じゃあ、二人関係といえばいいじゃないか、といいたくなります。そうはいかないのです。二人はどうしても個別的具体的な感じが先に立つので、一般的に言いたい、となると、人間ということになります。ところが、人間の基準はそもそも二人ということだとすると、人間関係は、二人という個別的な具体的な、好きだとか嫌いだとか、あなたなしにはとか、もうやってられないとか、惹かれたり反発したりの関係から、人間という不思議な呼び方を生み出した背景や環境までを含んでいる、と言わねばなりません。
人間くさいとは言いますが、人くさいとは言いません。人間くさいとは人間性に関わる表現で、人くさいとは言わないのです。でも、人間というものは、という言い方と同じように、人というものは、といえます。
人と人間の使い分けは、複雑です。おおまかにいうと、人は日常的に使い、人間は文章や議論で使います。人と人との関係を説き明かしたいというような場合、人間関係というふうにいうのです。人関係とは言わないのです。
ところが、とりとめのない随想やエッセーでなく、前提と結論を含む文章とか、会議の議論では、論理的であることが要求されます。司馬遼太郎に『坂の上の雲』という近代日本の形成に大きく関わった三人の人物を描いた小説があります。その中に、日本人は会議や議論の仕方を知らなかったということが出てきます。いろいろなことを外国に学ばなければならず、たとえば、歩き方一つにしても、整然と歩調をそろえて歩くという機会や習慣がなく、手の振り方からして外国に学ばなければなりませんでした。
議論となるとこれは問題です。今でも私たち日本人が議論ができているかと言うと覚束ないのです。どうしてか。うまく言えるかどうかわかりませんが、まず絶対とか普遍が正しさを導く、あるいは支えるということがあります。絶対の反対は相対で、どっちもどっちというあり方です。正しさというのはどっちかなのです。つまり、イエスかノーで、中間的な妥協的な正しさはありません。白か黒かであって、グレーはないのです。
そうすると絶対ということがわかってきます。絶対は混じりけのない、ピュアで比較するものがない単一なのです。普遍はひろがりでどこまでも同じで、ローカルにここは違うということがなく、やはり単一です。絶対も普遍も単一という唯一の〈一〉です。
〈一〉という記号を使いますが、一者性という意味です。ゴッドは〈一〉の源です。そしてゴッドが授けた人格をもつ人という定義においては、人格は日々に新しいといわれます。つまり、生まれてくる子に付与された人格はこれまでにない新しい人格であり、唯一であって、〈一〉を表わしているのです。このことが人は神の似姿であるといわれ、また個人の尊厳となっているのです。
議論は正しさを求めてなされます。議論を交わす人はお互いに尊重する異なる人格をもった個人であり、それぞれの根拠から矛盾のない合理的な論理、すなわち首尾一貫した主張を通じて、正しい結論を提示します。実際は結論をはっきり最初に述べて、その理由を順次述べていきます。私たちはそういう話し方が苦手です。どうしても、ああではないか、こうなのだろうかと、自問自答も交えて、相手の立場や、世間を意識しながら、最後に絞り出すように、これこれこうだと思います、というのです。それは最初思っていた結論と違っていたり、自分でも意外に思う意見であったりします。どうしてそうなってしまうのか、日本語を使う人間について、次回も考えていきます。